経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
2人は確実にいるし喧嘩をよくするが仲裁ができない。
理想を求める自分と感情的な自分がいる。それはみんな同じな気がする。
しかしその二つが喧嘩している時の対処法がわからない。
理想を求める自分は、妙に冷静で平等で少し冷たい。
感情的な自分は、子どもと言われるとまた少し違うような、思春期くらいの年齢かもしれない。
また、昔の失敗談を思い出してはこの2人の存在が拡大していくように感じる。
私は自分の好きなところも嫌いなところもたくさん書けるし、周りに感謝ができていると思う。
人よりできることも多少なりともあるらしい。
私の周りは家庭環境を最初とした色々なことに対して哀れみ、私を心配し、それに対してどうにかこうにかしてきた私を評価してくれている。
理解ある友人に恵まれていると思う。
人を愛することもできた。私の家庭環境とその人の家の価値観の問題で別れてしまったが、その人といる数年は人生で最も幸せだったと言える。私は人を愛し愛される事ができて、その幸せに涙できる人間だったことはとても幸運だったと思う。
さてこんだけ書いてきてなんだが、これらの出来事全てに対し私はかなり俯瞰して見ている気がする。それもかなり遠くから。
そして猛烈に死にたくなる、というか、いなくなくなりたいと思う。
どうせ死ぬなら世間様に迷惑かけて生きてきた分、臓器を綺麗にあげたいと思っているのでいなくなりかたは多少わがままになるが、やはりいなくなりたいのだ。
やりたいことは何だ?とそれなりにきかれているが
やりたいことはない、やるべきことはある、といった事が本音だ。
しかしその答えは相手が求めてるそれではないと流石にわかるため、適当な夢を語る。相手は目に見えて安心する。
最初の話に戻る。
妙に記憶力がよく、感情が優勢になりすぎるため俯瞰する癖をつけていたら大気圏なんてとうに突き抜けた場所で見るようになっていた。
そして、理想と感情が喧嘩し続ける事が現実の目の前にある痛みになったり、大気圏外からみた争い(つまり気にしない感じ)になったりしてると
とても疲れる。
とっても疲れる。
距離が半端ないどころの話ではない。
宇宙飛行士でもこんなに往復はしない。
これを読む人がいるのか分からない。しかしきっと同じ人はいるだろう。
読む人の中にはなんだそりゃと思う人もいるかもしれない。
前者はとりあえず心の中で握手をしたい。
後者はよろしければ喧嘩した時どうすればいいかを”いつわかったのか”を知りたい。喧嘩の仲裁法だとかは人によるところがあると思うので大丈夫。結構。
また、歳とったら大丈夫、時間が解決する、が谷底に落とす発言なのは恐らくわかってくださると思うが言わないで欲しい。辛いそれらがこの後ずっと続くことを考えると割としっかり目に今すぐ死にたくなるから。
しかし、その問の答えはどんなタイミングでわかったのか、は少しまだ興味がある。
よろしければ教えてもらいたい。
長文の駄文を呼んでもらえてありがたい。
感想1
投稿ありがとうございます。
私自身、ふだん頭と心がほとんど分離した状態で、なんとか外の世界に適応するためにどちらかを引っ張り出して暮らしていると自分のことを分析しています。投稿者さんと全く同じではないかもしれませんがどこか重なる部分もあるような気がして、感想を書かせてもらっています。
投稿者さんは二つの状態を「理想」と「感情」というふうに表現していましたね。(言葉のあやかもしれませんが)「理性」ではなく「理想」である、というところが個人的に興味深かったです。頭で(理性で)何を良しとするかという通念よりも自分の中での納得感を重んじているということなのでしょうか。あるいは明確な比較対象(理想に達しているかを測れる基準的なもの)のような理想像があるのか、聞いてみたくなりました。
状況を俯瞰していくことは、ある意味で理想と現実のギャップを冷静に測ることにも繋がるような気がします。それでいうと、投稿者さんが自分をかなり遠くから見ていることは、一見「理想に近づくための手段」という感じもしますが、俯瞰することによって猛烈に死にたくなるということは、俯瞰は自ら望んでやっていることというより「やったほうがよいこと」として発動されているスキルなのか?と推測しました。
自分の話で恐縮ですが、私は感情優位で過ごした結果、対人関係が壊れたり、自己肯定感が下がったり、仕事が続かなかったりと生活に支障をきたした(と感じた)ので、思考することで自分なりの解釈をし、俯瞰の視点を育て、感情を制御しながら生きていると思っています。社会への適応度は上がったと思いますし、投稿者さんの言葉に基づいていうと「二つが喧嘩したときどうすればいいか」はなんとなく掴んでいると言えるのかもしれません。反面、「自分が何を求めているのか」は年々わからなくなっていく感覚があります。それでいうと、投稿者さんは「仲裁が出来ない」というよりも、「二つの状態を混ぜないようにしている(しかし理想や俯瞰が基本前に居て、感情が後ろに回されている)」という感じなのかな?と勝手ながら想像しました(あえて言葉にすると、という感じですが)。
