経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私は今、自分のことが分からなくなっています。不幸自慢をしたいわけではありません。ただ、胸に溜めてきた思いを整理したくて書いています。
21歳になった今、これまでを振り返ると、自分を見失いかけていると感じます。
昔から私は「いじられキャラ」という立場でした。友人から容姿や話し方など、いろいろなことを言われても「いじめではない」と自分に言い聞かせていましたが、今思えばあれは完全にいじめでした。そう思わなければ心が持たなかったのだと思います。
その頃の私は、人の仕草や表情を読み、相手の機嫌を損ねないように振る舞うことが当たり前になっていました。幼少期からそうしなければならない環境にいたからです。両親は毎日のように怒鳴り合い、母は手元のものを投げつけ、兄は学校でのいじめを家で私にぶつけました。包丁を向けられ、泣きながら外に逃げたこともあります。幼い私は、部屋の隅で静かに息をひそめることしかできませんでした。
そんな環境で育ったせいか、中学・高校でも人の顔色を伺うことが習慣になりました。しかし最近、それがしんどくなり、何をしたらいいのか分からなくなっています。自分は何者なのか、生きる意味はどこにあるのかと考えてしまいます。
もちろん、友達と笑い合う楽しい時間もあります。でも心の奥底では、過去の記憶がよみがえり「この人は信用していいのか」「機嫌を損ねたら酷いことをされるのではないか」という疑念が消えません。
人を信じられない自分、何をしたらいいか分からない自分、生きる意味を見いだせない自分。そんな自分を前に、どう生きていけばいいのか分からなくなっています。もう一度、初めからやり直すしかない気がしています。
感想2
「自分がわからない」という言葉が指すように、丁寧に整理された言葉やこれまでがとても客観性を感じるものとして綴られていて、辛いとも苦しいともまた違う、投稿者さんの心にならない気持ちを見させてもらっているような不思議な感覚を抱きながら読ませて頂きました。
私自身、成育歴(家庭環境における家庭不和、主に親同士の関係)の影響で人の顔色を窺ったり、人との距離感がわからなくなったことから学校で道化的に立ち回っていじられたり、成人して10年以上経つ今も家ではもちろん、それ以外の人間関係でも“人の顔色を窺う”ことをやめられずに生きているので、自分に重なる部分を感じつつも(似ていることを感じるからこそ)「どんな気持ちを言葉にすればいいだろう」と思ったのが本音でした。
「鶏が先か卵が先か」ではないですが、学校にしても家庭にしても幼少期の投稿者さんを取り巻いていた環境やその人間関係における出来事や辛さは、どちらかがあるからこちらがこうなるではなく、まるで相互に影響をし合うかのようにどちらの環境でも“人の顔色を窺う”ということが共通して起こりうる(そうさせられる)ものだったのかなと想像しています。
それらの経験はある側面では自分を守るものでもあったのかなと思われますが、投稿者さんの人との営みの根幹に深く根差すようになり、ありのままの自分や気持ちに蓋をすることを強いられて、他者優位で考えてしまうこととなって「自分がわからない」という今の状態に繋がるものになっていったのかなと感じられました。
ただ、そういったことがありながら生きてきた中でも「友達と笑い合う楽しい時間もあります」とあるように、これまでとは違う人間関係や変化が既にあるのは「自分がわからない」となりつつも、“整理したくて書いています”という言葉のもとに投稿者さんが文章を書かれたように、その都度自他の奥底を知ろう、考えようと、これまでの自分や今の自分の気持ちや考えを整理しながら自分も含めた“人という存在”と投稿者さんが向き合ってきたからこそのように思った私がいます。
過去や人との関わりで受ける影響はきっととても大きいでしょうし、すぐに自分の中で答えを見つけたりするのは難しかったり、わからない気持ちを知るにはもしかしたら時間がかかるものなのかもしれません。ですが、人から受けた影響を変化させたり、軟化させる、もしくは自分ではわからなかったことに気づかせてくれるのもまた人なのかなと私は思うので、昔とは違う今の投稿者さんの繋がりの中でそれらがあってほしいと思うのと同時に、その先に「自分がわからない」という今の気持ちに対する答えが見つかってほしいなと思いました。投稿ありがとうございました。
感想1
読み始めてすぐ、二言目に正直すこし驚きながら最後まで読みました。その言葉の意図をすべてわかることはできませんが、すぐさま予防線を張りたくなるくらいには、今までに「つらい」とか「これに困っている」ということを表現する機会がない(しようにも出来ない)環境で過ごしてこられたのかなと想像しています。言葉数以上に多くの大変さや不安感を覚えてきたのではないかと思いますが、そんな中でここに書かれた言葉はどれも率直で、慎重かつ切実に胸の内を明かしてくれているように感じました。
幼いころからの家庭環境は、あなたが「自分がどう思っているのか(どうしたいのか)」を見つける余白を持たない、その場を生き抜くことだけに集中するほかないような場所だったのではないでしょうか。そのサバイバルスキルが対人関係や自己像の背景にそのまま根を張り、相手に合わせることが先立つ苦しさとなっていったようにイメージしました。自分はどんな人なのかを知る時には、他者の存在(どんなふうに接されるか)が大きく影響すると思います。だからこそ、自分自身の人間性や自己像も不変のものではなく、関わる相手や環境によっていかようにも変化していくと感じますし、そういった意味での「やり直す」もありうると私は考えました。
死にトリは特定の他者にはなれないけれど、こういった形で言葉を交わすことができます。あなたが率直な気持ちを出せたり、相手に脅かされる不安や恐怖を感じずに自分以外の存在と言葉や気持ちのやりとりができたり、そんな経験の一助になればいいなと勝手ながら思いました。