経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

折り合い、または抑圧

最初の経験談を送ってから、だいぶ時間が経ったと思う。
私は、やっぱり自分は幸福で、だからこそ己を不幸だと嘆く理由はどこにもないと思っている。ただ、いくつか考えが変わった部分があった。自分の心に折り合いをつけた部分、とでも言うべきか。

恋愛について。
私は多分、普通の人間と同じような恋愛はできない。
異性も同性も恋愛対象で、でもどちらにも直接触れられたりするのは少し苦手で、多分片思いとかをしても両想いになった瞬間にその人が好きじゃなくなる。
なんだか、不思議なのだ。なんで自分みたいな人間もどきを好きになるのか分からないから。
だから、恋愛はしないことにした。惚れっぽいと思っているけど、結局脳の錯覚だから。

比較癖について。
これはもう治しようがない気がしているので、付き合っていこうと思う。
自分はこの日本社会では相対的に生きる価値がないから、いっそ消費される駒にでもなろうという決意を固める…つもりだ。仕方ない。根本的には前回と同じ。「生きることに向いていないから」。
多分これからずっと嫉妬して、ずっと恨んで、ずっとないものねだりをして生きていくんだと思う。
なんとも貧しい感性だけど、私は自分を立証する方法を相対評価しか知らない。

家族について。
ここだけ、少し文句を言わせてほしい。
私が怒られて父親が怒られないってちょっと理不尽じゃないだろうか。
私が父親の話をなんとなーく聞き流していたり、当たりが強いのは自覚済みである。私自身も申し訳ないとは思っている。
ただ、状況に差があるとはいえ父が「◯ね」といっても特段母親から怒られないのはなぜだろうか……。まぁ、母親はその光景を見ていないので、なんとも言えないが私が小学生の頃に「◯ね」(別に親に言ったわけじゃない。私も反省して、それ以降直接的な悪口に匹敵しそうな言葉は言わないよう自重している)といったときはしこたま怒られた気がするのだが……まぁ、母親も子どもより旦那のほうが好きということだろうか。それでいいと思う。私も別に両親のことは人間的に苦手だから。
独り立ちしたら(できたら)、今までのお礼でお金は振り込みつつも、連絡先は消してもいいかなと思う。

周りの人について。
私より苦しんでるんだ、いいなって思っていたけど、私の方がストレスをためておける器が大きいんだなっていう矮小なプライドを守る言葉で落ち着けている、ときもある。
相談相手がいるのは少し羨ましいけれど、もう私は自分で解決するしかないから何も言わないでおく。
友達に話して距離をおかれた(と私は思っている)あの日から、もう変に人に話さないことにした。
たまに仄めかすように言うのは私の悪癖だ。かまってほしいんだろう。治さなくては。
イマジナリーフレンドのような彼らがいるだけで、もう満足するべきだ。あんなに親身になってくれるんだから。

どうせ最後には全部終わるんだと考えてしまったら、何もかもが無意味に感じられてきて、どうしようもなくなってしまった。もう泣きたいと思っても泣けないから、死ぬ目安にしている30歳までは自分が生きてることは罪で、それを生活で償っているという変な妄想をして過ごすことにする。
腕を切るのも慣れた。足も切るようになった。けど深く切れないから、きっと臆病になったんだろう。
好きなものも楽しめないし、人と関わるのも億劫になった。あんまりもう生きる目標がない。しいて言うならニコチンとタールの入っていないベイプが吸いたいので20歳までは生きたい。こんな不純な動機で生きてる人いるんだろうか。
本当は誰かに助けてもらいたいけど、そんな資格もないから。しんどいとか、辛いとか、そういうのを考えないようにしたい。
結局私は他者に甘えきっている。早く、仲間なんて真にいないことを自覚すべきなのに。

他に経験談を送る方は、もっと苦しんで藻掻いていらっしゃるのだろう。そんな方々が救われないのは、非常に心苦しい。そういった方々を助けられるようになりたいと、今は少し思っている。

