子どもを産んだ。
辛い不妊治療の末にやっと授かった。
雨の日も雪の日も電車を乗り継ぎ 通勤片道2時間、悪阻を乗り越えて大きなお腹を抱えて働き続け、27時間の難産の末に腕に抱けた、温かくて可愛い我が子。
子どもが欲しいと望んだ時から、どんなことをしてあげられるか、どんな子が生まれてきて、どうやって育てようか、どうしたら立派な一人前の人間に育て上げられるか。
毎日たくさんの本を読み、連日人に話を聞き、夜な夜なインターネットで育児について調べ上げた。時間はいくらあっても足りない。
これからの人生、親として恥ずかしくない人間になろうと誓った。
夫とは見合いで結婚した。
お互いに強く子どもを求めての見合いだった。子育てについての方針は一致していると思っていたが、結婚後、同居を始めてから頻繁に連絡がつかなくなった。
ほどなくして妊娠したが、日付を超えて帰って来ない日もあった。お酒を飲むのが好きらしい。
結婚前は付き合いや嗜み程度と聞いていて、過度な飲酒が趣味だと知ったのは妊娠後だった。
妊娠中の身にフルタイムの仕事は辛く、家に着くなり倒れ込み、泥のように眠った。食事は帰宅途中の通勤路で買ってしのいだ。
あれほどふたりで強く望んだ子どもだったのに、妊娠後、特に飲酒を強く責めたあとからは家の中で避けられるようになり、お互いに顔を合わせることもなくなった。
育児に関する知識も関心もないようで、自分から何も調べようとしてくれない。ベビー用品は私が細かく下調べをしてネットで買い集め、高額商品の買い物だけには夫を付き合わせた。
いつも私が言うまで何もせず、仕立て上げられた結果だけを受け取ってありがとうと言うだけの夫に嫌気がさして、半ば突きつけるように育児に関する書籍をリビングに積み上げた。
見合いを済ませ、夫に同伴するために引っ越してきた土地は、親元から遠く離れ、方言があり、雪の降る土地だった。山間部で起伏が激しく、車のない私は孤独で、元いた土地が恋しくもなったが 未来の愛する子どものためと思うと頑張れた。
そうして生まれた待望の我が子は可愛く、夫とふたりで育休を取って育て始めたが、10ヶ月間、いや、もっとずっと前から日夜情報を集め続けた私と夫で育児のノウハウや興味関心のレベルに大きな隔たりを感じた。
「おかしい、ふたりとも子どものために結婚したのではなかったか。」
私は子どものために愛する土地も交友関係も元の仕事も諦めてきたのに。この人の生活だけは何も変わっていないんだと思うと、虚しい気持ちになった。
私が妊娠してから、慣れない土地で夫に避けられ手は借りられず、小さな命の責任が私だけに委ねられた状態で泣きながらこの子を守り抜いたこの一年弱、夫は一体何をして過ごしていたのだろう。
数ヶ月後、夫は私との生活苦を理由に家出し、行方不明になった。どこにいるのかも何を考えているのかも分からないまま、連絡はつかない。
半月後に見つかったが、私と話すことが精神的苦痛とメールで告げられ、一切の連絡が途絶えた。
子どもが生まれたあとは何度も検診があり、保育園の手続きもある。預けて働けなければ母子で路頭に迷うしかない。役所や行政、会社との手続きの締切が迫るが、夫とは連絡がつかない。泣く子を片手であやしながら、役所のありとあらゆる部署に電話をかけた。
今私が倒れたら、この子は誰にも気付いてもらえない。生きなくては。赤子は一時たりとも目が離せず、うとうとと寝落ちしては子どもの呼吸を確認して安堵する。妊娠中と同じ、この子を守れるのは私しかいない。
眩いほどの生命の輝きの隣で、私の命が削れる音がする。
明日、私の目が覚めなかったら、この子はどうなるのだろう。
5分後、私が部屋で倒れたら、この子は誰かに助けてもらえるだろうか。泣いたら助けに来る?誰が?
その恐怖を考えない日はない。
今、夫と私は、どちらが死に近いかを競い合い、まるで周りの人間の同情を誘うべく、その点数を肉親に見せ合っている。
実に無様だと思う。情けない。それでも私は明日を生きなければならない。
この子を腕に抱く幸せのために、乗り越えてきた苦しみと涙の数を思えば、この苦しみは朝露のようなものだと言い聞かせ、私は今日も心で泣き、隣で眠る我が子に微笑みかけている。
感想1
「子どものために出来ることは何でもする」そんな強い意思を感じると同時に、その命を自分1人で繋ぎ続けることの大きすぎるプレッシャーや心身の疲弊を感じ取りました。子どもを守ることを中心に据えてあなたが奔走しつづけてきた様子を思い浮かべながら、子どもへの思いが強ければ強いほどに必死さは増し、まさしく命が削れるような状態なのだろうとイメージしています。何よりもまずは、その思いと日々を労いたいと思いました。
子どもを持つという望みを叶えた上で、その子どもの命に対して懸命に向き合おうとするあなたの生活を想像すればするほど、同じ望みを持ち、本来なら協働していけたはずの夫さんの行動に対してあれこれ言いたくなる私がいます。子育てに対する価値観が違うことや、何をもって対人に苦痛を感じるかということ自体を責めることは難しいのかもしれませんが、せめて社会的な責任を果たすことは放棄しないでほしかったなと…。社会的に、妻が生活やキャリアの変化を求められがちだったり、また子どもを育てることについて社会的養護が不足しているという問題もベースに横たわっていると思いますが、それを補って有り余る無責任さをどうしても感じてしまいました。
夫さんに対する未消化の思いと、子どもに対する責任、情けなさや虚しさに立ち止まる暇もないまま、目の前の1日1日を乗り越えている生活だと思います。そのはざまで今回、あなたの声を言葉として届けてくれたことを確かに受け取りました。実務的なことに追われる中で置き去りにせざるを得ない感情を、またここで吐き出してもらえたらと感じています。