経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

現在と過去、生きづらさの正体

私はここで「生きていたくない」こと、「後悔ばかりしていること」を思うままに書いたことがある。あれから約一年半。私は成長できているのかな。「死にたい」「生きていたくない」と思う回数は減ったように思う。けど、未来に希望を持てない。楽しいことや趣味も減ってしまった。自分に自信がない。相変わらず人と比べてしまう。そのせいで自己嫌悪して心も、体も重くなってなにもできなくなる。そんな日がいまだに続いている。「生きるのをやめたいとき」と「調子がいいとき」それを交互に繰りかえしている。

生きづらいのはきっとこれまでの私が今の私の足を引っ張ってしまっているから。過去の私が怖いことを覚えてしまっているから。前に踏み出すのが怖い。変化するのも、人と関わるのも、比べられるのも、相談するのも、自分の意見をいうのも、周りからどう見られているのかも全部全部こわい。

私はいつからこんなに憶病になってしまったの。いつから毎日不安でいっぱいになってしまったの。あの頃より年はとったけど根本が成長できていない。なにもできない自分が大嫌いだ。高校を卒業したのに。環境が変わったのに。私はずっとダメなまま。

いっそ死ぬ勇気か生きていく覚悟があれば楽なのに。憶病で卑怯な私はいつも中途半端なまま過ごしている。誰に話すわけでも、自分で消化するでもなくずっとモヤモヤした訳の分からないものを抱えている。疲れたって言っても休む理由にはならないし、休みたいは甘えになってしまう。何もしたくない。でも何かをしなければならない。理由も目的もなく一生懸命1日を生きていく。それになんの意味があるのか。苦しまずに消えられたらいいのに。

始まりは中学生。小さな「拒絶」。今思うと本能が出していたSOSだったのかも。「部活がつらい、行きたくない」「クラスにいるのがつらい、帰りたい」そんな小さな負の感情。でも特待生だったし、親にもそんなこと話せなかったから「行かない」という選択肢なんてそもそもなくて。必死に毎日過ごしていた。

高校生になっても精神が安定することはなかった。むしろどんどん悪化していった。「死にたい、消えたい、生きていたくない」「なんで生まれてきたんだろう」毎日毎日死を願った。勝手に出てくる涙が止まらなかった。朝起きた瞬間から疲れていてなにもできなかったし、家にいるのに「帰りたい」となぜか常に思っていた。どこにも居場所なんてなかった。そんな自分が恥ずかしくて、普通になれないことが悔しくて、どうにもできなかった。

 無理やり笑顔を作って、それでも笑えない時があって、自分の気持ちがわからなくなっていたあの頃。泣いてはいけないと涙を必死にこらえて自分の感情を抑えていたあの頃。思うように行動できない自分も、素直になれない自分も嫌いだった。

卒業をして自分を変えたかった。新しい場所でやり直したかった。でも私は変わっていない。少し気を抜いたら負の感情でいっぱいになってしまう。特別なことがなくても疲れてしまう。そんな私を好きになれない。わかっているのに「人並み」「普通」という言葉に囚われてしまう。

変わりたい。自分を変えたい。今の自分を好きになれるように。過去の自分を許してあげられるように。生きづらい原因は周りと比べてしまうこと、そして価値観や自分・他人に囚われていること。これは私が何年も考えて出した答え。今も解決方法がわからないけどまだ頑張ってみたい。未来の私がこの生きづらさを少しでも軽減できて、自分を好きになってあげられたらいいな。だから、つらくても苦しくても今はまだ生きてみようと思う。

一年半前と同じで思ったままを書いた稚拙な文章です。読みづらい部分、醜い部分たくさんあったと思います。それでもここまで見てくださった方、ありがとうございました。

感想1

読みました。自分のつらい気持ちについて、これまで繰り返し眺めて整理して、自分と向き合いながらここまで歩いてきたのかな…とまず想像しました。
また、いろんなものに対して真っすぐというか、真正面から受け止めて頑張ろうとしているような印象も受けました。自分の気持ちを整理することにも、自分を好きになろうとする意思も、価値観に囚われるのからなかなか逃れられないところにも・・・。そういうのから目を逸らしたり、何かで上書きして誤魔化して生きる方法もあるけど(そしてそれも別に悪いことじゃないし時に必要だとも思います)、良くも悪くもあなたはそういうタイプじゃないのだろうと私は感じました。

