経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

孤独を幸せに変える未来へ

22歳男性で通信制大学に通っています。現在、2年生で大学の勉強をしながら、以前お世話になっていた精神疾患のリハビリ施設(いわゆる作業所)でボランティアをしています。また、実家を離れるために福祉のサービス(グループホームや障害年金など)を申請、受給を行なっている最中です。

過去を振り返ってみると、自分は小学校から高校まで父親から精神的虐待を受け、母親は普通を装うため、それを隠すという家庭環境にいました。毎日のように父が仕事のストレスを自分にぶつけ、矛盾した考え、日常生活の全てに罵声を浴びせ、そして自分の人格も否定されていました。「何でトイレに入っているんだ」、「何で夜遅くまで起きているんだ」、「何で夜遅くまで勉強しないんだ」、「何でお金を使うんだ」、「お前の考えは違う、間違っている」、その他にも色々酷いことを言われました。

当たり前ですが、そんな環境にいたせいか小学生低学年で暴飲暴食や成人向けの漫画や動画にのめり込み、高校は半ばで不登校。また、通信制高校に転校したものの同時に心の病をいくつも発症しました。

今に戻ると、こうした昔の出来事に対しておかしいと気づいたのはここ1年間ほどで、それまで両親の言っていることが正しい、正解だと思っていました。ですが、大学生になって、色んな人と出会い、色んなことを学び、自分はダメなんじゃなくて、劣っているんじゃなくて、ただあまりにも劣悪な環境にいたから自己否定に走るんだと納得しました。

最後に誰もが感じる「孤独」を自分はとても強く感じます。別に友達がいない訳じゃないし、周りには多くの支援してくれる助けてくれる人がいます。だけど、自分はやっぱり独りだと、誰にも理解されないんだと感じてしまうことが多々あります。でも、それは小さな頃に無理やり植え付けられた思い込みというか、悪い考え方の癖なんだと思います。だから、少しずつでも一番最初に伝えた方法で親と距離を置いて、相談やカウンセリングで自分のネガティブな感情を整理することを続けて幸せな日々を送りたいと思っています。

感想1

文章を読んで、「今も絶望することがあるけれど、これからは少しずつ自分の人生を生きていきたい」という、あなたの意思を表明してもらったような気持ちになりました。
そして、そのことを心の底から応援したいと思いました。

父親からの精神的な暴力と、世間体を気にする母親・・家の中では、あなたがスケープゴートのような役割を背負わされていたのでしょうか。
他人同士であれば大問題になることが、家庭の中に押し込められて「見えない化」されてしまうことは、社会問題だと私は感じています。
いつどこで地雷を踏むか、攻撃されるのか、毎日気を張り詰めて過ごしていたんじゃないかと想像しています。
つらい現実から少しでも意識を逸らすための方法として暴飲暴食や漫画があったのかなと思うと、あなたも「当たり前ですが」と書いてくれましたが、そうなってしまうのも当然のことだと私も思いました。

そうした違和感を辿りながら、新しい人間関係の中でたくさんの気づきがあったのですかね。
「別に友達がいない訳じゃないし、周りには多くの支援してくれる助けてくれる人がいます。だけど、自分はやっぱり独りだと、誰にも理解されないんだと感じてしまうことが多々あります」との部分には、お返事を書いている私も思い当たる節があり、自分の絶望を代弁してもらったような気持ちになりました。
生き延びるために、自分の心を守るために身につけてきた考え方の癖を手放していくことは、容易なことではないかもしれません。
季節や自然が移り変わるように、心もまた、あたたかく穏やかな気分の日もあれば、冷たく寂しい気分の日もあったり、日々変化しているように思います。
誰の言葉も届かないような場所へと深く潜り込んで、ひたすらに孤独を感じる時間はなかなか苦しいですが、あなたのお腹の底に確かにある、回復への力を信じたいと思う私がいます。
またよかったらお話を聞かせて下さい。経験談への投稿ありがとうございます。

感想2

投稿読みました。自分の過去と向き合い、少しずつ“何が起きていたのか”を自分のものとして捉え直していこうとしている様子が伝わってきて、あなたの誠実さを感じつつ、これからの生き方についての決意表明のように私は感じました。
家庭という、社会の最小単位とも言われる場で、暴力や精神的な抑圧が日常のものになってしまうと、子どもはそこが“普通”だという感覚になるものだと私は思います。例え違和感があったとしても、その違和感を他者と比較して確かめることができないまま、「自分が悪いから」「自分が足りないから」と内側に責任を引き受けてしまい、それが人格そのものに染みついていってしまいますし、あらゆる場面でその影響の大きさはあったと思います。ただ、そうしたことに気づけたのもここ1年くらいの間でとのことだったので、もしかしたらまだご自身でも「当たり前」だと思っていたものが覆されていく感覚に困惑というのか戸惑うこともあったりするのではないかなと想像していました。(そんなことなかったらすみません)
暴飲暴食や特定のコンテンツに没頭するなどの行動に走ることも、社会的にはしばしば逸脱したものとして見られるかもしれませんが、それは“生き延びるための手段”だったのだと私は思います。何かしらの形で安心感を得ることで、少し感情をコントロールできたり、どこか居場所を感じられたりするものですし、当時のあなたにとっては必要なことだったのだと感じました。
通信制大学で学びながら、前に関わっていた作業所でボランティアをされている今、そこには時間や関係性を通して、少しずつ“自分を取り戻していく”ようなプロセスが重なっているように思いました。他者と関わりながら、自分の過去を解体し直すというのは、“回復の力”が少しずつあなたに身についていっていると思います。誰かがそばにいても、どれだけ支援があっても、それとは別に、理解されない感覚が消えないのはいわば“繰り返されてきた心のパターン”が今も生きていて、「人に心を預けてはいけない」「わかってもらえるはずがない」という感覚として残っているからかもしれないなと思いました。それでも、今のあなたはその「癖」に気づき、それと少しずつ距離を取ろうとしている…そのこと自体が、とても大切な変化の始まりなのだと私は感じます。
福祉サービスを活用しながら親との適切な距離を取っていこうとされていることも含め、これは単に「自立」のためというより、自分の感情の輪郭を再構築しようとする、生きるための選択だと思いました。家族関係が支配や沈黙の中で成立していた人にとって、「距離を取る」というのは罪悪感や混乱も伴いやすいものですが、それでも“自分の心を守る”ことは決して間違ったことではないと伝えたい気持ちです。
これからも過去のことで苦悩したり、思わぬ壁にぶつかったりなど様々な苦難があるかもしれませんが、そんな時はまた良ければ死にトリに声を届けてほしいなと思っています。経験談の投稿ありがとうございました。

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