「どうか今日は怒られませんように」
これは私がいつも小学校から帰宅するときに繰り返し心の中で唱えていた言葉だ。
物心ついたときには私は祖母から精神的虐待を受けていた。共働きの両親に代わり私を主に子育てをしていたのは祖母だった。その祖母から私は精神的虐待を受けていた。
ともかく何かにつけて祖母は私を怒る。その怒りのポイントがどこにあるのか私には分からなかった。祖母は私と近所の子と比べ近所の子を褒め私をダメな子扱いをした。
また何か壊れていたりすると私のせいにされた。全く身に覚えがなく祖母から怒られたときに「私はそんなことをしていない。」と言っても信じてもらえなかった。「そんなことをするのはお前しかいない。普段から怒られるようなことをするから悪い」と怒られた。だから、「怒られませんように」としか願うしかなかったのだ。
また私は学校ではいじめを受けていた。それは小学校の6年間、中学校の3年間毎年続いた。低学年のときは仲間外れだった。それが学年が上がるたびに物が壊されたりするようになった。
先生は見て見ぬふりか私が我慢できず言い返したということを指摘し喧嘩両成敗にした。「学年で1番嫌われてる」というような手紙をもらったこともある。このときは学年全員を一つの教室に集められた。私はてっきり先生が助けてくれると思った。その手紙を出した子を怒ってくれるのかと思った。しかし、そんな期待は甘かった。先生は一つの教室に集められたみんなの前に立ちこう言った。「この学年で1番嫌われているのは○○(私の名前)なのか?」と。私は下を向くしかなく同級生は首を横に振って「違う」という意思表示をしていた。そのときの私の記憶はそこで止まっている。頭の中が真白になってしまった。幼馴染に最近聞いたのだがその後に先生は「こんなひどい手紙を書いてはいけない」と言ったようだが私の記憶の中にはそのことは全くない。
中学生になるといじめはもっとひどくなった。1年生のときは直接的な言葉を使わずに間接的に「汚い」と言われた。次第に教室に入れなくなり給食を階段の踊り場で食べていたがそこで食べることすらも「邪魔」と言った目で見られた。
その当時、私が通った中学校は荒れていて担任が1年のうちに数回変わるような学校だった。私のいじめに対してクラスで話し合いが行われた。いじめっ子たちは話し合いが行われたのが気に入らなかったのかなぜいじめるのかをしきりに先生に言っていた。その中の一つに「趣味が合わない」ということがあったが先生はそれを聞き「それじゃあいじめられても仕方ないね」と言って話し合いは終わった。
2年生になると移動教室の後に私の机は蹴られて中のものが散乱していた。担任は見て見ぬふりだった。部活はバスケットボール部に入っていたがそこでもいじめられていた。当時私の中学に駅伝部があったが部員が少なく大会に出られないということがあった。なので、バスケットボール部が駅伝部を手伝うことになった。駅伝の選手の選出のときタイムが早い人から5人を選手にすることが先生から告げられた。コースを走って私は5番目に入った。そうして私が選手になったとき、みんなが私を選手にさせまいと必死に先生に「今日は○○さんの調子が悪かったんです。いつもなら○○ちゃんのほうが調子がいいんです。」と言っていた。私は先生に「○○さんを選手にしてください。」と言いたくて仕方がなかった。しかし、先生はみんなの声を消すように強い口調で言った。「タイムが早い人から5人を選手にすると言ったはずです。」と。
大会当日、私のほうが5人の中の1人よりタイムが早かった。その時に私に聞こえて先生には聞こえないように「あ~あ、バカ○○(私の名前)に負けた。」と言う言葉が聞こえた。部員の1人と似たようなタオルを持っていくとその子に「同じタオルを持ってこられてかわいそう」と私のほうを見ながら言う声が聞こえた。
クラスでも部活でも居場所がなく我慢は限界に達しノートにいじめのことを書いて先生に伝えた。その日のうちにそのノートを持って顧問が家に来た。祖母は「どうせ悪いことでもしたんだろう。」と言った。顧問は両親にノートを見せて今私がいじめに遭ってることを伝えた。母は泣いていたが私はなぜかそんな母を冷めた目で見ていた。その後部活で話し合いが行われた。1年のときと同じようにいじめた側はなぜいじめるのかを先生に必死に訴えていた。先生は黙って聞いていた。その中に「走るときに足音が大きいから」という理由もあった。しばらく黙っていた顧問が口を開き怒鳴った。「どんな理由があってもいじめていいという理由にならない」と怒鳴った。その怒鳴り声にいじめた側は泣いていた。泣きたいのはこっちだった。