比べてしまうことが生きづらい原因という話には、なるほどと思いつつ、じゃあ比べてしまう気持ちはどこからくるのだろう…?比べてる人と比べない人の違いはどこにあるのだろう…?というのが私は気になりました。そして、そこがわかると、解決方法がわかるとまではいかなくても、自己理解がもう一段階深まるように感じています。
経験談に「私は成長できているのかな」という言葉がありましたが、成長しようとする意思が、比較を生み出しやすいかもしれない…?とは思いました。私はかなり成長や向上を追い求めるタイプなのですが、では自分がどうやって努力するかというと、自分が優れていると感じる人をよく観察する→良い所を自分に合う形で取り入れていく、というプロセスを踏むことが多いと感じます。だからもしかしたら、何かのスキルの向上のためには、比較する眼差しをもつのは有効なのかもしれません。でも、心の成長、みたいな話でいくと、比較が良い働きをすることはあまりなさそうな気がします。(あれ、そう考えると、能力的な方の成長を頑張りすぎると、心の成長が遅れやすいってこと・・・?うわ、確かに私は10代でいろいろなスキルの向上に燃えた結果、30歳近くになるまでメンタルが不安定なままだった・・・と今初めて気づいてちょっと動揺しています苦笑)
とはいえ、心の成長の要素はもっと複雑だろうし、能力を伸ばそうとすると絶対に成長が遅れる、みたいな話では勿論ないと思います。ただ、向上心の副作用として、メンタルは不安定になりやすい、という側面はあるのかもしれません。

さらに私自身について振り返ってみると、生きづらさが軽減していく道のりで、我慢しないことが少しずつ上手になっていった感覚があるな…と気づきました。相変わらず基本全部頑張りたいのですが、これは我慢してまで頑張りたいことじゃないからやめておこうとか、これは休んでも誰かを困らせるわけじゃないから休もうとか、状況を見て「頑張る」と「頑張らない」の中間の選択ができるようになった感じです。あとは「なぜかわからないけど」疲れていたところから、「たぶんこれが要因で」疲れたのだろうという理解、さらに「次はこうしてみよう」に繋げられるときも出てきたのも、変わった部分な気がします。
総合すると、自分への理解と状況の理解の解像度が上がったことで、自分を過剰に嫌いにならなくて良くなってきた、みたいな話かもしれません。

何かの参考になればと思って書きましたが、それにしても自分語りが多くなってしまい、すみません…。
でもなんだかんだ言っても、生きやすい生きづらいは、居場所があるとか安心して話せる相手がいるとか、どんな環境にいるかが一番のポイントなのかも…?と思ったりもします。
だからあなたの味方になりそうなもの、自己理解を手伝ってくれそうなものなどを、少しずつ見つけて集めていけたらいいのかな…と思いましたし、それを全力で応援したい気持ちでいます。
経験談の投稿、ありがとうございました。

感想2

再度の経験談への投稿ありがとうございます。
文章を読みながら、「一年半」という時間を自分なりに想像してみました。日数に換算すると約547日、時間にすればおよそ13,128時間・・。一緒に自分のことも振り返りながら、変わったこともあれば、変わっていないこともあるなぁと感じながら「今ここ」に佇んでいるような気持ちでいます。

未来に絶望して目の前が真っ暗になるときもあれば、「もう少しだけ生きてみよう」と思えるとき・・「交互に繰り返している」とのことでしたが、自分でも掴みきれない気持ちの波に振り回されるような状況に、やや疲れも感じているのかなと、そんな印象を抱きました。
苦しい状況をなんとか乗り切るために身につけた「不安」や「恐れ」は、また同じような状況で傷つかないようにと警報アラートを鳴らしてあなたの心を守りながら、一方で、踏み出そうとする一歩を抑制しているのかなと感じました。
「過去の私が怖いことを覚えてしまっているから」と書かれていましたが、本音を押し殺して必死に取り繕っていた日々は、つらい記憶とともに身体にも残ってしまっていることを感じています。
「これまでの私」が経験してきたことは、周囲が何と言おうと、あなたにとって苦しかった時間だったのではないかと私は思いました。
常に死を考えるくらいに追い詰められて、さらに自分を責めるしか気持ちのやり場がないというのは、考えるだけでもなかなかにしんどい状況だと感じています。
苦しい過去に翻弄されながらも、どうにか生きていく道を模索しようと思考を巡らせている姿を想像しています。

お返事を書きながら、知人が「成長ではなく成熟」と話していたのを思い出していました。世の中では自己変容に対して「成長」という言葉が使われることが多いですが、あえて「成熟」という言葉を使うことで、つらくて仕方なかった経験も自分を深めるためパーツの一つになって、「変化の途中にいる自分」を感じられるような気持ちに私はなりました。
(この捉え方が正解ということではなく、「成長」という言葉自体を否定するつもりもなく、私が感じたこととして書かせていただきました)
自分を受け入れることは、大人になった今でも難しく感じています。「まぁいいか」とスルーすることが増えましたが、これは諦めなのか、はたまたこれこそ自己受容なのか、謎は深まるばかりです。

自分を守る防御壁でもある自己否定を手放していくことはなかなか簡単ではないかもしれませんが、長い時間をかけて自分なりの答えに辿り着いたことに、あなたの中にある力を感じました。自分を受け入れたいと願う気持ちを、私も応援したい気持ちでいます。
またよかったら、思ったままのあなたの言葉で、お話を聞かせて下さい。

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