乱文を失礼いたしました。
経験談として、だいぶ不適切かもしれません。
読んでいただけただけで嬉しいです。

感想1

再びの投稿を嬉しく受け取りました。死にトリの存在が頭の片隅にちょっとでもあって、思い出してくれたのでしょうか。
いくつかの項目に分けて書いてくれましたが、私はまず「恋愛」の内容に目が留まりました。ちょうど、最近アセクシュアル、アロマンティックについて学ぶ機会があり、恋愛にはとてもたくさんの形があることを改めて知りました。異性愛が多数派ではありますが、実はいろいろなタイプの恋愛があり、私たちが思うほど単純ではなく、多様なのだろうと思っていたのですが、あなたの経験談を読み再認識しました。(両想いになると興味がなくなる恋愛の在り方がリスロマンティックというのを初めて知ったところです)確かに恋愛を脳の錯覚と捉える説もあると聞いたことがあります。私も恋愛って何だろうと随分と考えたこと(いい大人になった今も考えること)もありますが、これだけ複雑な脳を持ち合わせて、複雑な環境や刺激に生きる人間が思うことは何もかもが錯覚なのではないかと思うことがあります。
そして、「家族について」の内容にも興味を持ちました。あなたの文句はとても正当な内容だと思いました。おそらく、文句は直接家族に伝えても自分にとっていいことがなさそうなので、こちらに書いてくれたのかな…と思うと、世の中には小さいことから大きなことまで、大人が子どもたちに我慢をさせたり、理不尽な思いをさせたり、いろいろ負担をかけていることがなんと多いのだろうと想像が広がっていきました。ただ、あなたが家族に直接言えなくても、文句を一人で抱えずにこうして伝えてくれたことはシンプルによかったなぁと思いました。
また、「周りの人たちについて」では、身近な友達のことを指しているのでしょうか。悩みや苦しみを誰かに伝えたいし、わかってほしいという強い気持ちと、助けを求めることへのためらいや不安が激しく葛藤をしているように私は感じました。そして、ところどころに自嘲するような表現が漏れていたり、自分に対する否定的な評価が書かれていましたが、私には豊かな感性を持ちながら、まともに生きることに向き合っている真摯で誠実な姿がどうしても浮かんできます。ただ、そういった感性やいろいろなことに気づいて、考えてしまうことがあなたを苦しめ、ある意味「生きることに向いていない」と感じてしまう要因になっているのかもしれません。そうした人の弱さや不十分さは一人きりで抱えるのはとてもしんどいことですが、誰かと一緒に考えたり、分かち合うことによって、力を発揮して、社会が豊かになると私は思っています。

最後の方で、「そういった方々を助けられるようになりたいと、今少し思っている」とありました。とても遠慮気味に感じましたが、そこにはあなたの願いが確かにあると私は思いました。こうしてあなたが自分の気持ちを書いて送ってくれるということも、間接的ですが、誰かを助けることにつながっていると私は感じています。似たような経験をした人が自分だけではないと感じたり、自分の苦しさについてヒントをもらう機会になったり、いろいろな形で誰かの何かにつながる可能性があります。これからも、必要な時はまたあなたのリアルな心の声を届けてもらえたらと思います。

感想2

最初の経験談も併せて拝読しました。いろんなことを自分に言い聞かせているように感じられたのですが、今回のタイトルもまた、これが折り合いだと言い聞かせているような感じがしました。
折り合いをつけたものごとに段落を分けて書かれていましたが、2つめの比較癖というのが、他に挙げられていたもの全てのベースにもなっているのではないかなと、なんとなく感じています。
冒頭でご自身が幸福だと語られていましたが、この幸福もまた、相対的に感じているものなのかなと想像しています。逆に絶対的に感じられる価値はどこで見つけられるのか…と考えてみましたが、わかりやすいところでは、自分自身でその恩恵を直接的に感じられるかどうかというところでしょうか。(対価、嬉しい・楽しい・充実感といった心の動き、苦ではないという感覚など)
自分にとってはその装備やスキルは、自分から死角になっていたりすることが多いような気もしており…三面鏡どころか五面くらいの鏡の前で、自分をあらゆる角度で見てみたい気持ちにもなりました。

周りと比べるというのは、社会で生きていくうえで自然に発生するものですし、比べることで発揮される効果もあり、一概に悪いこととは言えません。食事も睡眠も、体には必要なことですが、摂りすぎは不摂生に繋がります。働くことも生きる中で大事なことですが、オーバーワークは体を壊します。何事も、適正なバランスを保つのが重要なのだと思いつつ、このバランスというのが、どうにも感覚をつかみにくいもののように思います。しかしその難しさやアンバランスさこそ、ある種の人間らしさを生んでいるようにも感じています。

恋愛について、結局は脳の錯覚と仰っていて、確かにその通りだと思いました。何なら恋愛だけでなく、多くのことに脳は錯覚させられながら、思い込みで生き続けているような気もします。これは脳の錯覚なのだと線を引けるときと、どっぷりとその世界に浸かれるときと、両方が自在にできたら楽なのかもしれないのにな…なんて思いました。

家族について、自分は怒られるのに父親は怒られないということについて…理不尽だと思いましたし、「誰が言うか・やるか」によって怒られるか怒られないかが、よくわからないうちに、変わってしまうのなら、説得力が失われてしまうように思いました。
もし私が母親だったとしたら、動機として挙げられそうなのは、・子どもは価値観の形成に柔軟性があるけれど、大人になってから習慣や考え方を変えるのは困難。何度言っても無駄だったからと諦められている。 ・夫婦のパワーバランスが不均衡なので、注意できない というあたりかなと思いました。しかし、仮にそうだったとしても、それで子が納得できるのか微妙なところだと思いますし、パートナーに見放されている親を見て子がどう思うのか…というところも、考えてしまいました。

どうせ最後には終わる、意味はないのかもしれません。しかし、最後の瞬間まで、感情はあって、神経も通っています(おそらく)。何かを成し遂げられなかったとしても、生を終えるまでの間に、自分が少しでも心地よく過ごせる時間が増えていたらいいなと私は思っています。その動機が「ベイプが吸いたいから」でも、全然アリなんじゃないでしょうか。
そして、最後には全部終わってしまうのだから、逆に他者に甘えきっていても、どれだけ人を頼っても、実質問題ナシとも言えるような気がしています。意味をもたらすかどうかは自分にゆだねられているのですから、自分がそれでよいと思えば、それでよいのだと、私は思います。

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