経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生き続ける理由が見つからない

人間は、やれ理想を実現するために生を受けた、だとか、人生は、人間とは生きるとは何たるかを知るための旅だ、などと言われますが、人間の生も蟻の生も草花の生も同じだと思うのです。
命の重さなんてものは良くも悪くも万物皆等しく、実際は重さなんてないのかもしれないとさえ思えます。ただ理由もなくそれらは存在しているだけで、そこには何の意味もない、というのが私の中では真理です。
ただ生まれ、死んでゆくだけ。過ぎてゆくだけ。理想も旅も、幸福も不幸も、そんなものは知能を持ちすぎた葦の空想ではないか、と思うのです。
長年そんな思考で生きていると、生き続けなければならない理由が見つけられないのです。
ですが、世の人々の意見を聞いていると、どうやらこの世というのは生きていることが正義らしく、たとえ廃人になって何も考えられなくなったとしたって生きてさえいればよくて、生きている、命があるという事実が大切らしい。
でも生きていくためには飯を食わなければならないし、そのためには働かなければならない。
でも、そうまでして飯を食わなければならない理由も、そのために週5日毎日8時間も働かなければならない理由も私にはわからず、延々と終わりなく繰り返される日々が苦痛で仕方がないのです。
半年で仕事も辞めてしまいました。
親より先に子が死ぬのは最大の親不孝、と聞いたことがあるので親が死ぬまでは生きなければならないのかもしれない、とは思い生きてはいますが、許されるのであれば今すぐ終わらせてしまいたい。
今更夢も希望も未来もなく、ただ漠然と毎日をやり過ごし、生きていなければならないから生きている現状が苦痛でなりません。

感想1

投稿者さんはこの文章に苦痛や絶望感を込めて書いておられるのだろうとも思って読ませてもらったのですが、流れるようなさららとした文章に何と柔らかで詩的なのだろう、というのが最初に感じた感想でした。

生き続ける意味とはなんなのでしょうね。書いておられるように、ただ生きてさえいればよいという風潮も確かにあるなあと思いますし、それはともすれば「そんなこといっても生きていくことが苦痛」という言葉を封じてしまうようにも感じています。生きていればというわりに、生きるための苦痛や苦労は個人に任せられるような雰囲気もあって何の修行なのだろうとも思います。
自分自身のことを振り返って考えると生まれてからこれまで生き続ける意味が分かった試しはないですが、それでも私が今生きるという選択をしているのは、どの点で終わらせるかということをまだ見定められていないだけなのかもしれません。個人的に人生は現在完了進行形だなと感じていて、過去があって現在の地点を通過しながら先に向かっていくように思っています。人生の終着地点のわからない私にとっては希望とか夢とかそういったものに引っ張られるのではなく、どちらかというとなぜ今の自分がこの状態なのか、ということを考えて過去を反芻していると現在が過ぎていつの間にか先に進んでしまっているような感覚です。自分語りになってしまって申し訳ないのですが、生きる意味や生き続ける意味を特段持ってはいないけれどそうやって生きている人もいるということが何となく知ってもらえたらなあという気持ちです。

読んでいる中で少し気になったのは、命というのはただ存在するだけと思う気持ちと同時に夢や希望のようなはっきりとした生きる意味の必要性を感じているのかなというところでした。人も蟻も草花も同じ生でただ在るだけだからこのままゆっくりと目と閉じてしまいたい投稿者さんと、それを叩き起こすように社会の中でのあるべき姿像を意識している投稿者さんが同じくいるようにも感じています。日々ご自身の中で考えるのみならず、周りの人や社会の中で言われていることも受け取り意識して過ごされているのではないからではないかと想像すると、それが投稿者さんを板挟みにしているところもあるのかもしれません。それは投稿者さんの性格ということではなく、社会的に求められることの多さやあるべき姿のストライクゾーンが狭いことに起因するように私は思っています。もしよかったら、またそんなところも投稿者さんの言葉でお聞きできたらとも思いますし、そうでなくても気持ちの吐き出しや整理にこの場を使ってもらえたらと思います。

感想2

人は生まれて、生きている間、その「状態」をどんなふうに受け入れ、折り合いをつけるか、ということを(意識的・あるいは無意識のうちに)念頭に置いて生きているイメージがあります。人間の知能が理想や幸福を思い描くとしたら、そこには同時に「目の前のことを理解しよう(受け入れよう)と工夫する」能力も強く存在しているような気がします。ただ知能が理性的に考えた結論だけでは耐え難い部分があるから、人には「心」という概念があるのかなあと…そんなことを想像しました。心がなんらかの拒否反応を起こしていて、でも目の前の状態を変えることは難しい、そんな時に、生きる理由であったり、自分が苦しんでいる状態を思考でもって理由付けすることで、その場をどうにか乗り越えていくだろうかと。あなたの価値観もまた、現状を受け入れようとするためのものなのかなと勝手ながら想像しました。自分(あなた)の生殺与奪の権利を手放さないように辿り着いた解釈が今回書いてくれた経験談のように思えると同時に、自分の価値観のみに従うことを許されない(と感じる)世の中への徒労もあらわれているように感じ、あなたが普段から多くのプレッシャーとストレスに晒されながら社会の中に暮らしていることもイメージしました。

生きることへの徒労の傍らにはしばしば、「生きる意味が見つからない」という表現があるような気がするのですが、私はその言葉を聞くと「厳密には意味なんてないだろうな…」と思います。この点で、あなたが書いていたことには概ね同意する感覚があります。一方で、「意味を感じられない」という状態は、文字通りの「意味」らしきものを求めているというより、「意味」や「価値」を感じられるような生活がしたいという願いであったり、もっと言えば「意味」なんてものを考えなくても安心して暮らせるようになりたいという祈りだったりといった、その人なりの苦しみの表現なのだろうなと感じます。あなたが意味や理由といった根幹的な問いに至るより手前には、そうした「あなたの苦しみ」が横たわっているのかなと、勝手ながら想像したところです。あるいは、意味や理由という一般化された概念に照らすことで、ご自身の人生と距離を取り眺めている、そんな節もあるのか、尋ねてみたくなりました。人生や生きることに対して何らかの意味付けをする人は、すでに意味を感じている人なのかもしれないと思うと、そういう人の言う「意味」や「理想」と、現状意味を感じられない自分の価値観をフラットに並べて考えるのは、そもそも見ているもの自体が違うのかも(だから比べなくていい、比べようがないものなのかも)と、そんなことを考えました。

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