子供の頃からどこにも属せない人生でした。
環境には恵まれていて、自分を思ってくれる家族や友達と呼べる人もいましたが、自分がそこにいてはいけないような感覚がどうしても拭えなく、優しくしてくれる人と距離を置いてしまいます。
そしてあらゆることから逃げ続けた人生でした。
高校の頃、なにもなかったのに勝手に追い詰められて、話せなくなった私を心配して寄り添ってくれた大切な人がいたのに、私はその人や自分自身と向き合うことから逃げ、部屋にこもり時間だけを浪費し続けました。
ゲームやYouTubeで現実から逃げては、ただ消費ばかりする社会のゴミになってしまいました。
現在大学生ですが、2度も留年しています。1度留年した際心を入れ替えると誓ったはずなのに結局また留年しました。
あれほど後悔したにも関わらず私は変わることも出来ず同じ失敗を繰り返しました。
死のうと思っても苦しさから途中でやめてしまい、自殺すらやりきれない自分に絶望しました。このまま生きていても何一つやり切ることが出来ず、なにもかも中途半端に終わると思います。
このサイトを見つけてここなら私がいてもいい場所だと思えるかと思いましたが、ここにいるのはもっと苦しい思いをしている人たちで、私のような環境に恵まれた人の場所ではありませんでした。
どれだけ考えても、こうなったのは全部私のせいです。
内側から出てくる生きづらさはどうすることもできません。死ぬまで解決することはないのでしょう。
それでも誰かに聞いてほしく、AIに相談しても解決できなかった為、ここに投稿させていただきます。乱文失礼しました。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
どこにも属すことができず、決めた事をやり切る事ができない人間
感想2
タイトルから、あなたの中で“本当はどこかに安心して身を置きたかった”、”本当は決めたことをしっかりとしたかった”という想いがあるのではないかと想像しながら読ませていただきました。その中で、個人的には「環境には恵まれていた」という割に全く、居心地の良い環境はなさそうですし、あなたが自分自身を否定されている様子から“本当にそのままの言葉で受け取ってもいいのだろうか”と、少し立ち止まって考えたくなりました。
私が思うに、人の優しさや思いやりというのは、受け取り手が欲しているカタチでなければ、それはタダの“鬱陶しい”や“迷惑”にしかなりえないのではないかと思っています。そして、人に向き合うということは“相手のことを考える、そして行動する”ということだと思うので、実は単純なものに見えて、無数に選択肢があり、しかも行動によっては人が感情的に怒ったり、泣いたり、笑ったり、と色々な影響もあるため、とんでもなくエネルギーを必要とする行動だと思っています。他にも、大学に通い続けることだって、それとなく通学出来ている人もいるかもしれませんが、一度崩れたものをまた立て直すというのは勇気とエネルギーを尋常にないほど、消費するものなのではないかと私自身は感じています。特に、私の中で、あなたは他者のことをとても意識している、もしくは考えているように思えたので、考えやすいあなたにとっては大学は情報量が多く、ただその場にいるということも結構キツイものなんじゃないかなと感じました。
だとすれば、そもそもあなたにはエネルギーのチャージスポット(居心地の良い空間)が少ないように思えたので、人と向き会うこと、そして、何か行動を起こすことはあなたが思うよりも簡単なものではないのかもしれないなと思いました。
しかしながら、あなたがそうやって「なんで自分は」と思うのは、自分の期待に応えたい、他者の期待に応えたい、そんな気持ちがあるからこそなのではないかと思いました。
ここがあなたが思う場所かは分かりませんが、いつでも書き込みができます。
また、よければここに書きに来ていただけたらと思っていますよ。
改めて、経験談への投稿いただき、ありがとうございました。
感想1
投稿ありがとうございます。
読ませていただいて、今のあなたはまさに自分に向き合い始めたところ(その途中)なのではないかな…と私は感じました。今感じている苦しさのもとはどこから来ているのか、生きづらさは何と繋がっているのか、少しずつ言葉にしようとしたのが今回の経験談だったのではないでしょうか。考えても考えても何かが明確に解決・解消したりしないとき、それは「向き合っていないから」起こるのではなく、自分だけでどうにかするのが難しい要因を含めて根本的なところまで自分を深めていることの表れであり、同時に社会や環境など外側にある要因にぶつかっているからこそ起きることなのではないかと私は思います。
死にトリは、「社会」という大きくて得体の知れない、けれどなんだか苦しくて生きづらい存在について、色んな人の声を届けてもらいながら、あれこれ考えたり、知ったりする場だと捉えています。あなたが感じている「私は恵まれているのだから自分のせい」という声もまた、社会そのものが内包している生きづらさの1つだと感じました。よければまたここでお待ちしています。