経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

否定ばかりの人生

私が死にたいと言えば、そんなこと言わないでと言われる。
私は生きているが、さまざまなことで否定された。
死にたいのに死ぬ勇気はない。痛いのは怖いし、安楽死は医師に迷惑だと思った。
もっと考えると、母や先祖、生きたくても殺されてしまった人に申し訳ないし、失礼かもしれない。

昔いじめに遭っていた。その時はいじめだと気づかなかったが、辛かったのは確かだった。学校行きたくないと言うと父には行けと言われた。毎日行くしかなく、悔しくて勉強や運動を頑張ったが、結果は悪かったと自分でも分かった。彼らはそれ以上に馬鹿にしてきた。要領が悪い自分が嫌いだったし、彼らのことは許さない。
頑張っても意味がないと思ったが、家にはお金が無かったし、頑張るしかなかった。頑張る自分を兄弟はなぜか否定した。喧嘩にもなった。勉強したくてしているんじゃない。嫌だけどやらなければならなかった。やる気が失せてしまったとき、先生に怒られた。

お金が無いと生きることを許されないんだと言うと、そんな事無いと言われる。こう言う人がいるという事実を無視してまで、私を否定してくる。
もう動いても動かなくても否定される。サポートしてくれる人と相談するうちに、やってみようと思ったことですら拒まれて、自信がなくなった。自分から言うのをやめて、待つようにすると、何もしてくれていなかったことが後になって分かる。充分伝えたはずなのに、言わないと分からないと、私のせいにされる。

私が今も昔も何かしら頑張っていることはあるらしくて、褒められたことがある。たしかに、人間関係と、お金のことで我慢したことはたくさんあった。いじめられても学校には行ってたし、父は大嫌いだが親孝行でよく登山に付き合った。父に暴力を振るわれても、自分から振るうことは無かった。抵抗しただけなのに、ご主人様に暴力を振るとは何事やと父に怒鳴られたのを耐えた。お金が無いのを案じて大学は諦めた。父に文句を言われながらも働いて貯金した。親に頼らず専門学校へ行き、再就職して一人暮らしを実現させた。かといって私は偉くはない。お金を騙し取られたとき父は「それ見たことか」と言っていたらしい。今は無職で、面接でも馬鹿にされて落ちる。父にはもう二度と会わないと決めた。面接も参加したくない。
褒められて信じたいのと信じられないのが山々になっている。現実は私を否定することが多いのだから。

皆何がしたいのか分からない。私はお金を稼がなければならないのに、何をしても、何もしなくても否定される。どうすればいいか分からない。
私が自然に死ねば、これは仕方のないことで、誰のせいでもないと言える。だから、私ががんじがらめになって、自然に死ぬのを待たれているんだと思った。こう思えば怒りが湧いてきて、生きてやろうと思った。絶対幸せに死にたい。でももう頑張れないし、頑張りたくない…。

生まれ変わったら、痛覚も感情も無いものになりたい。何を言われても、何されても何も感じないのは幸せ。
あるいは、生まれ変わらず、ずっと眠りについていたい。これは何もしなくてもいい永遠で究極の幸せだと思った。
この考えも否定されるだろうけど、私は社会のせいにしたくなってる。謝って欲しい。私が悪いのでなく、否定するのでなく、社会が悪かったと謝られたい。

感想1

投稿を拝見し、ロバと老夫婦の話を思い出しました。ロバに老夫婦2人が乗ると「2人もロバに乗るなんてロバがかわいそうだ」と言われ、おじいさんだけがロバに乗ると「おばあさんを乗せないなんてかわいそう」、おばあさんだけが乗ると「自分だけ乗るなんてけしからん」、ロバを引いて歩くと「あいつらはロバの使い方も知らないのか」と、どんなパターンでも野次が飛んでくるという話です。全ての人を納得させるのは難しいという意味の話でしたが、どんな選択をしても否定の声があがれば、誰の声を信じたらよいかわからなくなってしまうし、戸惑っているうちに自信を失ってしまうような気がしました。

