小学生の頃から、私には友達が少なかった。
アイドルとか、学年で誰がかっこいいとか、そんな話についていけなかったし、自分にも自信がなかったから、人と関わるのが苦手で、根暗で地味な生徒だった。
生まれてからずっとぽっちゃり体型で、気にしていたのだけれど、私の数少ない友達はみなすらっとしていたために、一緒にいると周りに体型をいじられることもあった。
私の取り柄は勉強ができること。それ以外は何もできなかった。
運動音痴でコミュ障、顔も可愛くなんてない。だから、クラスメイトに話しかけるのが怖かった。
明るく話してくれても、心の底ではお前みたいなブスが話しかけるなと思っているのではないかと恐れていた。
中学の休み時間はずっと机にかじりついて勉強した。ガリ勉だったから、もちろん友達なんてできず、定期テストの成績を維持することだけに集中した。
本当に本当に勉強だけが、私の唯一の取り柄だったから。
でもどうだろう。ある日突然苦しくなって、学校に行けなくなった。
惨めで、情けなくて、終わりだと思った。
勉強が手につかなくて、その間にもどんどん授業は進んで、私はただの出来損ないになっていく。
今まで信じてくれた先生にも見捨てられてしまうような気がした。
ただただ日々を浪費した。
それから通信制高校に入学して、今度こそ失敗したくないと誓い、大学受験はうまく乗り越えたいと思って今日まで過ごしてきた。
自分なりに努力を重ねてきたつもりだけど、模試の英語の成績が上がらなくて、もしかしたら中学英語が完璧でないからなのではないかと思った。
中学英語からやり直すなんてもう間に合わないじゃないか。
結局は過去の自分の選択にずっと苦しめられていることになる。
あのとき全てから逃げ出したから。
もう少し耐えていたらまた違った人生だったかもしれないのに、それでも逃げざるをえないぐらい苦しんで消えてなくなりたいと願った自分のことも嫌だった。
支えてくれる人を裏切りたくなくて、一緒に乗り越えていきたいのに、また私は逃げようとしている。
逃げても苦しいことはもうとうに分かっているのに。
感想1
タイトルに「逃げてしまう」とありますが、経験談を読んだ私の印象として、あなたが逃げているようには思えませんでした。むしろ、厳しい現実にあなたなりに立ち向かってきたように思いました。でも、あなた自身は「逃げてしまう」と確かに感じている…この違いは何だろう?と考えています。一つ思いついたのは、平等や公平とは何か?という問いでした。すべての人が同じ条件で頑張って同じ結果を出すことを求められるとしたら、確実にそこには結果の差が出ます。例えば、あなたの経験談に出てきた「明るく人と関わること」「アイドルなどの流行の話題についていくこと」「運動ができること」「成績がいいこと」などなど…それは誰もが自然とうまくできるのではなく、もともとの得意不得意や向き不向きああると思うので、同じ努力で結果を出すことは不可能だと思いますし、本来は同じ結果を出す必要がないのでは?と思います。しかし、私たちの周りには「〇〇すべき」「~~の方がいい」「△△でなければならない」など一律の結果を求めてしまう圧力があります。私はそうした圧力は人を幸せにするものではなく、あなたのように苦しむ人を増やすだけだと感じるのですが、なぜかそうした圧力はあり続けて、死にトリにつながる多くの人たちを苦しめてているように思います。明るい人がいてもいいですが、明るくない人がいるのも当たり前ですし、おとなしく控えめでも悪いことは全然ないと私は思います。勉強や運動もできる人はできる人でそれでもいいですが、できないからと言って否定されたり、必要以上の努力を求められるものではないと思います。
最後に「逃げても苦しい」とあり、改めてあなたは何から逃げているのかな?と考えてみました。逃げることはよくないことと思われがちですし、確かに逃げない方がいいこともあるかもしれませんが、私は逃げることも一つの選択として大切だと思っています。誰かが自分を責めながら「逃げちゃいけない」と思うことは、おそらく今がどうしようもなく苦しいからだろうと思います。だから、私はとりあえず苦しさからは逃げるのは誰にとってもありの選択だと思います。あなたの苦しみはあなたの努力不足や逃げからくるのではなく、私たちが作り出している固定化された価値観やそこからくる圧力であると私は考えています。その固定概念からは私は逃げたいと思いますし、みんなで逃げようと誘いたくなります。そして、自分を含めて誰もが無理をせず自然体で生きていける社会を目指すことからは逃げたくないと感じました。