経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

将来が分からない

大学2年生です。やりたいことが見つからず、将来の自分に希望が持てません。

私は中学3年間、いじめを受けていました。過激になってしまいますが、苗字ではなく容姿を罵る蔑称や害虫の名称で呼ばれるような毎日でした。勉強して主犯格グループとは別の高校に進学できたものの2年生の夏に突然不登校になり、通信制高校へ転校しました。そこから偏差値のあまり高くない大学へ進学させてもらい、現在に至ります。

講義にはほぼ皆勤で出席しています。友人もできました。単発のアルバイトから始めて学内の企業とコラボして商品を作るプロジェクトに携わったりボランティアをしたり、様々なことに手を伸ばせるようになりました。
しかし、大学の勧めで就職課と面談をしたところ「経験に一貫性がない。自分が何になりたいのか、来期までにしっかり考えてみて」といったアドバイスを受けてしまいました。

自分なりに現実と向き合っているつもりでした。
実を言えば未だに人混みは怖いですし、外出先で主犯格グループに似た集団を見て息が詰まりお手洗いに逃げた瞬間涙が止まらなくなったこともあります。
ただ、私はできるだけいじめられていた過去を何もしない理由にしたくありません。どれだけ人の力を借りながらでも拙くても何か新しいことをやっていればいつか将来に繋がると思っていました。その動機が全て自分が本当にやってみたいからではなく「他の同年代とできるだけ同じような人生を送りたい、履歴書に書けるような活動をしたい。これ以上遅れる訳にはいかない」という劣等感のような気持ちから来ていることに気付いてしまいました。大学入学から1年半、やっと立ち直れたと思っていたのに、私はまだ過去に縛られたままでした。

そして、自分の輪郭が「いじめられた過去から這い上がりかけつつある」というもので形作られていることを自覚しました。ものすごくショックでした。
いじめられたから今の私があるのだと、裏を返せばいじめられた過去を抜けば私には何も無いのだと、突きつけられているような気持ちになりました。

何より、自分に「将来を選ぶ権利がある」という感覚が今まで無かったことに気付きました。経歴がボロボロで長期のアルバイトにすら受からず、取り柄が特にない自分はとにかくどこでもいいから就職できればいいと思っていました。

私のやりたいことは何なのか、私が1番知りたいです。
数ヶ月前に20代になった事実もゆるやかに私を責めてきているような気がします。もう大人なのにずっと中学生のような考えのままでいたことが恥ずかしいです。
自分が何のために生きているのか分からないまま歳を重ねると思うと、ひどく憂鬱でたまりません。

私の人生は、何なのでしょうか。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。文章を読んでいて、“前に進もう”とする強い意志と、“過去から逃れられない”という痛みのせめぎ合いを感じました。どちらか一方が勝っているわけではなく、どちらも確かにあなたの中に共存していて、それが今のあなたを形づくっているように私は感じています。
いじめという経験は、心の奥に長く沈殿するものだとあなたも他の経験談を読んでも、そして自分自身の経験からも思うことです。時間の経過で癒えるというより、折り重なった日常の中に少しずつ溶けていく感覚というのか…その中で、あなたは「できること」を見つけて、大学での学びやボランティア、プロジェクトといった形で動いてきたのですよね。それは“回復”や“前向きさ”というより、“もう一度、自分という人間を取り戻したい”という切実な行為だったのではないかなと私は思います。けれどこの社会は、「一貫性」や「自己実現」という言葉で人を評価する傾向になりがちで…そこに合わない人は、努力していても「方向性がない」と言われてしまうことも多々あって、まるで“真っ直ぐ進むこと”だけが生き方の正解であるかのように言われているような、そんな価値観だもんそりゃ生きづらくもなるよね…と思わず辟易してしまいます。実際は、人はずっと真っ直ぐなんて進めないと思いますし、特に一度深く傷ついた人ほど、“立ち上がる”ことそのものが生きることの中心になるものだとも感じています。だからこそ、「何をしたいのか」が見えなくなるのも自然なことであってあなた自身に問題があるわけじゃないよと声を大にしてお伝えしたくなりました。いじめの経験は、あなたの人生を定義するためじゃないと思いますし、いまだ終わらない問いのように、ただ静かに現在へと影響を与えているだけに過ぎないのではないかなと考えたりしました。(何も分かっていないのに偉そうにすみません…)
いじめられた過去から這い上がるという感覚を自覚した時に感じたショックには、「私はそれ以外の何者でもないのかもしれない」という恐れとか不安があったのかもしれないなと想像しています。でも、“這い上がりかけている”という表現の中には、すでにあなたが“生きる”という選択をし続けてきた証があるように私は捉えました。
大学生という時期に「やりたいことがわからない」と感じることは決して珍しくないと私は思いますが、あなたの場合、それが“過去との対話”と重なってしまっているのかなと感じています。それはただの迷いとかではなく、自分という存在をもう一度どう構築し直すかという葛藤でもあると思います。いじめによって奪われた“選ぶ自由”や“信じる権利”を、今あなたは少しずつ取り戻そうとしているのではないでしょうか。だからこそ、「何になりたいのか」を急かされると苦しくなるのではないかなと…。何のために生きるのか、自分の人生は何なのか、その答えはそう簡単に見つかるものではないかもしれませんが(私も同じようにずっと自分に問いてはぐるぐるしています)、どうかそんな苦しさの中であなたがちょっとでも一息つける時間が訪れてほしいなと思いますし、無理なくあなたがあなたでいられるものを見つけられていくことを願っています。また死にトリがあなたにとって何か役に立つようならいつでも活用してください。

感想2

いじめという行為が、それ自体の惨さだけでなく、その後のあなたを「いじめの経験ありき」にさせる(そしてそれに気づいたあなたが苦しんでいる)とても強い威力を持っていることに、改めて恐ろしい気持ちになりながら読ませていただきました。
特に、「ずっと中学生のような考えのまま」という言葉が印象的でした。奇しくも、中学3年間の経験が自分を縛っているという気づきと符合し、自分の未熟さのようなものを痛感する形になったのでしょうか。就活の時期は、人それぞれの個性を求められているようで、実は「就活」という大きな流れに乗る(ように促される)ことで個性が削がれている節があると感じているので、「自分とは何か?」が一番掴みづらく、アイデンティティが揺らぎやすいタイミングでもあるのではと思います。

これを書いている私自身、過去の嫌な出来事やトラウマ、自分で自分の足りない(と思っている)ところを補う・回収するかのように行動しているのでは?とふいに立ち止まり、途端に自分がしたいこと・好きなことが何なのかわからなくなります。就活の時も、自分の経験にむりやり一貫性を作り上げて内定をもらいましたが、合わずにすぐ辞めました…。「心から自分のやりたいことを」と必死に考えていた時期もありましたが、最近はそれも含めて「自分」か…と思えるときもあります。明確なきっかけは多分ないのですが、1つは自分の行動や選択、誰かとのかかわり方のなかに、自分が経験してきた傷やトラウマからくる(反面教師的な)判断基準があって、それが自分の「持ち味」を形作っていることもあると気づいたから…だと考えています。そこにどれだけ過去や他者の目があったとしても、自分がそれをどう扱うかはえらべる(そこに過去と今との区別がある)のではないかな、と(半分くらい期待を込めて)思うことにしています。

少なくともあなたが自分で手を伸ばした先で得たものは、まぎれもなくあなたの中に貯まっていると思います。過去からしか自分は作られていない、ということに時に絶望しますが、そんななかでもそのまま生きている人間もいることをひっそりお伝えして、感想とさせていただきます。

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