スーパーに就職してから、今年で5年目。
障害者雇用として入った。
最初は、パン作りだった。
そこで思ったことは、私だけ違うってこと。
できること増やしても、常に同じ作業任されて。
私のときは無かった歓迎会が、健常者の新入りにはあって。私は呼ばないのに、私の目の前で歓迎会の話。
あるとき上司に、あなたは障害者だから
健常者の先輩でも後輩でもないと言われた。
障害があると分かったのが中学生のとき。それまで健常者で、障害者になってからも別に自分が何だとか思ったことなかった。
けど、健常者からしたら障害者は自分達と違う生き物なんだと思った。線引きされてたと分かった。
上司にその言葉を言われてから、障害者だということを常に忘れないようにしてる。
涙が止まらなくなって、店長に相談して。
今は青果にいる。
けど、やっぱり健常者からしたら障害者は障害者なんだと思った。
青果の上司は、頭のおかしい奴はみんな障害者。障害者は、変な奴と言うような人間。
どの部門でも私は馴染めない。歓迎されない。
他の部門に気になる人ができたこともあった。
けど、自分が障害者だと思うと。
相手に近づくことはできない。
最近、心が壊れたのか。感情が無くなりかけてる気がする。
転職を何度も考えるけど、意地悪な人達に負けたくない気持ちもある。
だから、きっとこの先も苦しい人生だと思う。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
差別される自覚がなかった
感想2
現時点でも苦しんでいるであろう中で受けた仕打ち、言葉を文章にすることはすごく大変で苦しい時間だったと想像します。文章を読みながら、怒りがわいてくると同時に「他人事ではない」と強く思いました。自分の過去も関係していますが、障がいの有無にかかわらず「差別」という行為に激しい怒りを覚えます。そのような苦しさのなかでも「負けたくない」というフレーズに微力ながらも応援したくなりました。
私自身の想いになりますが「障がいがあっても働きたい、働ける」「スキルアップしたい」という気持ちを踏みにじるような言動、行為は断じて許されない事だと強く思います。今もなお、障がいを抱えているというだけで、見えない線や壁を作られる、行動に制限を設けられるなど一方的に理不尽に対応される事が多い世の中。どれだけ法整備や周知活動が進んでも「人」が本気で変わろうとしない限り無くならない差別。
差別している人たちに、自分の家族・身内に障がいを抱えながらも一生懸命生き、働いている人がいてもそんな言葉が出てくるのだろうか?と、問いかけたくなります。他人だから、自分に関係ないから、周りが言ってるから等が根底にあり「相手が傷つく」ことに無神経・無配慮になるのだと自分の経験も踏まえて思います。「無知がゆえにおこる差別」「意図的な差別」などそれぞれの状況は違えど「無知」と言うことが大きな問題だとも感じています。それぞれの障がい(自分との違い、個性)を認識することから始まり、解ろうと努力を続ける、少しづつ誰かと共有していくことで大切なように思います。
相談しても変わらない、部署移動しても変わらない現状に疲弊し、心が壊れかけている現状が少しでも変わって欲しい、理解者がすぐに現れなくても会社や上司、他の働いている人たちの意識の変化、職場の雰囲気などが変わり、一緒に考え悩むことが出来る人が近くに居たらいいなと切に思います。
差別は簡単に無くならない、常に人の心に棲む「病」みたいな物だからこそ「知識と共感、理解する努力」という薬で薄めていくことはできると私は信じています。だからこそ自分自身にも「差別とは?」「違いとは?」を問いかけ考え続けたいと、改めて思いました。
感想1
投稿読みました。職場での深い孤独と、その場に“いないことにされる”ような痛みがリアルに伝わってきました。障がい者雇用という枠で入っているのに、そこで本当に“居場所”があるかといえば、そうではなかったこと、その違和感や、何度も線を引かれるような扱いが続くなかで、自分が何者かを考えざるを得なくなった、そういった苦しさがあなたを包み込んでいるようなイメージを抱いています。
障がいがあると分かった中学生のときから、それまで特に何事もなく過ごしてきた分、突然区別されてしまうという感覚は、きっと混乱もあったでしょうし、傷ついた気持ちもあったのかなと思います。けれど、それでも自分自身を何かに分けることなく生き抜いてきたのに、職場で「あなたは健常者の先輩でも後輩でもない」と言われてしまったこと…それは、ただの言葉以上に、自分という存在を“どこにも属さないもの”にされる、とても残酷な線引きだったのではないかと私は感じました。
「障がい者だということを常に忘れないようにしてる。」という言葉は、自分で納得してそう思っているというよりも、“そう思わされ続けた結果”としての言葉のほうが強いのかなと私は感じています。職場の中での立場や扱い、言葉の端々、誰かの何気ない態度、そういうひとつひとつが積み重なって、自分の輪郭がぼやけてしまい、やがて「感情が無くなりかけている」と感じるまで、心がすり減ってしまったのかもしれません。
また、気になる人ができたときに、自分のことを考えると近づけなくなる気持ちも、恋とか憧れというのは、本当は誰かと自分の間にあるものではなく、自分の中に芽生える自然な気持ちのはずだと私は思います。でも、その感情すら“許されないもの”と感じてしまうのは、“健常”や“障がい”という枠が、日常のすごく細かい部分にまで入り込んでしまっていることを示しているように思えました。そう思わせてしまう社会の構造の問題を改めて痛感させられています。
今いる職場を離れるべきか、それとも踏ん張るべきか…そうやって揺れながら、それでも「負けたくない」という言葉が出てくるところに、私はあなたの中にある地力の強さを感じました。負けたくない相手というのは、おそらく“意地悪な人”だけじゃなく、「自分を差別する社会」や「線を引く空気」なのかもしれないなと思いました。(違っていたらすみません)ただ、あなたが今以上に傷ついたり我慢をして飲み込んだりする理由はどこにもないと私は思いますし、もっと安心して仕事ができる環境はあると思うので、転職することも前向きに考えていいのではないかと私は思ったということを伝えさせてほしいです。そんな簡単なことではないとは思うのですが、この先少しでもあなたの苦しさを受け止めてくれたり理解しようとしてくれる場所や人に出会えることを勝手ながら願っています。死にトリがまた必要に感じられたらいつでも訪れてください。経験談の投稿ありがとうございました。