経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

どうして死にたいのか

 2年くらい前にも、投稿させていただきました。感想もいただいて、今でも何度も読み返しています。その時は、どうして死にたいのかわからないという旨の内容で、少しでもその死にたさの原因を明らかにするために書き起こしました。今でも、まだどうして死にたいのかがわからないままです。まだ、ずっとずっと死にたいと思いながら生き方を模索しています。

 2年前から変わったことといえば、当時は抜毛、過食といった自傷行為だけだったのが、今はそれに加えて過食嘔吐や太ももをカッターで切ってしまうような自傷行為が増えてしまったことです。
 過食することには、ずっと罪悪感や太りたくないのにという思いがずっとあり、去年くらいに過食しすぎて苦しくなって吐いてしまったことから、過食嘔吐が癖になってしまいました。人と食事をするときは小食なのに、ひとりでいるときは一回食べ始めると止まらない、一日中食べることばかり考えています。過食しようと思って食べ始めないのに、食べるのが止まらなくなって食べ過ぎて苦しくて罪悪感もあって吐いてしまいます。過食嘔吐することそれ自体に対する罪悪感はありますが、それに伴うほかのことに対してもストレスがあります。そもそも、自分自身食べ物の好き嫌いが激しいのに、過食したくはないから、何を食べていいのかわからずコンビニやスーパーを何軒もはしごしたり何時間も費やしたりしてしまいます。また、過去に過食嘔吐した食べ物は、すべてではないにしろ怖くて買えなくなってしまって、余計に何を食べればいいのかわからなくなっていきます。そして、過食のためにたくさんのお金を使っていることの罪悪感や、お金が減っていくことの不安感もストレスになって、また過食嘔吐してしまいます。過食嘔吐そのものに対するストレスと、付随する悩みに対するストレスと、そもそも過食してしまう原因に対するストレスと、で、抜け出せないループになってしまっています。
 太ももを切ってしまうのは、もともと高校生の時に学校のトイレや自習室などでリスカする癖があったのが、成人式が終わったのをきっかけにぶり返したみたいな形です。高校生の時は、ずっと長袖の制服を着ていたので腕を切っていましたが、成人式で振袖を着るから、というモチベと、リスカなんかする人間と付き合っていきたい人なんかいない!という言い聞かせによって、大学生になってからはずっとしていませんでした。でも、その成人式も終わって、そのモチベがなくなり、でもずっと死にたい気持ちはあって、抜毛や過食嘔吐の悩みは絶えず、どうしようもないとなって大学生にもなったのに、自分で太ももを切ってしまいました。大学生にもなってこんなことをしてしまって本当に恥ずかしいし、人にばれたくないという気持ちから太ももにしたのも、どこまで行っても誰かからの目線を気にしてしまっている感じがとてつもなく情けない気持ちになります。でも、頭の中が死にたいでいっぱいになってどうしようもなくなると衝動でやってしまいます。

 死にたくて仕方がなくて動けない日も増えた気がします。学校に行こうと家を出て歩いていても、つらくて歩くのが遅くなったりしゃがみ込んでしまったりしてしまいます。家の隣のスーパーに行くのに1時間とかかかる日もあります。本を読んでも話しかけられても授業の内容も全然頭に入ってこなくて、何も入ってきてないのに頭がパンクしそうになります。大学では音楽を学んでいるのに音楽が大好きだったはずなのに、好きだった音楽がつらくて聞けないです。死にたくてつらいうえに、一人暮らしでサークルにも入ってなくてさみしかったり、人間関係が希薄でコミュニケーションが下手でそれについて不安になったりで、どんどん死にたくなっていきます。数少ない友人の優しさに甘えてしまっている気がするし、その優しさが本当はもう私のことを見限っていてどうでもいいから来ている優しさな気もして、不安です。
 心療内科に通いはじめましたが、ストレスが直接なくなるわけでもないし、常に死にたいと思っているのが消えるわけでもないし、解決に向かっているのかよくわからないです。薬を飲んでも眠たくなって、体の力が抜けて、強制シャットダウンしているだけみたいな感じです。特に何か診断されているわけでもないから、このまま通っていても治らないのでは意味ないのでは?という別の悩みも増えてしまった気がします。
 死にたい理由を探すのではなく、生きるための自分だけの法を作ればもう少し生きやすくなるのではないかと思って、仏教を勉強し始めたりしました。まだ勉強中なのでその法が確立していないので、それもまた、どうやって生きればいいかわからない、という悩みの一つになってしまいました。これはもっと自分が勉強すればいいだけの話ですが。

 まとまっていない文章ですみません。自分でも何が言いたいのか、何を伝えたいのかわかりません。自分で死にたい理由を整理するために書いたのかもしれません。自分がどうしたいかわからない=自分の意思は価値がない・意味がない=死にたい、という短絡的な思考パターンが癖づいてしまって死にたいって思っているだけなのかもしれない、とも思い始めてきました。もうわからないです。すみません。

