経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

お腹がすくのが恥ずかしい

何も取り柄の無い学生時代、たまに虐められたり、友達と傷を舐めあったり。劣等感を抱く日常を18歳まで続けていました。

音楽を聴いたりすると自分に酔えるので好きでした。田舎から大阪へ出てバンドに所属しました。
女性がバンドマスターのグループに所属し、5年ほど活動していました。
自分の考えた音は彼女にはほぼすべて認められず、言われた事も出来ないと罵られる毎日で味方は居ませんでした、それが嫌で脱退をしました。その後自分1人、時に数人で音楽を続けるも挫折、中途半端に夢を追い続け33歳になっていました。

現在、ほとんど正社員にもなったことが無く、ずっとアルバイトで生活しています、自分の事が大嫌いです、けど同時に一番好きなのです、甘ったるい考えから抜け出せず、かといって行動も出来ない、何かもわからないチャンスをずっと待っているのです、来るはずも無いのに。

昔居たバンドのウィキペディアに自分の名前がのっていて、恥ずかしくて死んでしまいたくなりました、同時にオレも頑張ったんだ、どうだすごいだろう、、、と昔とった杵柄を後生大事に持ち続けています。バンド時代の知り合いは皆自分の事を憐憫の目で見ている気がします、当時を知る仲の良い友人にもかなり気を使ってもらっていて居心地が悪いです。

こんな恥ずかしい自分が惨めで、死にたいと思いながら飯を食ったり自慰をしたり睡眠をする矛盾に情けなくて自分を殺したくなります。
死ぬ勇気もないまま今働いてる場所で正社員になる勇気も持てず、結婚も当然できず、金は一生稼げないまま惨めに生き恥を晒すことを、誰かに罰してほしい、この状態に罪をつけてほしいです。明らかに自分のせいです。
税金は払っているけど、一向に日本は良くならない、俺が何か悪い事をしたらしい、周りの人はすべて幸せに出来ないし、なっていない。

怒られたい、誰かに甘えたいのです。
レールを敷いてこのようにせよと言ってほしい、たとえ誰かが敷いてくれたとしてもそのレールも途中でどうせ自分は降りるのですけど。

お母さん、お父さんのような存在に甘えたいのです、もう36歳になります。

家族が死ねば楽になれるような気がします、そんなことは無いのに。

感想1

音楽は、自分に酔えるからだけではなく、取り柄がないと感じる自分を救ってくれたものでもあったのかなと思いました。
私もかつてバンド活動をしていたのもあり、思ったことなのですが、自分の音を認められない・好きな音楽で否定されることは、心に相当なダメージを与えてしまうと考えています。特に、あなたが所属していたところでは、その"バンドマスター"があらゆる面での影響力もあったのではと思い、そういった環境そのものもあなたにはしんどかったんじゃないかと想像しました。それでも音楽を続ける中で、やはり救われたことや楽しいこと、でも嫌なことを思い出す瞬間もきっとあったのではないかと考えています…。「夢を追い続け」とありましたが、音楽に関することなのか、何かあなたが思い描く夢があったのだろうかと、勝手にですが気になりました。

「自分の事が大嫌いで、一番好き」はとても印象深い一文でした。もしかしたら私自身、色々思い当たるような感覚があったからなのかもしれません。何かいい事がおきないか・何か救われる事がないか…あなたの目に映る毎日は、日々色褪せて見えているのかなと文章から感じ、そこに輝かせてくれる何かが現れるのを待っている自分がいて、『希望を捨てていない自分』と『希望を捨てられない自分』の葛藤があるのかなと、私は思いました。そしてそれは同時に、『何かをやりたい!』と動き出したい自分も確実にいるからこその葛藤でもあると感じました。けれど、『不安要素から自分を守りたい気持ち』もあり、そこでもまた苦しい気持ちがあることも、私自身の経験も踏まえ、考えた部分です。

頑張ったと思えるもの、胸を張れるものがサイトに文字として残っているのは、自己肯定感に繋がる反面、あらゆるものを思い出させる種でもあり、あなたの言うように、死んでしまいたくなるほどの気持ちになるのかな…と思いました。
後半部分を読みながら私が思ったのは、もしかしたらあなたは、今のままの自分を誰かに許してほしい・これで間違っていないと認めてほしい、そんな気持ちもあるのだろうかと考えました。(全て私の勝手な想像です…。)でも、罰してほしい気持ちも確かにあって、そこには『明確に何かの大きなジャッジを下してほしい感覚』があるのかなと思いました。
怒られたい・甘えたいというのはあなたの素直な本心であり、それは、自分の意思だけであらゆる選択をして生きることに、もう疲れ果ててしまったことだと私は受け取りました。
ここであなたの本心をかけそうであれば、またいつでも利用してみてください。投稿ありがとうございます。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。タイトルの「お腹がすくのが恥ずかしい」という言葉は、物理的なものなのか、満たしても満たされないというような気持ち的なものなのかどういった感覚があるのだろうなと気になりながら読ませてもらいました。「生きること」と「自分を責めること」がほとんど同義になってしまったような苦しみがあるようなそんなイメージを抱きました。
夢を持ち、それを一度は形にしたけれど、今ではその夢の記憶や残り香のようなものが自分を責め立てる材料になってしまっているような…そのねじれを感じる感情の奥にあるのは、後悔もあるかもしれませんが、まだ“何者かでありたかった”という切実な渇きのようなものがあるのではないかなと私は感じました。
音楽に出会い、自分を表現できるはずの場所で、逆に否定され続ける体験をしたこと、それは、ただ“夢が叶わなかった”という一言では片付けられない深い痛みがあったのだろうと感じます。人から認められたい気持ちと、自分を守るための反発はそのどちらもがきっと正しくて、その狭間で自分を見失っていった過程に、言葉では簡単に表すことのできない感情もあるのではないでしょうか。
また、「自分の事が大嫌いです、けど同時に一番好きなのです」という言葉が印象的だなと思いました。自己否定と自己愛が混ざり合う矛盾は、ただの甘えでも逃避でもなく、社会の中で“成功”や“成長”という一方向の価値観だけが求められる今の社会において、自己をどう保てばいいのか分からなくなるものだよな…と私自身も痛感しているところです。こうした社会構造は、努力や成果を出せなかった人に対して決して優しくはないですし、そこから漏れてしまった人たちが、自らを“失敗作”などと見なしたり感じてしまいがち(と、私は感じています)で、それは個人の弱さとかではなく、排他的な価値観の副産物でもあるよなと思ってしまいます。
「罰してほしい」という言葉の裏には、“生きている限り、誰かに認めてもらいたい”、“導いてもらいたい”という切実な願いがあるのかなと感じました。生きることへの罪悪感を抱えながら、それでも完全に諦めきれているわけではない、だからこそのどこか人間らしさのようなものをあなたの文章から私は感じています。
この社会が“生き方の多様さ”を認めきれない構造の中で、思わず呟かずにはいられなかった声でもあると思いながら、まずはあなたの感じるままの思いをそっと受け止めたい気持ちです。また死にトリがあなたにとって必要に感じられた時、いつでも活用してほしいです。

一覧へ戻る