出向を命じられ、他社で働いています。通勤は片道1時間半くらいかかり、業務のことも転職したぐらいに全くわかりません。残業も多く、土日も仕事があります。自分の時間があまり持てないのでなんのために生きているのかわかりません。
新規事業を任されましたが、私のいる部署では類似事業の実績が無く、上司や同僚も経験したことがないため相談もあまりできません。
最初の頃は出向先で認められたくて、大変でも明るく振る舞って努力しました。でも、空回りしたり、ミスが多かったりして今では仕事ができないいじられキャラの扱いをされています。悔しいですが、泣いたり落ち込んだりしたらもっと下に見られるので、馬鹿にされても笑って誤魔化しています。見放されるよりはマシかなとも思います。
私は周りとズレていることが多く、学校でもよく馬鹿にされました。いじられて怒ったらほんとうに自分をみじめに感じてしまいそうで、学生時代も無理して笑い過ごしていました。まるで進歩していません。
ミスが続くと自分の無能さに死にたくなりますし、なんでこんなに要領が悪いんだろうと帰り道に泣いてしまいます。
家族や友達には死にたいと言えません。重い話をする勇気がないからです。勇気がないので死ぬこともできません。楽しいこともあって、生きててよかったと感じることもあります。でも、仕事に行くともっと早く死んでおけばよかったと感じてしまいます。もう感情の上がり下がりに疲れました。消えたい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
そうまでしてなんで生きてるんだろう
感想2
「そうまでして」という言葉に、どこか他人事(にならざるを得ない)のような響きを感じました。思うように力を発揮できない環境と、本心を押し殺す生活が続いていることで、自分が自分の意思や力で生きているという実感が薄まっているような印象です。何のためにやるのかわからない、自分のしたいようにもできない、けれど仕事とタスクは毎日襲ってくる、という心と体のギャップは、人生を虚しく感じさせるには十分すぎるものだと思いました。詳細はわからないところもあるので勝手な想像かもしれませんが、今のあなたは最早その環境に行くこと自体が苦痛になっていて、そこに「ミスをしている」「いじられる」「相談できない」という要素が重なることで輪をかけて辛くなっているように感じられました。エネルギー不足のときには、自分を責める以外の道が閉ざされてしまいがちだと私は思うので、自分に向いた矢印を言葉という形で外や他者のもとに出していく機会として、よければまた使ってみてください。
感想1
全く分からない業務での責任、相談したくても出来ない歯痒さを感じながらも進めないといけない仕事でのミスをフォローするどころか仕事が出来ないキャラでのいじり(自分からしたらいじめだと思います)って、大人として今までどんなことを学んできたのか?人を傷つけてしまうかもしれない行為ができる感覚を疑いたくなります。
そんな中でも、周りに気を遣うこと、笑ってその場の雰囲気を壊さないようにしている投稿者さんの優しさを搾取されているのではと私は思ってしまいます。
仕事に追われることで自分の時間(仕事に奪われている)もとれず精神的、体的に疲弊していては「なんのために生きているのか」と考えてしまいそうになりますよね。
どれだけミスをしても努力しながら頑張る人を見下す、いじるなどの行為は最低だと私は強く思いますし、投稿者さんのミスって、無能、要領が悪いとうは違い、会社、上司、同僚のフォローがない事による二次被害を被ってるように感じます。
肩を落とし、悔し涙を流した日々はやりきれぬ想い、ぶつけようのない怒りに満ちる感覚を押し殺し続けているのではないかと想像します。
私事ですが、周りとズレていることって大切な個性だと認識しています。みんなと違うから弾かれやすい世の中(学校、会社など)が「違い=個性」だと尊重されるようにならないかと日々思っています。私も周りと違うことが多く弾かれてきた経験が多々あります。その都度「どうして個性を認め尊重できないのか?」と怒り交じりに思ってきました。
業務については会社、日々の悩み、愚痴などは身近な人と切り分けて話せたら少しは心が軽くなるように思いますが、誰にも話せない胸の内を文字にして吐き出すことでも心が軽くなることもあると思います。