数年前から今になるまで、僕は自分に生きる意味を見いだせないでいます。なんなら、死んで楽になりたいとすら思います。
別に、周囲の環境が劣悪であったり、いじめにあっていたり、人間関係が最悪であったわけではなく、どこにでもいるような普通の人生を送ってきました。
皮肉にも、小学校で病弱たった時にサッカーをやることになり、そして高校生になり、初めて好きなサッカーチームの影響もあって、本当の意味でサッカーを好きになれました。それ以降は、今までがどうしたというようにサッカーの動画を見たり、戦術をチェックしたりと、本気で打ち込めました。………けど、スタメンになることはできませんでした。思い返せば、始めたとき、サッカーが大嫌いでした。ミスすれば怒られるし、「これをすればより良くなるんじゃ…?」と少し違うプレーをしても同じ結果。
勉強も同じでした。もとから、勉強が好きではなかった。できることなら、本を読んでいたかった。けど、いい成績を取ってほしいと期待を押し付けられることもしばしばで、そうならざるを得なかったように思います。しかも、それにつれて例えテストで良い成績と呼ばれるような点数をとっても、「なんであのときこんな答えしかできなかったんだ?」「なんでこんな問題も解けないんだ」と自分を責めるようになりました。友達にはよく、「テストどこやればいいの?」とか「この解き方教えて!」と頼られることは意外とありました。けど頼られているのに、「自分は、皆から頼られるようなやつじゃない。頼まれる価値もない」と思い始めていました。
第一志望に落ちて別の高校に進学した時も、両親の勧めで本来行ってみたかった大学を諦め、別の大学に行った時も、自分を責めました、「自分はなんて醜く、無価値で、いてもいなくても変わらないようなやつなんだ」と。バイト先でも、皆さんとても良くしてくれますが、いつか自分が邪魔になる日が来る、自分の代わりは幾らでもいると言われる気がして、心の奥深くでは怯えながら生きています。それが、いずれ大学の友達などにもそう言われる気がしてなりません(皆親しく話しかけてくれますが)。結局のところ、私がいなくても世界は変わっていく。なんから、私はこんなに美しい世界に生まれてしまった、いわば不良債権だ。私が死んだほうが、周りの友達や関わってきた人、家族にとって幸せこの上ないのではないかと考えるようになっています。
そして、今大学生として生きる中でも、その苦しみは消えていません。「就職できなければ、家族に迷惑をかける」「地方のところを受けてみたいけど、家のことを放ってはおけない」「けれど、こんな迷惑ばかりかける自分がいる価値などない」「いっそ今すぐ死ねば、家族のためになるんじゃないか…?」など、そんな考えに縛られている自分がいます。
思えば、私の人生はいつも、何かの奴隷だったような気がします。いつだって、自分の意見を最後まで押し通したことはただの一度もなかった。誰かのために、自分のことなんかどうでもいいと、気持ちを押し殺して生きてきた。そして、その結果多くの人に迷惑をかけ、悲しませ、周りを不幸にしてきた。家族は数ヶ月前に昔の話をして、「世界で一番あなたたちが大切」と嘘偽りない言葉で言ってくれた。けれど、私はそう思えませんでした。たぶん、この世界で私は生きる意味がなければ、生きているだけで周りに不幸を撒き散らす、罪な人間なのだと思いました。
支離滅裂な文章を長々と、申し訳ございませんでした。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
この世界にいる意味
感想2
投稿読みました。自分の本当の思いは後回しに(そうせざるを得ず)、社会から感じる価値観や周囲からの無意識な期待に応えようとすることが癖になっていたけれど、ふと我に返った時に“気づいてしまった”ことで苦しくなり、無力感のようなものを抱いてしまったことが伝わってきました。いじめにあったわけでも、特別に環境が悪かったわけでもないと書かれていましたが、私はその言葉の背後に、「苦しんでいる自分が苦しんでいると言っていいのか」という葛藤を感じました。物理的な困難がないからといって、心の痛みがないわけではないですし、むしろ、「普通」であることを求められ、「周囲と比べて恵まれているんだから」と言われてしまう社会の中で、声をあげることすら許されず、心がすり減っていく…そんなイメージを抱きました。
