推し活はもうやめた。そもそも始めたきっかけが、中学で仲良くなったオタクの友達に合わせるためだった。人間とは不思議なもので、同じ熱量に合わせた振る舞いをすると、自分も元々好きだったかのようになる。ある種の催眠術。
人間が救ってくれないように、2次元ももまた、救ってはくれないのだと実感した。くれるのはただのきっかけ。それを行動に移せた時、初めて救われる。
今思えば中学を卒業した時点で、そんなに関心がなかった。なのに,無理やり理解をしようとDVDを借りたことが最初の間違い。その話題を振って喜ぶ人間は周りにいなかったのに。思えば、思い出に浸りたかったのかもしれない。そのために作品を利用した。本当に自分は無礼千万なやつだと思う。
実際オタクの世界は肌に合わないことを知っていたのに、趣味はアニメであると言い張ってきた。この世界は常に人間関係トラブルに巻き込まれる特色がある。推し活はグッズを通してマウントを取るのに使われ、仲間内で常に同じ熱量だけれど熱量の高い人物の聞き役が可愛がられるそういう世界。だけど、現実では,オシャレや雑談が出来ず社会で孤立する。煙たがれる。
また,世間の推し活需要の高まりというのは、オタクが文句を言わず好きなことなら湯水のようにお金を使う特性を利用されているビジネス化としていると感じた。ここによく,社会の負の側面が現れていると思う。確かに,グッズが売れれば,企業は売り上げ金が入る。ライブやイベントでは、交通費や旅費、グッズ代。お金をかけた者がファンサをもらえる。疑似恋愛のホストと一緒で,さながら、バーチャルホストというものだろうか。現実だろうが非現実だろうが、疑似恋愛というほど虚しいものはない。そういうものに費やしている間、周りは見た目に出費をしている。しかも、推し活よりも遥かに経済的に。
なんだか、自分の人生において何度か、抜けるきっかけはあったのにそれを見過ごして、自分の心を大事にしなかったから今があるのかなと思う。
現実で生きることの答えを知っていたのにそれを見過ごした。一番愚かなのは自分。誰のせいでもない。人生なんでやり直しが効かないんだろうな。完璧な人間がいたらまずい理由があるんですかね。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
推し活と後悔
感想2
「推し活」という概念を通じて、以前そこに属していた自分(投稿者さん自身)も含めて皮肉らずにはいられないような、そんな独特な虚しさを感じ取りながら読みました。
推し活をコミュニケーションツールとして活用しはじめたものの、(投稿者さんがいた界隈ならではでもあったのかもしれませんが)推し活特有の対人関係の築き方、推しを介しての評価、界隈の外とのギャップなど、いろんな「推し活」コミュニティならではの共通言語に触れるたび「肌に合わない」という感覚を強めていった様子を想像しました。
同時に、本当は推しを介した形骸的(と感じられるような)人間関係ではなく、そこを越えた「友人としての関係」ひいては「社会との繋がり」を求めていたのに…というような節があったのかな、後悔の念のベースにはそれがあるのかなという印象を私は抱きました(あくまで勝手な想像ですが)。後半の「推し活」に対するどこか厭世的な文章を読んで、「自分が推し活にかけていた時間やエネルギー」をただの「一時の趣味が過ぎ去っただけ」とは思えないあなたがいるように感じられたからかもしれません。
これを書いている私自身が「好きなもの」にも界隈やファンコミュニティのようなものがあり、イベント等に赴くとそれを目の当たりにしますが、個人的には「自分がそのものを好きでいる様子」を「推し活」と一般に形容されることに実はかなり抵抗があります。それが何故か考えてみると、「推し」をもつこと、それを公言することについて「それを推している自分」という自己像が含まれているように感じているからだと思います。(全員がそうというわけではないと思いますが)ある意味、現実を生きる自分(存在やメンタルや容姿など)を補強するために「推し」ているところもあるのかなと思っていて、そう考えると昨今の「推し活」と「現実」はかなりシームレスというか、むしろ密接でもあるのかもしれないとも感じました。
投稿者さんにとって「何かを推す」ことは現実逃避、なのでしょうか。
私自身、何かを「好き」だと聞いてもスッと受け入れられるのに、「推し」と聞くと途端に少し抵抗を感じるのはなぜだろう、と自分の認識についても改めて振り返る機会になりました。投稿ありがとうございました。
感想1
投稿ありがとうございます。
「推し活」という言葉は、すでに社会に広く浸透していると思われますが、どのようなジャンルを推すか、どのくらいの熱量で推すかによって、その言葉の意味合いは大きく変わるのだろうなと、まずもって思いました。
私は最近、人が「何を推しているのか」が、ファッションやプロフィールのような役割を果たしているのではないかと感じる瞬間があります。何推しなのかが、その人の人物像を大まかに伝えると同時に、周囲に伝わりやすい個性を加えてくれるような感覚があるのです。実際私は、ある時に自己紹介の中で自分の推しを伝えることで、交友関係が広がったことがありました。私にそういった考えや経験があったため、あなたがアニメが趣味であることを公言していたことについては、私自身と重なる面もあるような気がしますし、少しばかり好きの度合いを誇張したくなる感覚も、正直なところ覚えがあるなと感じながら読み進めていました。
それに、推しているものによってどのような恩恵を受けるのかは人それぞれだと思うので、「思い出に浸るため」に何かを推すというのも、私としては立派な理由に思え、罪悪感を感じずとも良いのではないかと思いました。
ただ、あなたが推していたジャンルの界隈でよくトラブルがあったように見えたことは、心配ではありました。マウンティングや、同じ界隈の人に合わせることに疲れてしまったあなたが想像できましたし、推し活をすることでかえってあなたらしさを損なってしまったという実感を持っておられるのかなと感じます。その意味では、後悔の念を抱くのもうなずけるなぁと感じています。
そして、推し活そのものについても思うところがあることが伝わってきます。確かに、推し活って時間や労力の振れ幅が非常に大きいですし、推すことがいつの間にか競争のようになってしまうこともままあると思います。何かを推すために自分自身のことが後回しになってしまうこともあるのかもしれないと、投稿を読んで感じさせられました。
あなたは、推していたジャンルへの後悔と、推し活そのものへの後悔とで板挟みになっているのだということが、ひしひしと伝わってきたように思います。推し活への後悔があるということは、今は他にもっと時間や労力を費やしたかったと思うものがあったりするのでしょうか。いずれにしても、あなたが納得でき、そして気持ちが楽でいられる時間や労力の使い方が見つかるといいなと率直に思ったことを、最後に伝えさせてください。