小学生にあがる前の小さい頃から人の気持ちが全く分からなかった。ずっと「人の気持ちを考えろ」と言われ続け、でも自分ではどうすれば人の気持ちが理解できるのか全く分かっていなかった。
ただ、周囲を見れば、自分がいないほうがみんな笑顔が増えているし、会話も弾んでいる。幸せそうだ。見ていれば、それだけは理解できた。自分はいない方がいい。そう思ったから、小学5年生の時に死のうとした。結局、直前で怖くなって出来なかった。
自分が嫌なことはしない、相手の気持ちになる。そういったことを、自分では実行してきたつもりだが、今になって周りを見ていたら、あまり変わってない。自分なんていないほうが、家族も友人たちも楽しいのではないか。何十年もあったのに、自分を変えられなかった私は、人間の形をした怪物で、いるだけで周囲を不快にするのだと確信してしまった。小学生のあの時になんで死んでてしまえなかったのかと、何度も思った。両親はしっかり教えてくれていたのに、自分を変えられなかった。全て自分が悪い。自分が気持ち悪い。今からでも死のう。何度も思ったが、結局出来なかった。
人間関係だけじゃない。仕事、勉学、何ひとつうまく出来なかった。中高の成績は下から数えた方が早く、大学には進学できたけど、大学院受験に失敗し、結局就職もできず家業を手伝っている。そんなんだから、一般的な常識もない。当然、結婚もできない。そんな自分を変えたいとはじめたことがある。先生がいて、先生は愛情深く接してくれた。でも、何もかも失敗して常識のない私だから、私がそれに打ち込もうとすればするほど非常識な失敗を繰り返して(大体は同じ失敗だ)、先生に多大な迷惑をかけてしまう。とうとう、先生からも「もうやめよう」と言われてしまった。
こんな不幸と迷惑しかもたらさない怪物になってしまったんだから、もう、生きていてはいけないと思う。
それなのに自分では死ぬ勇気もない。死にたい。消えてなくなりたいと思う毎日。周囲を見るたびに、失敗するたびに「自分は生きていてはいけない」と思う日々。いつも死のうと思っては怖くなってやめる。生まれてきたくなかったはずなのに。死にたいはずなのに。どうしていつも出来ないのか。文字を打ちながら、涙が出てきた。泣く資格もないのに。全部自分が悪いのに。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分は怪物
感想2
経験談への投稿ありがとうございます。
文章を読み終えたいま、あなたがご自身のことを「怪物」と表現していることに、言葉にならない寂しさを感じています。
あなたが抱えている苦しさを理解しようとしてもしきれないと思いながら、深い悲しみと孤独がこちらにも伝わってくるような思いで読みました。
「人の気持ちを考える」ということは、自分も成長の過程で身近な大人たちから事あるごとに言われていたなと思い返しています。
「普通」「当たり前」と言われてしまうような習慣や文化は、すべての人にとっての普通や当たり前でないことをあらためて感じています。
そして、それらが努力や反省であらためることだと言われてしまうような風潮に、私自身はやるせなさを感じてしまいます。
あなたが自分なりに精一杯考え、もがきながらも適応しようとしていた姿が浮かびつつ、周囲の顔色を伺いながら、自分を責めるしか気持ちのやり場がなかったのではないかと感じています。
幾度となく押し寄せてくる絶望や虚しさに対峙することは、とても苦しくつらい瞬間の連続だったのではないかと感じています。
そんな中での先生からの一言は、やっと掴んだ手を突然離されてしまうような、わずかな自信も打ち砕かれてしまったような経験だったのではないかと想像しています。
あなたの切実な苦悩を前にして、私には、あなたが悪いとは到底思えませんでした。
そう言ったところであなたのつらい気持ちが消えるわけではないとも思いながら、静かに胸が締めつけられるような思いでいます。
こうしてご自身の心の内を書き綴ることは、痛みを伴う時間でもあったと感じています。
そう簡単には拭えない苦しさであることを思いながら、こうして気持ちを吐き出す時間が必要な時には、またよかったらお話を聞かせて下さい。
感想1
泣く資格もない程に自分が悪いと涙を流すあなたを想像し、悲しくやるせない気持ちになりました。わかってもらえない辛さと、共感し合えない寂しさ、そんな二つの気持ちが日々募り孤独でいっぱいになっているのではないでしょうか。
「人の気持ちを考えろ」と言われ続けたあなたに入れ替わり、「私の気持ちを考えたことはあるのか?」と大きな声を張り上げたい気持ちにもなりました。あなただけが悪いと、思い込ませた社会に憤りを感じたからです。実のところ「人の気持ち」は状況や相手が違えば、同じ振る舞いや返答であっても正解にも間違いにもなる気がします。そして、なおかつ人の気持ちは都度変わっていくものなので、絶対的な正解も無いようにも感じます。「普通は」「たいていは」「多くの場合は」という、暗黙の了解を察したような関りを良しとする風潮が多いように思いますが、人の気持ちを考えた関りというのは相手の尊厳や価値を侵さないということのように思います。
孤独の嵐に巻き込まれていると、自分が悪いということがいつでも出発点となり、自分自身に向けた先入観や偏見で、実際のところの自分がわからなくなってしまうこともあるように思います。あなた自身が全部変わらないといけないということは、無いのでは。それはこの投稿を読み、あなたが苦しさの中にいながらも考え続けている誠実な姿勢は何物にも代えられない、人として信用できる人であるように思うからです。これまでの傷つきを手当しつつも、自分一人ではなく他者を介して自分のことを考えるという手もあるのかもしれません。率直な思いを綴っていただき、ありがとうございました。