私も投稿者さんの家庭と同様、お金があまりない家でした。私は奨学金などを駆使して大学に進学しましたが、周りの人たちは在学中に親が学費や生活費を支払ってくれていたのに、私は卒業した後も、在学期間の何倍もの時間をかけて自分で奨学金を返済していかねばならないのか、と悲しくなることがあります。
お金がなければ生きることが許されないかというと、日本国憲法では生存権が保障されているので、厳密にはそうではありません。しかしこの奨学金のように、お金があればする必要のなかった苦労はたくさんあったのかなと思います。他にも、納税の義務はありますし、住居にも、水を使うのも、暖を取るにも(近年だと涼むのにも)お金がかかります。生命・生活維持の他にも、大小さまざまな意思決定において、お金の持つ力は大きいと感じています。

それでも、お金のこと以外にも、いじめのこと、家族の関係性のことなど、どんな逆境にあっても、頑張るしかなかったからと言って頑張れるのは、頑張るということを選択できたのは、あなたの力だと思います。それが偉いか偉くないのかはわからないですが、誰にでも出来ることではないはずです。

またその逆境の背景について…、私の周りには家庭環境に思うところがある友人が数名いて、互いの家族について、家族の生い立ちについて話すことがあります。やりとりの中で知ったのは、家庭の問題は先代からの連鎖であることでした。終戦後の元兵士のPTSD、戦争孤児、医療や福祉の資源の偏り、地域や業界ごとの経済情勢の悪化、時代による教育のギャップなど、様々な要因が現在の問題に繋がっていると考えられました。
「生きるか死ぬか」という時代から「どう生きていくか」という時代に変わり、どれだけ経験を積み、どれだけ成果を上げられるかという、パフォーマンス主義となり、求められる基準もより高くなっていった感触があります。権利が平等になったことにより、その格差がかえって可視化され、それがSNSにより更に激化したようにも思います。

私は死にトリで、「生まれてきてごめんなさい」、「生きていてごめんなさい」という投稿を見かけるたびに、「そんな風に思わせる社会の方に問題がある」と思っています。なのであなたの「社会が悪かったと謝られたい」という気持ちを、強く支持したいです。

感想2

投稿文を読ませてもらい、まるで否定の迷路に閉じ込められたような日々だったのだろうと思いました。「こう言う人がいるという事実を無視してまで、私を否定してくる。」この言葉からこっちに行ったら否定されて、別の方に行っても否定される。迷路から出ようとしてもそれが許されていないような状況だと感じました。家でも学校でも。それだけでも理不尽なのに暴力まであれば限界を迎えても不思議ではないと思います。それでもあなたは自分と自由を手にしようと頑張ったんですね。でも頑張るにはある程度安定した土台が必要です。安定した土台は他者から程よく受け入れられる、肯定されるという経験が必要だそうです。逆に否定の連続は土台を不安定にさせます。だからあなたが頑張りたいけれど、頑張れないというのはとても納得ができます。
“社会に謝ってほしい”私はこのひと言に大きく頷きました。きっとこの経験談を読んだ方の中にも頷く方はいるはずです。否定するどころか思いっきり肯定したいと私は思います。父親さんでも先生でもなく社会と表現されましたね。いまも根強く自己責任論が残っていますが、私もそうではないと感じています。昔は自分も個人の責任だと思っていました。今の教育現場ですら個人への精神論が根強くて頑張れるかどうか?で評価されます。私は社会を知るうちにどんなことでも社会の上に成り立っているし、一人一人に周囲からは見えにくい背景があることを認識するようになりました。人が一人でできることなんてせいぜい知れているし、大変な状況から一人で抜け出すのはとても難しいことです。例えばあなたが経験したいじめも誰かが気づいて声をかけられたかもしれません。あなたはあの時に否定せずに助けて欲しかったと今も思っているのかもしれません。(違ったらすみません)
否定の迷路に社会的な非常口ができないと…あなたの投稿文を読んで心からそう思いました。あなたには肯定される考え方や感覚が備わっていることはこの投稿文からも伝わってきました。どうか非常口から出てあなたの言葉を聴き本当のあなたのことを知ろうとする存在とつながりを持ってもらいたいと私は感じました。この投稿がその一歩になれば嬉しいですし、良かったらこれからも死にトリを活用してあなたの言葉を届けて欲しいです。

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