経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ぐちゃぐちゃ

まず始めに、最近言葉にまとまりが持てなくなっており、文章が支離滅裂になりやすく、話の流れがおかしかったり、矛盾点が多かったりしますのでご了承ください。それでも読んでくださる貴方へ。何か素敵なことがありますように。

私は、これまで色々なものを捨ててきました。わがままな自分、好き嫌いのある自分、主張が激しい自分、優しくない自分、人のせいにする自分、親に反抗する自分など、、いつしか自分の感情の変化に気づきにくくなっていました。
捨て始めたきっかけは、多分家庭環境が大きいのではないかと思います。小学生の時に両親が離婚しており、母からは「私は一人で子育てしているのだから、親孝行をするいい子じゃなきゃだめ」と遠回しに言い続けられてきました。また、いかに母が大変か、毎日のように語られており、「母は可哀想だから優しくしないと」と刷り込まれていました。
小学生の時の三者面談では、「娘は学校では頑張っているようですが、家では全然だめです。どうしたら家でもしっかりしてくれますか。」と先生に尋ねている様子が今でもやけに印象に残っています。
そのようなことがあってか、交友関係においては、第三者に「あなた、そのお友達嫌いなんじゃないの?」と言われるまで気づかない、仲良くしていると思っていた友達が、実は友達とは言えないほどの過度ないじりをしていたり、私を同等に扱っていないことに後々気づきます。(これも第三者に言われてからですが)
それは家庭環境にも大きく影響していたように感じます。中学では母が再婚することになりましたが、反対することもなくすぐに了承しました。(後々嫌だったことに気づきます)そこからは、さらに良い子でいる事に固執しつづける日々でした。
自身の感情をまとめるために書き連ねるつもりでしたが、ここから上手くまとまりそうになく、箇条書きのようにさせてください。
大学生になってから、父の店でバイトをしていましたが、父からの過度なスキンシップが多く、本当に嫌になっていました。そこで父が嫌いだと言うことを初めて自覚し、必要最低限のコミュニケーション以外は全て避けるよう心がけていました。その後母に相談したところ、私が距離をおいた時期から浮気をするようになっていたことが発覚し、今まで以上に父に対して生理的な拒絶反応が出るようになりました。そして事は離婚まで大きく進んでいた時、父の癌が発覚しました。母はそれまで行っていたことを全て水に流し、父と闘病する決心をつけました。また、私にも同様に父と仲良く過ごすことを促してきました。私にはどうしてもそれが耐えられませんでした。
いつもストレス発散として、一人での行為をすることで流涙していたのですが、それでも耐えられなかったようで、希死念慮を行動に移すレベルになりました。
このまま父の病気が悪化すれば良かったのですが、運良く治療できてしまったようです。早ければ今週末に父は帰ってきます。
ここ半年、特に意欲の減退が大きいです。最近は散歩に楽しさを感じていましたが、母に「ええ…時間が勿体ない…」と否定されてからは何も感じなくなりました。趣味はありません。今までは何事にも興味を持っていましたが、今は何もありません。休日の大半は一人での行為によるストレス発散です。(約5~8時間程度)また、人の前で今までの態度を取り繕えなくなりました。
経験談というには何の教訓もなく、ただただ生きることに疑問を感じたため作成いたしました。生きる意味も理由もありませんが、死ぬ意味も理由もありません。うつ病と言うほどのものではないなと感じております。
恋人など、家庭外に助けを求められる相手がいればいいのですが、特にありません。また愛に飢えていても求める相手がいません。過去には恋人がいたこともありますが、今は恋愛感情も湧きません。正直しんどいです。
愚痴のようで申し訳ない上、誰かの目に留まることも大変心苦しい気持ちですが、すこしでも誰かに寄り添って貰えないだろうかと縋る思いです。
あらためて読み返してみると、起承転結のまとまりがない上に、伝えたいことが記載されていないことも多く、まだまだ自身の感情を表現することに苦手さがみられるなと思いました…

明日も薄い命が引き伸ばされますように

感想1

全体を通して、抑制された文体でありながら、比喩や具体的な出来事の中に、あなたの感受性から生まれた感覚や表現が見られて印象的に感じました。あなたが「捨ててきた」と書いていたのは、その時々のあなたにとって、そうしなければ許されなかったり、そうしないと生きていけないようなことだったのではないかと思いました。

私は人はさまざまな刺激を感知し、認識の中で感覚や感情として自覚してゆくプロセスがあると思うのですが、さまざまな先天的・後天的事情の中で、その自覚がむずかしい人が少なからずいると思っています。
実際にそのプロセス自体がなくなったわけではなく、抑圧したり、自分から切り離したりする中で、自分のことがわからない状況があるのかなと私は解釈しています。そう考えるとあなたがその時々で「捨てた」あなたは、本当に捨てられたというよりも、どこかに押し込められていたり、蓋をされていたりするような感じなのかなぁと思ったりしました。

三者面談でのエピソードを読んで、母親さんはあなたになにか自分を投影しながら、あなたを育てていた部分があるのだろうか?と思ったりしました。
人はだれかになにかを投影してしまうことはよくあるとは思うのですが、それが自覚なく強い状況では人と人の境界線はおかしくなってしまいますし、とくに親子の二者関係の中では、力関係が対等ではないので子どもに大きな負担がいってしまうと思いました。
母親さんもサポートが必要な状況だったのだろうと思います。それが不足していたのは社会の問題で、そのしわ寄せが幼いあなたに向かってしまったように私には感じられました。

父からの過度なスキンシップというのも、本来まったく許されない行為だと個人的には感じました。ただ、家族ということであたかも罷免されてしまうような世の中のムードが日本にはまだ多く、とても課題だと感じます。
その中で距離を置く判断をあなたがしたことは大切なことだと感じましたが、闘病を経て、また関わりが必要な状況が増えてしまう現在があるのかなと思っています。

