11月の終わりの頃。私は学校を休んだ。
頭痛や立ち眩みが酷く、立ち上がると目の前が砂嵐のようになる上、頭がぎゅうっと締め付けられるように痛んだから。
初めは、ただの偏頭痛だと思っていたのに。
その日から、私は学校に行けなくなった。
私は、小学生の頃からずっと、「真面目な優等生」だった。
成績は良かったし、小学校では生徒会、中学校では学級委員をしていた。
扱いやすくて便利で、自分で言うのも難だが、先生達の理想的な生徒だったかもしれない。
あの頃は、私もやりがいや責任感を持って取り組んでいて、その仕事が好きだった。
だけど、中学1年の2学期から、段々とずれていったように思える。
やりがいは重積に、責任感はプレッシャーに変わり、毎日、課題、塾、部活、委員会の仕事、、、と、「やらなければならないこと」に押し潰されるようになった。
何をしていても、
「本当にこれでやらなきゃいけないことは終わったの?まだやり残しがあって、迷惑を掛けてるんじゃないの?」
と自問自答してしまい、足元が無くなるような不安感に付き纏われた。
旅行に行った時も、常に「本当に遊んでいいのか分からない、何かしなきゃ、、、」と思っていたのはよく覚えている。
そんな生活を半年以上も続けていたからか。
11月の終わり、糸がぷつんと切れてしまった。
起立性調節障害だった。
ストレスなどが原因で起こる、思春期によくある病気だ。
勝手に涙が溢れた。息が出来なかった。
今までの優等生だった私と、登校すら出来ない私の差に打ちのめされて、思い描いていた将来は叶わなくなったのではという不安に押し潰されて、毎日夜中に一人で泣いていた。
誰かが溜息を吐いたり、こちらを見たりする度に、「何でこんなことも出来ないの?」と言われているような気がした。
クラスメイトや家族に申し訳なくて、自分を責める毎日。
生きる価値を見失い、本気で死にたいと初めて思った。
あれから半年以上経った今でも、頭痛は大して改善されていない。
最後の授業に少しだけ出れるくらいには良くなったが、頭痛も絶望感も残ったまま。
あの時つまづかなかったら、病気にならなかったら、あの頃に戻れたら。
そんな叶うわけのない妄想が出て行ってくれない。
本当に、つまづいて地面に蹲ったまま泣いていた私を笑える日が来るのか。
朝から学校へ元気に行ける日が来るのか。
来たら、いいな。
来る前に自殺しないように、頑張らないと。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
つまづいたまま起き上がれなかった、私の半年
感想2
経験談への投稿ありがとうございます。できていたことができなくなる、その辛さに胸が締め付けられる気持ちでした。頭痛や立ち眩みの来た日を境に、この半年間、蹲ってどれだけ泣いたのか。立ち上がりたくても立ち上がれない、心と体が一致しないそんな苦しさを感じています。本当に泣くしかできない、そんな日々だったのではないかと思います。
あなたの生きる価値は、今ここにあって「できる、できない」に左右されるものではないとわたしは思います。できない時には、しっかり休んで、できそうな時に頑張ればいい、1からのスタートでもいい。
誰でも、最初はできなかったはずなのに、いつの間にかできるようになって、知らない間に「できる自分」にプライドを持って、「できない自分」が許せなくなる不思議があるなあと私は思います。生まれてきて、歩けるようになったことだけでもすごいことだったじゃないかと、時折思うんです。
家族やクラスメイトはあなたになんと言葉をかけているのでしょう。そこに厳しさがなければいいなあ、と思うのですが・・。どれだけ優しい言葉をかけられていても、それを受け入れられないほど、自分への厳しさでいっぱいの状態なのでしょうか。
自分が自分にとって、一番近い存在だからこそ、優しい言葉をかけていてほしい、本当にそう思っています。少しずつ、授業の最後でも行けるようになったこと、それだけでも十分すごいことなんじゃいかな。できなかったことができるようになること、できなくなったことができるようになること、その挑戦やプロセスにこそ価値があると、私は思います。
お返事
返信ありがとうございます。
久しぶりに声を上げて泣きました。
今やこれからのことを考えると、辛くて、死にたくなってしまうので考えないようにしていたのですが、私の気持ちに寄り添ってくれる人がいるんだ、というのが文字に残っていて、とても安心出来ましたし、考える勇気も出ました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。「優等生」という言葉に絡みつく重さと、その重さに耐え続けてきた時間、ずっと気を張り詰めてやり過ごしてきたのではないかなと感じました。頑張りが形になること、信頼されること、期待に応えること、それはきっとあなたにとって喜びでもあり、自分の存在を確かめる手段でもあったのではないかと想像しています。でも、そこに向けられる期待や周囲の反応によって気づかぬうちに、やりがいは足枷になり、責任感は息苦しさとなり、優等生の姿は“本当のあなた”を置き去りにしていたのかもしれないなと思います。
起立性調節障がいという診断名がついたとき、身体に起きた異変がやっと“病気”として認められたことに、少しは救いを感じた反面、“病気であること”によってさらに孤独感と無力さを深めてしまったようにも読み取れました。自分のせいではないのに、自分を責めてしまう、そういう心の癖は、長年「ちゃんとやること」に価値を置いてきた人ほど、強く根を張ってしまうものなのかもしれません。
あなたが叶うわけのない妄想に苦しくなっているのも、ただ先の不安があるからというよりも、あなたが周囲とどう関わってきたか、どれだけ人との関係性を大切にしてきたかの裏返しだと私は感じました。だからこそ、自分が“役割を果たせなくなった“時、自分の存在そのものに価値がなくなったかのように感じてしまうのかなと…。その感覚の残酷さは、周囲に言葉ではなかなか伝えきれないですよね…。家族や身近な人、一人でもあなたの味方でいてくれる人や理解してくれる人はいるのだろうか…と気になっています。
現状の教育の中で、子どもは“努力すること”を当たり前のように求められているな…とつくづく感じます。(求められていることはそれだけではないですけどね…)でも、“何かに追われ続ける毎日”がどれほど精神を消耗させるかを、きちんと理解する大人も残念ながら多いわけではなく、あなたのように繊細で責任感の強い子は、誰よりも早く、自分で自分を追い詰めてしまうものなんだよなと、大人の一人としてそこに早く気づけないまま見過ごしてしまうことに申し訳なさと、何とかならないものか…ともどかしさを感じてしまっている自分がいます。
最後の「来たら、いいな。」という言葉に、明確な希望を見出せない中でも、それでも“いつか元気に学校に行ける自分”を想像している様子が感じられ、未来に対して“期待できないけど、まだ諦めきれていない”という、その繊細な揺らぎが表現されているように感じました。
あなたが今、「戻れたら」と思ってしまうほどの苦しさを感じていることに対して、簡単に「未来は開けるよ」とは正直、言えないです(そもそも安易な励ましや慰めはしたくない気持ちがありますが…)。ただ、ひとつ思うのは、例えば立ち止まったり、つらくて横になってしまったり、泣いてしまったりする時間も、確かに“生きている時間”だということです。なので、そう簡単なことじゃないかもしれませんが、自分のペースで、焦らずに、まずはその日で生きている自分の気持ちを大事に(守るように)、過ごしていけたらいいのかなと私は思いました。この先少しでもあなたが頑張ることを無理しなくてもいい場所や人に出会えることを願っています。またあなたにとって死にトリが役に立つようでしたらいつでも訪れてほしいです。