つい最近ASDの診断を受けた。
それで何かが変わるかと思ったけど、むしろ「ここからどうするの?」って混乱ばかり。
支援を受けたくても、制度の壁が高すぎて、自分の頭じゃ処理しきれない。
情報は多いのに、使える形では落ちてこない。
手帳の申請、住民票の移動、福祉サービスの地域制限……。
行列推理3点の脳でどうやってここ抜けるんだよって思いながら、
それでも「誰かに任せきりにしちゃいけない」と焦ってた。
処理速度だけが高くても意味がない。
書類を早く読むことはできても、“その場で理解して判断する力”が足りない。
目の前のことをこなすスピードはあっても、それが正解かどうかは全然わからない。
死にたい気持ちは、いつも背後にいた。
消えたい、じゃなくて“めんどくさいから全部やめたい”に近かったかもしれない。
でもそれを誰かに伝えることすら、めんどくさかった。
どうせ理解されないし、説明する言葉も足りないし、
「そんなことで?」って思われるのが目に見えてた。
だから、黙ってた。演じてた。
それでも今、こうして文章を書いてる。
たぶん、それが“少しはマシな日”だから。
もしこれを読んでる誰かが、「何を書いていいか分からない」って思ってるなら、
それも立派な“今”だと思う。
自分もそうだった。今だってそうだ。
正解の言葉なんて、たぶん最初からない。
でも、“ここにいる”って残すことは、たしかに意味がある。
書ける日が来たら、あなたも書いてみてほしい。
自分は今も、「元気になりました」とは言えない。
支援の手があるから少し動けてるだけで、本質的にはあまり変わっていない気もする。
でも、それでも今日ここに、こうして言葉を置くことはできた。
それだけでも、少しは“マシな選択”をした日だと思いたい。
いつかもっと落ちるかもしれないし、また「全部めんどくさい」と思うかもしれない。
でもそのときの自分が、今日のこの文章を見て、
「そういえば、あのときも何とかやってたな」って思えたらそれでいい。
誰かに届いても、届かなくてもいい。
でも、“死なずにいた日があった”ってことを、どこかに残しておきたかった。
書く内容も、実はAIに手伝ってもらいながら作った。
自分ひとりじゃまとめきれなかった雑魚だけど、それでも今日の言葉は自分のものだと思ってる
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
私もASDの診断を受けた人なので、まず勝手ながら仲間意識を抱きました。私はこれまでやったことのないことをやるのと、出かけるのが苦手なので、手続き系にとてもハードルがあります。
書く内容をAIに手伝ってもらったというのを見て、なるほど、と思いました。そう言われるまではっきりとは気づかなかったのですが、文章にあまりASDらしい表現が見られなかったのに、私は微かに違和感を抱いていたのだと思いました。(それが悪いとかでは全くなく、自分の中で謎が解けてすっきりしたのを伝えたくなっただけです…失礼しました)
ちなみに、ASDらしい文章表現とは何か?と言われると解説は難しいのですが、「通常あまりそこには使わない表現だけど、言いたいニュアンスを絶妙に伝えるには確かにそれが一番いい」と私は感じる、ちょっと固い表現みたいなものです。
私たちが文章を書くのは、いや、何をするのも、”ここにいる”というのを伝えるためなのかもしれない…と、この経験談を読んで私は思いました。そして誰しも、存在することに意味があるし、存在を認識されることが生きる上で大切なのかもしれないとも感じました。それは、私たちのこころや意思は、誰かに目撃されたり受け止めてもらわないことには、透明な存在(無きもの)になってしまうからか…?など、ぐるぐると考えたりもしました。
何が言いたいかよくわからない感想になってしまいましたし、話もつながってないのですが、私は誰かにうまく任せることが生きる上で大切だと感じています。といっても私はなんでも一人でやろうとするタイプなのですが、自分が苦手なことでも、誰かにとっては全然苦じゃなかったり楽しいこともあるし、その逆もあります。そのあたりの分担がうまくできる世界がほしいな、と改めて思いが湧きました。
またよかったら死にトリに来てください。