自分は貧困層母子家庭育ちで宗教三世で女で馬鹿で美人じゃなくて末っ子でヘテロじゃなくて、いろいろ馬鹿にされて育った。
ストレス溜まってたのか自分でもよく分からないまま自分より年下の子に一生ものの暴力を振るった、それは私がされて来た事だった。
その子にした事について何度も後悔し自分を責めたけど、私に暴力を振るった人は特にお咎め無く生きてる。私も未だに被害を受けたと胸を張れない、自分にも原因があり仕方ない事だった社会なんてそんなもの、環境ガチャ。弱いものイジメの連鎖から抜けるには自身の被害も認める事だとは思うんだけど上手くいかないし苦しくて他人にも優しくなれてないし、私に暴力を振るった相手がもし不幸に遭っても嬉しくなれないし謝られても許せないし、私が傷付けた子が周囲に守られてるのを知って最悪な事に嫉妬もした。何してても馬鹿な加害と被害が消えない。
義務教育レベルも分からない私と違って高学歴な人達は皆この暴力の連鎖から抜け出せてるかと思ってた。頭が良いってそう言うことかと思ってた。でも高学歴で貧困層じゃない人の犯罪をニュースで見るし名門大学行けてる親戚にマウントを取られた事もある。
見渡すと暴力も差別もかなり普遍的な出来事だなと感じるけど、被害者のレッテルを責めてたり加害者を特異的な存在として追い出したりが珍しくない。
普通の人たちがやってるそのレッテルとか排斥、カルト的だった親とか祖父母とかの癖にそっくりだ。
私の家族が変だって言うなら何で普通の人も同じ事してるの?私がやった事は暴力だった、でも私がやられた事は?
上辺のレッテルだけ違うけどずっと同じ事繰り返してて飽きないのかな皆、でも親に他人と比べられるとまたムキになっちゃうんだ私も、もう疲れた。私だけ優しいコミュニティに逃げても社会のその構造が消える訳じゃないから解決じゃないし、動物だから仕方ないこんなもので流して生きてもいけない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
堂々巡りは終わらないの?
感想2
 文章を読んで共感するところもあり、堂々巡りは終わらないの?という問いに応答してみたくなり書いています。私は、暴力は人々の日常に溢れていて、構造的にもこの社会はとても暴力的だと思っています。例えば最近私自身が体験したことですが、ある「問題」が起こった時にその問題の対処を周りがやってくれようとしたのですが、その対処がとても暴力的だと感じました。みんなは良かれと思ってその問題の原因を考え、対策してくれるのですが、原因の特定の仕方も対処の仕方も「問題を排除すれば平和になる」という前提に行われていて、問題がさも邪魔なものであるかのような印象を受けました。つまり問題を発生させた私までも邪魔だという構造になっているのを感じました。問題は起こるべくして起こるもので、問題を通して成長したり学んだりするのに必要だったりもするはずなのに、問題を取り除くという思考が当たり前のように人々の思考に採用されているんだなと感じました。その思考が、問題を抱えた人を社会から排除することに繋がっていると思った経験でした。
 抽象的な話で申し訳ないですが、言いたいのは、良かれと思ってやっていることでも暴力的だったりするし、当たり前みたいに思っていることでもとても暴力的だったりする社会だなという事です。とはいえ、私自身の中にも排除や暴力はあって、私自身も深く後悔していることがありますし、日常的に暴力の加害も被害もいつも背中合わせだなと感じています。
 でもそれが人間という生き物の「今」であり、私は今を否定しなくてもいいのではないかとも感じました。私もあなたもいろんなことを経ての今であり、だからこその取り乱しや混乱や落ち込みや難しさもあるけれど、それは生きてきた証でもあるし、人間の歴史でもあって、むしろその「今」をちゃんと認識することこそが大事なんじゃないかなと感じました。自分たちの日常は暴力的であり、人間一人一人に暴力と排除とがいつも付きまとっている。それをちゃんと観ることが大切だし、その中でどう生きるかを考えていくことがいつも大切なのかもしれないと思いました。堂々巡りが終わらないかもしれないと世界を観るあなたの目をこそ私はむしろ信頼できるし、そういう風に私も観ていきたいと思いました。だいぶ勝手な感想になってしまいましたが文章を読んで巡ったこと、書かせてもらいました。
        
      
        
        
        
      
感想1
鋭い洞察を飾らない言葉で語る経験談だと感じました。私は普遍的な物事を考えたい人で、綺麗な論や小難しい本みたいなのに反発があるので(自分自身は小難しい表現を使いがちなのですが…)、あなたのもつ要素にリスペクトと好感をまず抱いてしまいました。
表向きはそれほど似ていない、自分の経験(カルト的な親や祖父母の癖)と社会の出来事(レッテル貼り、排斥)を共通のものとして捉える眼差しも、私の家族が変だって言うなら何で普通の人の同じ事してるの?という問いも、真っすぐでとても深いものを感じます。
ただ、私は洞察の深さは、表面で物事を捉えても救いがなかったときに生み出されるものかもしれないとも思っています。少なくとも、現状の構造で困っていない人は社会構造を意識する必要もないし、楽しく楽に生きられていれば、物事をあまり考える必要もおそらくないはずです。だからあなたの考えの深さは、傷や経験の重みと切り離せないのではないか…とも想像しています。最初の属性の紹介に「ヘテロじゃなくて」とありましたが、ここまで異性愛と家族規範の強い世界で、ヘテロじゃないことは相当に社会構造を意識せざるを得ない立場に置かれることだと思っています。
全ての暴力が連鎖するわけではないと思いますが、暴力には連鎖の性質があると私は思っています。そう考えたとき、暴力の責任は誰がどうとるのか、誰が悪いのか、答えが私にはまだわかりません。でも、もうこの先誰かが激しい暴力で苦しまない世の中にするためにどうすればいいのか、自らに問い続け行動していく責任が私たち全員にあるとだけは思っています(とはいえ、まず頑張るべきは余裕のある人で、傷ついて疲れ果てた人はまず自分をケアに専念していいと思っています)。どうしたらレッテル貼りに走らず、そういったことを一緒に考えていけるのかは・・・まだまた道半ばで、いわゆる普通の人たちに絶望してしまう時もありますが、あなたの経験談を読んで私は勝手ながら力と、いい意味での刺激をもらいました。
経験談の投稿ありがとうございました。