家の中ではあなたは気を張るしかなく、それがスタンダードな状態になっているのかなぁと想像します。それは知らず知らずのうちに心身に負荷をかけるものだと思うのですが、そうやってずっと生きてきたのだとしたら、他にどうしたらいいかわからなくなりそうだと思っています。

散歩、私も好きです。「前に町を歩いている時なにを見ているか」をいろんな人に聞いて回っていた時期があるのですが、人によって見ているものは本当に違うのだとわかりました。私は木や花の名前をあまり知らないのですが、最近は教えてくれるアプリもあるので、そういうので調べながら歩くのも楽しいですし、建物を見ることも、小さな場所から雑草の生えている力強さに驚くのも、風や日差しなどを感じるのも心地よいと思います。歩くこと自体、体を使っている感じがするのも好きです。「時間が勿体無い」と言った母親さんは、散歩でなにかを感じる余裕も奪われてしまっているのだろうか…と思ったりしました。

また、一人での行為というのもあなたにとって数少ない対処法なのかなと思いました。女性はそういうことを言ってはいけない圧力がまだまだある気がしますが、私の知人友人女性たちに聞いてみると、睡眠のときにしてるとか、いろんな声を聞きます。これまで私も自分で性依存かなぁって思ったことがあり、今もいろいろ悩ましいのですが、その場合問題は、むしろ、ほかに興味や刺激や頼るものの分散ができないでいるということだと思っています。
もちろん、それってかんたんじゃないし、とくに家という本当ならいちばん安心できる場所になるべきところが、気を遣わなければいけない場所になっているとき、なんらかの逃避的な時間が必要になるのも無理はない気がします。

経験談の中でも、あなたが死にトリの経験談のあり方に配慮を重ねているのが気になりました。経験談に正しいも間違いもないし、起承転結もオチも教訓もいらないし(人生にそんなに簡単に教訓もオチもないものだと思いますし)、矛盾があるのが人間で、あなたの経験談にはなにも問題はないと思います。自分を強制的に見つめさせられ、検証し続けなければいけないような圧力の中で、あなたはなんとかあなたを保って生きてきたのだと思います。最初にも書きましたが、あなたは感情に気づきにくい、表現が苦手だと書いてありましたが、言葉選びや書きぶりのなかに、あなたの感性がにじみ出ているように感じました。なんだか、私はあなたともっと声を交わしてみたい気持ちになっています。どんなことを話したらいいのかはわかりませんが、あなたのことをもっと聞いてみたい気持ちになりました。投稿するのにも様々な葛藤があったのかもしれませんが、その中でここに投稿してくれてありがとうございました。

感想2

タイトルが「ぐちゃぐちゃ」で、確かにあなたの心の中はかなり混乱しているように思えました。ただ、不思議と大きな海の凪のような静けさがあなたの経験談に漂っていました。それはおそらく、あなたが長い間、捨ててきたもの、抑え込んできたものたちが海底の奥深くに沈み込んだ上での静けさのように思います。海底には捨ててきたもの、抑え込んできたものがぐちゃぐちゃになって渦巻いているのかもしれません。また、そのぐちゃぐちゃが少しずつ騒ぎ出し、静けさを保っていた大きな海が大荒れになる前触れなのかもしれません。
ただ、読んだ私はあなたの中の海がこうして騒ぎ出したことに少しほっとしました。それは本来あなたが感じてきたこと、感じていることが息を吹き返してきたように感じたからです。子どもの頃から生き延びるための戦略として捨ててきた自分の感性や気持ちが、捨てられたのではなく、奥深いところにしまってあったのだろうと思うからです。そして、過酷な環境の中にあっても、絶妙なバランスで湧き上がる自分の気持ちを抑え込み、親の期待や意向にそう行動をし続けること想像すると、どれだけのエネルギーやストレス、犠牲があったのだろうかと、心から労いの気持ちを伝えたくなります。また、労うだけではなく、あなたの芯の強さに敬意を抱く気持ちもあります。いくらいろいろなものを捨てても、父からの過度のスキンシップに対して明確な嫌悪感を抱いているのが印象的でした。あなたの感性が自分を守ろうとしていることがよくわかりました。だからこそ、あなた自身が何とか自分を守ろうとするだけでなく、それを応援し、社会的なサポートを活用してでも、あなたの尊厳を回復し、安全が保障されることを願いました。家族と言えども、別の人格であり、年齢的にも大学生であろうあなたには自分の人生を選択する権利もあると私は思います。そして、あなたには自分のための選択をする力もあると私は感じました。なぜなら、こうして自分の経験を書き記し、誰かに届けようとする行動ができるからです。
あなた自身は経験談というには教訓もないと書いていましたが、あなたの経験は私たちに多くの教訓を与えてくれると思います。親という力の前に子どもはいかに自分を抑え込み、期待に応えようとするのか、そしてその努力は涙ぐましくても、周囲に気づかれることなく、逆に子どもの意思や希望のように認識されてしまうこと。子どもは現実を変える力がないので、自分の力が及ぶ感情、意識、自分の希望などを操作して、生き抜こうとすること。そうした子ども時代の積み重ねは死にたい気持ちとして、長い期間の苦しみとしてありつづけること…などなど。似たような経験をして苦しむ人たちは自分だけではなかったと勇気づけられるかもしれませんし、子どもや若者たちと関わる人たちにとっては理解するための手がかりになると感じています。
これからも、もしもここが何かしらあなたが自分を助ける手助けになるようならまたいつでも来てください。待っています。

一覧へ戻る