30代です。希死念慮を持ち続けています。最初に死にたいと思ったのは小学三年生の時でした。なぜかはもう忘れてしまいましたが、ノートに「わたしなんて死んじゃえ」と書きなぐったのを覚えています。
ずっと、自分は「いい子」(ものわかりの”いい子”)(出来の”いい子”)でいなければならないという強迫に縛られ続けているなぁと思います。
「出来ない」「不得意」といったことにぶつかると途端に自分はいい子でなくなったように思うのか、未だにそういったことに敏感でなにか失敗することを非常に恐れています。
また、他人の目を必要以上に気にしてしまうところもあります。これは中学生の時、同世代とのコミュニケーションが苦手で部活の中で浮いてしまい、ハブられていたことがトラウマとなってしまったのだと思います。
自意識が過剰で、自分は何でもできなければと思うことをやめられず、学生時代から今になってもずっと苦しみ続けている自分が愚かで哀れです。自分で言うのもおかしいですが、比較的勉強は出来たし好きな部活でも結果を出して楽しく過ごしてきたはずです。親に愛されて友達にも恵まれてきたのに(経済的には貧しかったですが)、なにか小さな壁にぶつかっては苦しくて死にたくなってしまいます。
私がいろんな物事を気にしすぎずある程度受け流す力を身につければ、楽に生きる事ができるのだと分かっています。しかしそれは、「いい子」でいる努力を怠っているように思ってしまうのです。私を生きづらくしているのは私です。
このループに陥っている方は私以外にもいらっしゃるのではないかと思います。どうか、一緒に抜け出しませんか。抜け出した方はアドバイスをください。よろしくお願いします。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
生きづらさ
感想2
短い中にもぎゅっとあなたの生きづらさ分析がまとまっているレポートのようでした。最後に同じような思いをしている人からのアドバイスを求める思いが綴られていましたが、私自身はあまりいい子でいようと思うタイプではないです。ただ、障がいをもつ子どもの子育てをしたときに「いい親でいなければならない」「今頑張らなければ、子どもの将来がない」と自分を自分で追い詰めた経験があるので、その時の自分を思い出しながら書いています。
まず、「いい子」とか「いい親」というのがどこから来るのかという問題があります。これは自分が描いたようで、実はそうではなく世の中にある「こうあるべき」「これがいい子」という期待や理想を内在化しているものだと私は思っています。あなたは「私を生きづらくしているのは私です」と書いてました。確かにそうだと思う側面はあるのですが、人は社会的な存在で周囲から常に影響を受けているので、その要素を含めると「個人である私を生きづらくしているのは、社会から影響を受けている社会的な私です」と言えるのではないかと私は思いました。自分の経験として「何が何でも頑張り続けなければ」と思い詰めたところから逃れられたのは、社会的な自分が少しずつ変化したからだと思っています。実際に自分を追い詰めて頑張ってみたことで「もういいのでは」と思えたこともありましたし、何よりいろいろな人たちと本音で話す機会があったことが大きかったと感じています。
あなた自身は自分のことをよく理解している人だなぁと思いました。その自己分析力はループを抜けるための力になると思いました。今回こうして自分以外の人に自己分析を伝えたのは自分の力でループを抜け出そうとする第一歩のように思います。身近に誰でもいいので、こうした本音を一緒に話ができる人がいたら、何か変わるかもしれないと思いました。
感想1
投稿ありがとうございます。
「いい子であり続けること」と「楽に生きること」を天秤にかけ前者を選ぶことができる部分に私は思わず尊敬の念を抱きました。また、投稿者さんにとっての「いい子」とはどういった像なのか、いろいろ考えてみたのですが「失敗しない」といった要素も含まれているのかな、と感じました。
どうして投稿者さんは「「いい子」でいなければならないという強迫に縛られ続けている」のか、私はとても気になりました。勉学・部活動に恵まれ、親御さんに恵まれ、友人に恵まれていたからこそ、それらを失わない(失敗しない)ために「いい子」でい続ける必要があったのか、「いい子」でい続けたからそれらを得ることができたのか、投稿者さん自身の性格的な部分なのか、様々な考えが浮かびました。「いい子」でい続けることを「努力」と認識されていることから、投稿者さんのひたむきな部分が表れているようにも感じましたが、同時に、「いい子」であるためには、周囲の評価を気にし続け気を張り続ける必要があるように感じ、そんな状態がずっと続いたら精神的に疲れるし参っちゃうなぁ…とも感じました。
ある程度受け流すことができたら楽に生きることができるのではないか、と私も感じますし、同時に悩んでいるところです。ただ、「受け流す」=「いい子でい続ける努力を怠る」という風にもたしかに見えますが、個人的には「受け流す」=「休憩」とも認識しています。フルタイムの勤務で休憩が全くないのが身体的につらいように、生きていくうえで精神に少しの羽休めもないというのはとても酷なことではないかと感じるのです。身体を休めるのと同じように、心を休める感覚で受け流すことは少なからず必要かもしれないとも感じます。(それが難しいんですが…汗)
かくいう私も、投稿者さんの言うループの中から抜け出しきれていない立場ではありますが、この投稿があったからこそ、生きづらさの根本にしっかり向き合うことができたと感じています。また何かあったときには、ここに書きに来てもらえたらと思います。
改めまして、投稿ありがとうございました。