感想1

もう一度ここに来てくれたこと、率直に嬉しく思いました。
どうして人は死にたくなるのか…私も考えるテーマでもあって、あなたの文章を読んで一緒に考えたいと思ったので、感想を書かせてもらいます。
私の身近にも根底に死にたい気持ちを日々抱えていて、その気持ちを紛らわすために課金するようなゲームに没頭して生活に支障が出ている人がいました。その人と何度も話す中で私なりに考えたことも思い出しながら、あなたの経験を読ませてもらいました。
死にたいという気持ちはその一言で表現するけれど、実は中身はとても複雑で波があって苦しいものだと私は想像します。あなたが最後の方で書いてくれた「自分がどうしたいかわからない=自分の意思は価値がない・意味がない=死にたい」がまさに“人がどうして死にたくなるのか”を表しているんじゃないかなって思いました。死にたいがいつも頭にある場合、幼少期に意志を尊重されてこなかった(感情を否定されたり、希望は無いものとされたり)という経験をもつ人がとても多い気がします。私が出会ってきた死にたい気持ちを持つ人の多くはそうだったと思います。あなたはどうでしょうか?例えばこどもってそんなに褒められなくてもいいから、“否定をされない“環境で育つだけで自然に意思が育つのだと私は考えています。こどもの発達について勉強するとことが時々あって、その度に「尊重されるって大事だな…」って思うんです。また、否定されないようにすると今度は他者の評価(他の人の目)をものすごく気にしたり、人が怖くなったりします。人は社会に出ると人と関わることになるので、膨大なストレスにさらされます。するとストレスを和らげるために何かに没頭して気を紛らわせたり、自分に刺激を与えたり、何かを確かめるためにリスカなどをするのかなと思います。(きっとお医者さんなら脳内で起こることを説明してくれそうです)ストレスをなんとか回避しようと様々な経験をしてきたあなたが、仏教を学んでいることはとても必然性を感じるところです。静かな精神世界や本質的な観念から自分自身を眺めようとしているのかなと私なりに解釈して、なるほど…とても興味が出ました。ここへ自分の考えを書いて整理したり、気持ちを置きに来てくれることもきっとあなたにとって何かの手がかりになるのだと思います。評価されない何かと対話する…それはあなたがあなた自身の言葉(意思)を見つけて(もしくは取り戻して)生きることの意味につながっていくように私は思いました。ありがとうございました。

感想2

投稿ありがとうございます。私自身も長いこと死にたい気持ちを抱きながら生きているので、気づいたらところどころ頷きながら読んでいました。前回の投稿から、その時間の流れと共に揺れ続けてきた心の様子が伝わってきて、再び投稿しようと思ってくれたこと素直にうれしく感じました。
“自分がどうしてこんなにも死にたいと思ってしまうのか”をめぐって、何度も何度も問い直し、それでもはっきりとは掴めずにいるもどかしさや戸惑い、そしてその間にも症状や行動が複雑に絡み合いながら進んでいってしまっている状態なのかなと想像しています。過食嘔吐や自傷行為も、ただ「つらい」というひと言では括れない、衝動と理性のせめぎ合い、そして社会的な視線や自己評価といった外と内の重なりがよりあなたを苦しめているように私は感じています。食べるという行為ひとつとっても、それがこれほどまでに複雑でストレスの多いものになっているのかという現状を、側から見るとなかなか想像しきれないところもあるだろうと思います。自傷についても、隠す場所を選ぶという行為が、他者の視線が常に頭の片隅にあるという苦悩がにじみ出ているように感じました。自分がどんな状態であっても、“人にどう思われるか”を気にしてしまう構造があって、それは個人の性格というよりも、今の社会の中で育ってしまった一種の生存戦略のようにも私は考えます。誰かの視線を気にせずにいられるにはどうしたらいいのか…私も昔ほどそう思うことも減ってきましたが全くなくなることはないので、気にしないなんて難しいよなぁと改めて思わされました。
私自身もそうですが、死にたい理由って明確に何か一つこれだと分かることって少ないのかなと感じていて、枝分かれになっていたり、数珠つなぎになっていたり、何層にも折り重なっていたり…そういうことのほうが多いのではないかと思っています。あなたが「どうして死にたいのか」を考えるのは、もちろんその“理由”を知りたいという思いからきているのだとは思うのですが、もしかしたら別のところに何か求めていることがあるのではないかな?とも感じました。ただ、死にたい思いを抱えた中で、心療内科や薬、仏教の学びなど、いくつもの方向に目を向けようとしている様子に、“生きる”ということの手がかりを少しでも探そうとする力があるように私は感じました。(どの方法もすぐには答えをくれないからこそ、かえって不安になるという気持ちもあるかもしれませんが…)
「治療しているのに、何も変わっていないのではないか」「意味があるのか」と思ってしまう心の声も、それは、本来とても正直な問いであって、責められるものでは決してないと私は思います。私も薬を飲んでいた時期があって、「とりあえず辛いと感じる時間を飛ばしているだけなんじゃないか」と思っていたこともあります。でも、そんな“とりあえず”の積み重ねが、自分にとって、その後に色々と考えるための時間稼ぎになってくれていた部分もあったかもしれないな…と振り返って思うことです。
文章の最後、「自分の意思は価値がない・意味がない=死にたい」という思考パターンに自覚的でいることが、逆説的ではありますがとても大切な兆しのように私は感じました。混乱や苦しみの中にあっても、その構造を冷静に見ようとする視点は、ほんのわずかかもしれませんが、生きる方向への糸口になり得るような気が私はしています。“わからない”と思いながらも、言葉にすることで少しずつそのぼんやりとしているものに、輪郭を与えようとしているその姿勢そのものが、あなたの心がまだ諦めていない証でもあるのではないかなと、私は感じました。一人でがむしゃらに理由を探そうとするのではなく(そのこと自体を否定しているわけではないですよ)、こうして綴ってくれたように死にたいの中身について外に出して、あれこれ誰かと言葉を交わすことも必要なのではないかなと私は思います。この先、あなたの“生き方”を少しずつでも組み立てていけるような環境や関係性がこれからの時間の中に、少しずつ育っていけたらいいな…と願っています。

お返事

ご丁寧な感想、ありがとうございました。
自分でぐるぐると考えていると見えなくなっていた部分を、かたちどってくださったように感じます。ありがとうございます。新しい気づきがありました。
生きることについて、死ぬことについて書かれた本は沢山あるように思いますが、やはり自分自身の思索によって、どうして死にたいと思うのか、生きることの意味についてを探っていきたいと思います。

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