経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

発達障害持ちで「出来ない」自分が嫌

自分は手帳持ちのASDですが、社会生活や日常生活を送ったりする中で、定型発達の人が問題なく出来ることが難しいと感じたりなど、劣等感を感じたりストレスやフラストレーションを感じることがたくさんあります。発達障害を持っているというだけで苦しいのに、発達障害というだけで見下されたり馬鹿にされたりするので、余計しんどいなと感じます。ただでさえ「社会的に成功してても、能力や才能があっても発達障害というだけで無理(笑)」みたいなことを言う人もいるのに。
実際に、前職の会社では発達障害を見下したり馬鹿にしたりするような発言をされる方がいらっしゃったので、余計ストレスでした。クローズ就労でしたが、裏で「あいつ発達障害じゃね(笑)」みたいなことを言われていたと思います。直接関わることはありませんでしたが、「しょうがないよ。あいつはできないんだから」とか、「安い給料で働いているんだからこんなもんだろ」みたいなことも言ってましたし。正直「なんで関わってもいない人にここまで言われなければならないの?」という気持ちがありますが、実際に人より出来ない部分があったり、就活も全然上手くいかず結局派遣止まりだったりで、そう言われてもしょうがないのかなと思います。本当はその発言も、そう言われてしまうような自分にも、嫌気がさしてしまいます。
カウンセラーの方にとあることで相談したのですが、「面接ですら恐怖心を感じるのに、社内のコミュニケーションも恐怖心を感じずに出来るのですか?」だとか、「発達障害の方は段取りを考えて作業をするのが苦手な方が多いですが、あなたは一人で家事は出来るのですか?家事能力はありますか?」といったようなことも言われました。それは事実かもしれませんが、「面接ですら」、「発達障害の方は段取りを考えて作業をするのが苦手な方が多い」という一言が、「発達障害なんだから出来ないんだろ?」と言われているようで、悲しかったです。正直、そのカウンセラーの人が、どこか見下しているように感じました。自分は本当に面倒臭い奴だなと思います。それは事実でしかないのに。
今も派遣社員ですが、正社員でないことや収入が少ないこと、実家暮らしであることに強烈なコンプレックスを感じています。実家暮らしは脱却できる可能性がありますが、正社員になることがすごくハードルの高いことのように感じてしまいます。若くして派遣社員である自分は落ちこぼれのように感じてしまいます。男性嫌悪も強く、恋愛もまともに出来ないので、結婚も出来ないです。
本当は、自分の周りの社会の目も、自分の周り以外の社会の目もすごくしんどくて、色んな意味で自分だけの世界に篭りたいです。一人になりたいです。現実的な話としては、物理的な就業環境について、在宅で働きたいと考えているけれど、今の自分のスペックでは難しいなと感じています。今の職種も特殊な職種で汎用性がないですし、AIに取られそうな仕事内容です。
認められたいという気持ちがあるけれど、出来ない自分が嫌です。臨機応変な対応が苦手で、想定外のことが起こるとすぐパニックを起こして適切な行動が取れないし、女性なのに字も汚くて手先も不器用で綺麗に出来ないし、視野が狭くて頭も硬い上に悪いし、人の話を理解するのも苦手だし、空間把握能力低いし、眠気に耐える力もないし、友達も恋人もいないし、独身でまだ若いくせに派遣社員だし、本当に色んな人たちに「出来ない」と言われても仕方がないなと感じてしまいます。落ちこぼれで社会のお荷物でしかないし、生きている価値あるのかなと思います。なんで生まれてきたのか分からないです。「馬鹿にされるために生まれてきたのかな」と、ふと思うことがあります。
正直、障害を「個性」だとみなすのは綺麗事ですし、ただの「ハンデ」でしかないと思います。「発達障害持ちの意味ある?」と感じます。しんどいです。

