経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

繰り返し壊れるトラックのような

自分の人生を振り返ると、危険な行為で自身の生命を削る事でしか渇きを満たすことが出来なかった。幼い頃から無意識に死を求めていたのかもしれない。
必死に走っては定期的に壊れて修理して、また必死に走ってはすぐ壊れる。そんなオンボロトラックのような生き方しか出来ていない。
学生時代、社会人になっても冴えない評価が与えられた時「ああ、お前はそういうやつなんだな」と全員から思われたような気がして勝手に苦しんだ。家族もその評価を否定せず呆れた顔をしていた。
その度に粗悪な物で身体と心を傷つけて底なしの渇きを潤した。
自分なりに努力しても理想についていけず空回りするか、更なる高いハードルやノルマを用意され続けしだいに失速し壊れてしまう。

もはな、誰からも認識されたくない。何をしても虚しく渇きが酷い。
私は私という存在が重すぎて耐えられないのです。

感想1

社会が持つ評価的なまなざし、それを無意識に浴び続けることの息苦しさについて考えながら読みました。文末の「誰からも認識されたくない」という願いの背景に横たわるものでもあるように想像しています。社会の目に晒されている以上は、重りだけが勝手に足され、それを降ろしたくても軽減したくても自分ではどうすることもできないような…。

互いに余裕のない今の社会の中で、正しいルート、ふつうのルートに”乗れない”人は、追いつこうと必死に走り続けるか、諦めて「諦めた自分」として生きていくしかないようなところがあると思います。投稿者さんが危険な行為や粗悪なものと表現したものたちは、一般に「健康や安全を害する」と評価されるものなのかもしれませんが、一方でそういった善悪を軸に人の行いを見る(評価する)価値観によって、無いものにされてきた苦しみや生きづらさが確かにあるように感じました。
評価において過程を見てもらえることは残念ながら稀で、だからこそ結果だけを見れば「壊れた」「止まった」ということになるのかもしれませんが、そもそも壊れるほど必死に走らなくてはと感じる仕組みに問題があると思いますし、立ち止まることをフラットに捉えられる余力を持たない今の社会があまりにもせわしすぎるのではないかな、と私は感じました。

感想2

私は自分のことを長年野晒しにして壊れかけた自転車をなんとか廃品にしないまま動かしているって思っているので、なんだかかなり「わかる」という感覚がありつつ、トラックだと、自転車よりもだいぶ力強く疾走しているような感じなのだろうか…と考えたりしていました。車ってエンジンがついててすごく怖い金属のかたまりだな…と思うことがあります。それを制御できるようなつもりになっている世の中のほうが、なんだかおかしいのかもしれません。……なんて、比喩に比喩を重ねていってすみません。
具体的なできごとが書いてあるわけではないけれど、あなた自身がずっと抱えてきた切実な感覚を分けてもらっているような文章だと感じました。私は20代までアディクションに溺れつつ限界まで無理をし続けては鬱でまったく動けなくなるのを繰り返していたのですが、あなたにもそんな持続と制御のむずかしさがあったりするのかなぁと想像しました。また比喩の話に戻ってしまうのですが、人生や自分のことを比喩で語ることにもなにか意味があるのかもしれない、比喩なしでは語れないこともあるような気がする…と思ったりしていました。
私は最近は、自分が運転しやすい道を探すことを第一にして、突然ハンドルを切り違えても大丈夫なように道を整備するような感じで生活をなんとか積み上げようとしてみているところです。壊れたトラックにはきっとメンテナンスももちろん大切ですし、ちょっとした整備の方法がわかると、壊れるようなことも少しは減るのかもしれないし、あるいはあなたが走りやすい、たとえば他の車に煽られたりせず、景色を眺めることもできるような道もあるんじゃないかなぁとも考えていました。
全然まとはずれなことばかり書いていたらすみません。あなたの生きてきたことを言葉にして表現してくれてありがとうございます。

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