サッカーについても勉強についてもきっと、あなたはずっと「結果」で自分を評価し、“そこに届かなかった自分は意味がない”としてきたのだと思います。誰かに頼られても、「自分なんかが」と否定してしまうこと、他人の善意を信じきれずに“自分の価値は無い”と結論づけてしまうことは、環境や外的要因によって植え付けられてきたところもあると思いますが、自分自身に厳しくあるべきと思うことがある種この社会で生きるためのあなたなりの術(何とか自分を保つための)だったりするのかもしれないと私は考えていました。(全然違ったらすみません)
この社会は、「効率」や「成果」、「適応性」ばかりが重視され、個人の“存在そのもの”については見過ごされがちだと私は感じます。だからこそ、あなたのように“周囲の期待に応えなければ”と思い詰め、自分の気持ちや望みをずっと後回しにしてきた人が、静かに疲弊していくのだと思います。そして、“自分のせいで周囲を不幸にしている”と思い込んでしまう構造こそが、実は多くの人の心を蝕んでいる社会的な病理なのではないかと、私はあなたの文章を読んで改めて感じたところです。
最後のほうに書かれていた「私の人生はいつも、何かの奴隷だった」「気持ちを押し殺して生きてきた」という言葉が印象的で、あなたは、自分を押し殺すことで周囲と調和しようとしてきたその選択はどこか「正しさ」に縛られすぎていて、あなたの本当の声を置き去りにしてしまっていたのかもしれないなとも感じました。そしてそれは、あなた自身のせいではなく、他者との関係性の中で、社会の中で、少しずつそう育てられてきたもののように思えるのです。ただ、あなたがこうして自分の思い含めて綴り、投稿するという行為にまで至ったこと、それ自体に、私は深い意味を感じています。それは、どこかで「ちゃんと自分のままで存在したい」という願いの表れでもあると思うからです。そう容易なことではないのは承知の上で、この先少しでもあなたが安心して自分を押し殺さずにいられる場所や人に出会えることを勝手ながら願っています。また死にトリが必要に感じられたらいつでも訪れてほしいです。お待ちしています。
感想1
あなたの文章を読んでいて真っ先に感じたのは、市場経済の言葉が人の生き方に深く浸透してきていて、人を苦しくさせているのかもしれないということでした。「価値」や「不良債権」などの言葉が自分を捕らえる言葉として使われていますが、それらは本来人間に当てはまるものではないと思いました。あまりにも社会が市場経済化しており、人間があたかも商品のように感じられ、自分を価値がないものだと捉えてしまわざるを得ない状況がそこら中にあるように思います。恋愛も人間の成熟のための関りというものから、よりコスパのいい商品を選ぶかのようなものになっていたり、就職活動でも自分を商品として価値のあるものとして売り込まなければならなかったり、いつまでも自分という商品を価値あるものにせねばならんというような強迫に、多くの人が晒されているように思います。
つまり、あなたの言うような「どこにでもいるような普通の人生」を送らざるをえなかった人ほど、実はそうした人間を苦しめる価値観に合わせて頑張っていきてきた人であり、その呪縛に苦しんでいるところがあるのではないかと感じました。
私も実は体育系の部活をやっていたのですが、大人になって分かったことは運動よりも圧倒的に好きなものがあったということでした。
それにまったく気がつかないというか、やはり周りの流れや要請に従ってしまったのだなと感じています。無駄だったとは思いませんが、自分をまっすぐに生きていたかと言われれば大いに疑問があります。大人になってから、そういう矛盾に限界が来て、とても苦しい想いをしました。少しずつ、社会の価値観からどう降りて自分らしく生きなおせるかが私のテーマになったように思います。そう思えるまでには苦しさもありましたし、今もいろいろ苦しくなることはありますが、その度に、自分を覆っている社会の価値観を疑う癖みたいなものはあるように思います。あなたの苦しみを自分のものと引き寄せ過ぎているかなとも思いながらも、率直に私の身体に入ってきた感慨を書いてみました。また何か発見があったら書いてみてください。