感想1

投稿読みながら、ずっと胸のあたりがきゅっと締めつけられるような感覚が続きました。綴られた言葉は、とても率直で、飾り気がなく、それゆえに深く刺るような…。ひとつひとつの言葉が、日々積み重ねられた苦しさや孤独、悔しさや自責といった感情の堆積から出てきているのが伝わってきます。
定型発達の人たちにとって当たり前とされていることが、そうでない人には困難であるという現実、その差異が「ただそうであるだけ」では済まされず、「できない」や「劣っている」といった価値判断と直結してしまう社会の在り方には、やはり大きな問題があるように私は感じます。しかも、それが陰口や揶揄、無神経な言葉として日常の中に紛れていることの痛ましさ…それらは単なる「言葉」ではなく、日々の自己像や人生観をゆがめてしまうほどの力を持ちうるものなのだと、改めて思わされました。
「しょうがないよ。あいつはできないんだから」などといった言葉は、言っている側にとっては軽い気持ちだったのかもしれません。でも、その一言がどれほど人を追い詰めるか、その想像力の欠如こそが、社会の鈍さであり冷たさでもあるように私は感じています。そして、例えそれが真実の一部だったとしても、それを“他人の言葉”として外から投げられた瞬間に、自分でも見たくなかった現実がナイフのようになって胸に突き刺さってしまうのではないでしょうか。文章を読んでいるうちに、そうした場面がどれだけ繰り返されてきたのか…と、思いを巡らさずにはいられませんでした。
カウンセラーの発言も、専門職としての知見から出たものかもしれないなと思いつつ、言葉の選び方や向けられ方によっては、サポートのための問いが、逆に“あなたには無理だろう”と言われているような感覚を与えてしまうこともありますね…。その微細な違いがわからないまま、“支援”の名のもとに人を傷つけてしまうことは、医療や福祉の現場にも、きっとまだまだあるのだろうと思いました。支援の形ですら、時に「普通であること」への圧力を内包してしまうというのは、構造的な課題とも言えるのかもしれないと考えます。
一方で、「実家暮らし」「派遣社員」「結婚できない」など、世間的な価値基準に照らし合わせた劣等感の言葉の数々が並ぶ中で、それをただ否定して「そんなことないよ」と言うことには、あまり意味がないのかなとも思いました。というのも、そうした感情は、すでに何度も自分の中で反芻されて、何層にも積み重なってきたものだろうと想像するからです。ただ、その上で、「なぜそう感じてしまう社会であるのか」「誰がその価値基準をつくっているのか」といったことに、ほんの少しだけでも目を向けることは、自分を否定し続けるループから少し離れる助けになるかもしれない、とそんなことを思ったりしています。
「個性」や「多様性」という言葉が時に便利に使われてしまう今の時代にあって、“綺麗事”と感じてしまうのも当然のことだと思います。誰かの掲げる理想や正しさが、当事者の実際のしんどさを和らげてくれるとは限らないんだよなとあなたの文章を読んで痛感させられています。
「一人になりたい」という言葉に、周囲の目線に晒され続けることの疲労や痛み、そしてそれに立ち向かうために毎日奮闘しなければならない消耗感、そのすべてを抱えながら、せめて自分の世界の中だけでは静かでいたい、そんな願いのような感情がそこにはあるように私は捉えました。この社会がもう少し優しかったなら、もう少し想像力に満ちていたなら、そうすればあなたの抱えている苦しみのいくつかは、もう少し軽くなっていたかもしれないのにな…と考えたところでかもしれませんが、そう考えずにはいられませんでした。でも、そうではない現実の中で、こうして言葉にしてくれたこと、それを読めたことには、大きな意味があったように私は思っています。また死にトリが何かあなたの役に立つようでしたら、いつでも訪れてほしいです。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

私も障がいは個性だという言い方はあまり好きではないです。障がいを持つ本人が自分のことについて「個性」と表現するのは自由だと思いますが、どちらかというと周囲の人が「障がいは個性ですよ」と他人事のようにいうことがあり、そういうことを軽々しく言うのは何だか違うと思っていました。だから、あなたの経験談を読み、改めて何らかの障がいがあることによる不利益や苦しさは確かにあり、それを他の人が「個性」という言葉にするのは筋違いであることを再認識しています。
そして、もう一つ再認識したのは、障がいはその人が持っている性質や能力の問題ではなく、世の中の価値観やあり方によって生じるという点です。タイトルにもあるように「出来ない」ことが苦しさになる背景には「出来ることがいいこと、正しいこと」「出来ないことは悪いこと、劣ったこと」という強い価値感があると感じています。学校でも会社でもいかに出来るようになるかを求められ、出来ないことは否定されたり、努力を求められることににつながります。そのような中にいるとそれが当たり前のような気持ちになりますが、そもそも、人はそれぞれ違うため能力は異なるのが自然であり、それを理解しあい、支えあうことの必要性や重要性があるはずなのですが、そのことを忘れてしまうような隠れた能力重視があるように思っています。
その隠れた価値観をあなたは日々の生活の中や社会の中で気づくことがあるのだろうと思いました。カウンセラーから受けた印象や感覚も、前の会社でも、あなた自身が何か特別な差別を受けたり、ひどいことを言われたわけではなくても、世の中に当たり前にあるまなざしや価値観がじわじわとあなたの存在を否定してきたり、攻撃してきたりしているような構図が浮かんでいます。それがストレスやフラストレーションとなることは無理のないことだと思います。そして、それは仕方のないことではなく、とても理不尽なことだと私は思います。あなたの経験談には発達障がい(つまりは、生まれつきの特性によるハンデ)があることの苦労に加えて、そこから派生して社会から押し付けられている苦労の二重性が経験をもとに描かれていると感じました。
経験談にはあなたの苦手なことやできないことが書かれていましたが、好きなことや得意なこともあるのではないかと想像をしています。また、そこまで苦手ではなくても、そこそこ負担なく取り組めることもあると思います。今までの社会はどちらかというと、社会のあるべき姿に個人が合わせるべきという前提が強いように思います。しかし、人は想像以上に一人ひとり異なるため、合わせることは簡単ではありませんし、なかには都合よく合わせることができない人もいます。しかしながら、合わせられない人を社会不適合者と呼び、否定的な評価をする風潮もあります。私はいろいろな人たちの持っている力を生かせない、この社会の在り方が不適切なのではないかと思っています。現実的にすべての人たちに合わせることはできなくても、今よりももっと一人ひとりの生き方やあり方に社会が柔軟に合わせられるような仕組みや考え方ができないものかとずっと考えています。そんな社会に近づいても、あなたは自分が嫌だと思うのか、それとも違う気持ちを抱くのでしょうか、どんな気持ちになるのか聞いてみたいです。
「出来ない」ということでそこまで嫌な思いをしなくてもいいような社会のあり方や働き方はどうしたら実現できるのだろうか…と思いをはせながら、そのためにはあなたのように率直な声をもっと聴く必要があると思っています。貴重な経験を書いてくれてありがとうございます。今後も感じることがあればいつでも届けてください。

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