子供の頃に「生き続ける自信がない」と考え始め、自殺未遂は何度かしましたが、楽に静かに死ねる方法を選んだせいで死にきれませんでした。
「生きたい」のは体の欲求。人間は理性の生物と言いながら結局肉体の欲求に意思を支配されているのだから、その欲求に逆らって死ぬことは肉体に勝ったことになるのではないか?思春期の頃にそう思うようになりました。
多分こんな事ばかり考えていたから正常な成長ができなかったんだと思います。
優しい人たちに「死なないで」と言われましたが「別に私が死んだところで何か変わるわけじゃない、この優しい人たちにとって私の存在が何かプラスになるわけでもないし。私はただ心配をかけて人々のリソースを使っているだけ」という捻くれた考えが頭から離れません。「死ぬなら死ぬで迷惑とお金をかけるものなんだな、自分には死に場所もない」と間もなく気づき、自殺に二の足を踏むようになりました。
自殺をやめた理由は母親の存在もあります。私が自殺未遂した時に「あなたが死んだら私も死ぬ」と泣きつかれ鳥肌が立ちました。恩知らずな自分の反応や虚しさで私も泣いたのですが、両親は私が感動して泣いたのだと思ってくれました。もし死後の世界があるなら、死んでも母親が追ってくるかもしれないと怖いです。
じゃあ生きてみようと気持ちを切り替え手に職をつけて働いて趣味を見つけて10年以上、生きることも下手なのでそろそろまた「死にたい気持ち」に追いつかれそうです。
上に書いた2点の理由だけで生きているから、苦しくなるのも当然です。
こんな事を会社で悟られて「可哀想な、精神が危うい人」と思われるのも嫌なのでへらへら笑いながら過ごし、周囲からは「面白くて優しい人」と言われます。本心はどうか知りませんが。
尊敬している上司がいました。仕事の相談や考えていることをお互いにたくさん話していました。
最近、自分の担当の仕事が体力的にきついかも知れないと考え、配置換えをしたくて上司に相談しましたが上司は「ここまで頑張ってきたから続けてみてはどうか」と反対の立場でした。それは良いのですが「母親として考えちゃうと〜…」と上司がポロッと零した言葉に驚きました。
2児の母でもある上司が、一回り年下の部下のことをある程度親の目線で見るのは普通かもしれません。
でもその時「自分は母親という存在が嫌いなんだな」とはっきり気づきました。
この後から上司とも距離を置くようになりました。
母親が亡くなった後なら心置きなく死ねるかもしれないし、もしくは心境が変わるかもしれません。
父親は数年前に他界してほっとしましたが、母親はまだです。「子供を作ってみたら?子供はいいわよ」と言ってきます。自分の子にはあんなに苦労したのに、不気味に感じます。
自分はまだ本当の自由を知らないと思っています。何故でしょうか。
死んだら自由になるでしょうか。
でも母親が死ぬまでは持ちこたえてみたいので、凌げる方法を知りたいです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
あと10年は生きなきゃいけない
感想2
生きることそのものに自信がない感覚を抱えたまま毎日を生きることを想像してみると、とてもしんどいことだろうと私は感じました。無意識に生きる体に自分の意識が勝ちたいという感覚が成長過程で現われたのは、きっと生きることを深く考えざるを得ない環境があったのでしょうね。
読み進めてみると母親さんとの関係があったんですね。私自身も母親との関係が拗れているところがあるので何となくわかるな…と思いながら読みました。鳥肌が立った経験とか、特に自分を重ね合わせました。こればかりは周りからは理解されないようなどうしようもない不快感なのかなと想像しました。
あなたが人前で笑うことで人間関係をスムーズにしてきたのは、自分の見せたくない一面を悟らせないように、その場その場で相手に合わせてすり抜けて生きる方法なのかもしれませんね。それも社会を生きるために身につけた自分のスキルだと思いますし、そうしている方が自分を守れるのかなと思います。でも人と別れて家に帰ってからはふ~って疲れていそうですね。。
今の苦しさから逃れるために死んで自由を手にしようと思っても、死ぬと自由すら感じることができなくなるというジレンマについて私は考えたことがあります。あなたが今も母親さんから「あなた」が主語で生きることを奪われている様子を勝手ながら想像しました。
すでに母親さんから距離を置いているのかもしれませんが、物理的に距離を取れても心の距離を取ることの方が難しかったりします。(ちなみに私は本当に必要最低限の接触にしています)まずはこの投稿のようにあなた自身が感じていることをあなたの言葉でできるだけ自由に表現することを続けて欲しいと私は思います。
感想1
投稿ありがとうございます。
生きることへの居心地の悪さ、徒労感のようなものを感じ取りました。前のめりな死にたさというよりは、「プラス」を見つけるのがむずかしい、というようなニュアンスなのかなと想像しています。ご自身の考えを「捻くれている」と書かれていましたが、「死に場所もない」という部分もふくめて、この世で生き続けていくことの不自由さ、逃れようのない生きづらさのようなものが長く横たわっているからこその価値観なのではないかと感じました。
要所要所で母親(という存在)に対してのぞわっと感が表現されていました。それは(母親からの)執着的なものなのか、放置なのか、あるいは異文化的な意思疎通の困難さによるところなのか…とあれこれ推測しています。はっきりとは書かれていないので想像の域を出ませんが、子どもの頃に抱いた死への感情やそれを遂行しようとする意思を”後押し”されてしまう存在であり、同時に自分の思考や判断を縛られてもしまう存在、それがあなたにとっての「母親」なのかなとイメージしました。そこが共存してしまうことの苦しさと共に、向けられるまなざしや関わりにずっと違和感を覚えてきたのではないでしょうか。
上司の方のエピソードもふまえて考えると、「母親」的な雰囲気を感じること自体に抵抗感があるのかもしれませんが(それはどんなものなのだろうと考えつつ)、そうだとすると、世界に親がいてもいなくても、近しい苦しみが引き出されてしまう場面は今後も訪れ得るのかもしれない…とも思いました。
文章全体として感情的に書かれてはいないのが印象的で、それは文末にこぼされた「凌ぐ」という言葉の持つ切実さとの間にどことなくギャップがあるようにも感じました。ここに書かれていない、沈み込んだ心や、溜まって消化しきれないものも、またこの場所に吐き出してもらえたらと思いました。