クラスでも話し合いが行われ一応私のいじめの問題は解決したということになった。その時には私のおでこにはびっしりとニキビができていた。今までなかったことだったので自分でもびっくりした。ただ完全に解決したというわけではなく大々的にいじめるということがなくなっただけでこそこそとしたいじめは続いていた。
3年生になると1階の教室だったからか私の文房具が窓から外に投げられた。それを取りに行き教室に戻ると次が投げられるということが繰り返された。私はいじめられていることを先生に言うことはしなかった。先生に言ってもどうせ解決しないと思っていたのもあったから言わなかったのだと思う。また受験で余裕がなかったからだ。
ある日先生に呼ばれたときがあった。私の他にもいじめられている人はいた。そのことで先生に呼ばれたのだった。先生は私に「なぜいじめられていたのに他にいじめられている人を助けないのか。」というようなことを私に伝えた。私はそのときは先生の言葉を聞いても腹立たしくもなく何も思わなかった気がする。今までのいじめで感情をなくしてしまった感じだった。
私はずっと学年が変わるたび「今年はいじめられませんように」と願った。また学期が変わるたび「○学期はいじめられませんように」と願った。願いは叶わなかった。
私はともかく勉強をしていた。勉強をしていい大学に入りいい会社に入ることだけが私の生き甲斐だった。また友だちは裏切るけれど勉強だけは私を裏切らなかった。勉強はすればするほど成績は良くなった。そうやってずっと勉強をして私は国立大に合格した。合格したときは本当に嬉しくこれでいじめっ子を見返せると思った。
そう思って過ごしたが私は20歳のときにうつになってしまった。両親は一人暮らしをしていた私を無理矢理実家に連れて帰り病院に連れて行った。病院に行けども病気は良くならない。願いは「今年は病気がよくなりますように」に変わった。だが、願いは叶わなかった。実家には私を虐待する祖母がいたため悪くなる一方だった。何かにつけ文句を言われ、キチガイだとも言われた。私が大学に行かず家にいることを近所の人に知られないように私は何か聞かれた時の受け答えを祖母に決められた。熱を出し近所の病院に行くときは人がいない遠回りのルートで病院に行くように言われそれに従った。両親に祖母のことを訴えても相手にしてもらえなかった。
何もかも嫌になり私は自殺未遂を繰り返した。そのたびに病院に入院することになった。入退院を繰り返していた。次第に「今年こそは入院せずにすみますように」と願いは変わった。
しかし、入院は繰り返され入院の同意書にサインをするときショックを受けたものだった。そして、大学に復学することは難しくなり中退せざるを得なかった。大学から退学届けが家に送られてきた。記入して返信するときには悔しくてたまらず、私の中では今でも大学を中退したことが心に引っかかっている。
今は入院まではいかないもののまだ心療内科に通院する日々が続いている。「幸せになれますように」と結婚をしたもののモラハラを受け離婚しひとり親としてなんとか生き延びている。「幸せになれますように」と今も願っているがその願いも今までと同様に届きそうにないような気がする。せめて子どもだけには私のような思いはさせまいと必死だ。幸い今のところ私と同じような思いはしてないようで安心している。現在、人生の半分が終わろうとしていてその半分を病気と共に過ごしている。そのことを今年はすごく実感する年でとても辛い思いを抱いている。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。どうにも変えようがないことや周囲のあなたへの感じ方、くだらない理由、理不尽な理由でいじめられ、辛い気持ちをごまかして必死に生きてこられた様子が文章を読んで伝わりました。経験談の中の「今までのいじめで感情をなくしてしまった感じだった。」という文章から、あなたがどれほど辛い気持ちを我慢し、生き抜くために昇華させてきたのかも想像しました。それと同時にしんどい状況ながらも願い、希望を探し、希望を持ち続けながら生きていく強さも感じました。「幸せになりますように。」という願いについて、文章を読みながらあなたにとって「幸せ」とはどんなことなのだろう?と興味が沸き、聞きたいと率直に感じたところです。幸せの形は、人それぞれ感じ方やとらえ方が違うので、色々な形があっていいと私は考えます。たまに多くの人が支持する価値観や社会的風潮に惑わされて、いつまでも幸せを感じられないということに陥りがちですが…(あなたがそうとかではないので、誤解しないでくださいね…。)周囲の意見や評価に惑われず、あなた自身の実感で喜びや楽しみを大事にする中で、幸せを感じることができたらいいのかなぁとふと思ったところでした。