人が理想を持つとき、それが自分の行動に色濃く表れるとき、それは必ずしも前向きな理由によるものだけではなく、「自分を制御するため」という苦さと紙一重なのかもしれないと感じました。「感情や気持ちを何よりも大切に」とは中々言う気になれない世の中ですが、せめてひとつくらい、自分の言葉で語れる場があってほしいと思いますし、死にトリがその場になり得るようなら、また訪れてみてほしいと思います。
お返事
まずご返信をいただきありがとうございました。改めて投稿した読み返すと凄く読みづらい文章で、昔作文が不得意であったことを思い出しました。小説やエッセイをよく読むし、漫談のようなお喋りは褒められることも多いのですが文章だと上手くいきませんね。
こんな文をちゃんと読んで解析してお返事をくれるなんて思ってもいなかったので正直さいしょは驚くばかりでした。
言葉選びのこだわりに気づいて貰えたことには感動しました。理想のくだりは特に解析されたとおりなんです。
また、皆さんも意外と2つの何かが戦ってしまう際の対処法が似たり寄ったりだとわかったことは、安心と不安のどちらも抱く結果でした。答えてもらってなんなんですが、予想通りっちゃ予想通りなんです。”あぁやっぱりそうか”という安心と、”やっぱ一生解決しやんのかもな”という諦めというか妙にスッキリとした絶望が生まれました。難しいものですね。
ちなみに俯瞰のきっかけを
感情優位に動いた結果周りに迷惑をかけたから、
と想像してくださった方がいましたがほぼ正解です。
よくある話ですが幼少の頃は割と極端な平和主義の潔癖でした。また、人の感情や関係性の機微があまりわかりませんでした。ようするに空気が読めない子でした。(今それがゼロ、という訳では無いですが)。その結果人を悲しませたり怒らせたり呆れさせたりしたことが多く、虐められたこともありました。自分の感情優位というより人の感情が分からない自分の無知な振る舞いによって、そうなったんだと思います。習い事で楽器をしていましたがその時師範の動きやタイミング、音を模倣し丸暗記する必要があった為、人間関係も俯瞰して模倣することでどうにかなるかもしれないと思いし始めたことが俯瞰の始まりだと思います。
そして俯瞰が酷くなった理由は明らかに家庭環境であったと思います。大人に囲まれた子供だった、といえば想像は容易いかもしれません。
最近は突然ひとりごと(恨み言や何かへの謝罪)や変な動きが自制できなくなり、俯瞰のし過ぎでストレスをどうにも出来なくなっているのではないかと感じています。俯瞰のし過ぎによる感情の抑制はよくありませんね。
まぁうまい消化方法が見つかっていないので悪化するばかりですが…。
結局また長くまとまらない文章になりましたが、重ねて申し上げたいことはこんな私の言葉を理解しようと頑張ってくださったことが先ずとても嬉しかったということです。ありがとうございました。
感想1
投稿ありがとうございます。
私自身、ふだん頭と心がほとんど分離した状態で、なんとか外の世界に適応するためにどちらかを引っ張り出して暮らしていると自分のことを分析しています。投稿者さんと全く同じではないかもしれませんがどこか重なる部分もあるような気がして、感想を書かせてもらっています。
投稿者さんは二つの状態を「理想」と「感情」というふうに表現していましたね。(言葉のあやかもしれませんが)「理性」ではなく「理想」である、というところが個人的に興味深かったです。頭で(理性で)何を良しとするかという通念よりも自分の中での納得感を重んじているということなのでしょうか。あるいは明確な比較対象(理想に達しているかを測れる基準的なもの)のような理想像があるのか、聞いてみたくなりました。
状況を俯瞰していくことは、ある意味で理想と現実のギャップを冷静に測ることにも繋がるような気がします。それでいうと、投稿者さんが自分をかなり遠くから見ていることは、一見「理想に近づくための手段」という感じもしますが、俯瞰することによって猛烈に死にたくなるということは、俯瞰は自ら望んでやっていることというより「やったほうがよいこと」として発動されているスキルなのか?と推測しました。
自分の話で恐縮ですが、私は感情優位で過ごした結果、対人関係が壊れたり、自己肯定感が下がったり、仕事が続かなかったりと生活に支障をきたした(と感じた)ので、思考することで自分なりの解釈をし、俯瞰の視点を育て、感情を制御しながら生きていると思っています。社会への適応度は上がったと思いますし、投稿者さんの言葉に基づいていうと「二つが喧嘩したときどうすればいいか」はなんとなく掴んでいると言えるのかもしれません。反面、「自分が何を求めているのか」は年々わからなくなっていく感覚があります。それでいうと、投稿者さんは「仲裁が出来ない」というよりも、「二つの状態を混ぜないようにしている(しかし理想や俯瞰が基本前に居て、感情が後ろに回されている)」という感じなのかな?と勝手ながら想像しました(あえて言葉にすると、という感じですが)。
人が理想を持つとき、それが自分の行動に色濃く表れるとき、それは必ずしも前向きな理由によるものだけではなく、「自分を制御するため」という苦さと紙一重なのかもしれないと感じました。「感情や気持ちを何よりも大切に」とは中々言う気になれない世の中ですが、せめてひとつくらい、自分の言葉で語れる場があってほしいと思いますし、死にトリがその場になり得るようなら、また訪れてみてほしいと思います。