昔から常々思っていた。人間に向いていない。
これも正確ではない、正しくは生きるのに向いていない。
色々あったが家族仲は良く実家が程々に太く、学校等では奇行や馴染めなさもあり嫌われたが、ネットではいい縁に恵まれ、他の人のような「どこにも逃げ場の無いしんどい状態」からは掛け離れていると思う。
家族への感謝、友人への感謝の気持ちは人並みに感じている。
あと運にも時代にも恵まれている。私のように障害があり内向的で怠惰な人間は、今の高度に発達した世の中に生まれていなければとっくの昔に死んでいただろう。
でも
こんなに恵まれているのに、良くしてもらっているのに、私の性格が私の人生を辛くしている。
私という人間は
・幸福や賞賛より苦痛や批判が何十倍も大きく感じ
・我慢弱く
・感情が優位で
・泣き虫で
・頭に来やすく
・身の丈に合わない完璧主義を持ち
・他の人と直ぐに比較し
・一丁前に妬み
・プライドだけは高く
・自己肯定感は低く
・社交性も低く
・何事も仕事にできるほど極められず
・忍耐力が無く
・諦めが早く
・自分が大嫌いで
・そのくせしてそんな自分に甘く
・怠惰
という特徴を備えている。
現代社会で必要とされるものの真反対の人間である。
陰キャがどうこう、チー牛がどうこうという文で傷つく側の人間である。
適職診断ではだいたい芸術家が出てくるタイプだ。
こんな人間なので基本的にずっと面倒臭いの連続だ。
まず食事。これはとても面倒。
しかし食べるためには食事の用意が必要だ。ものすっっっっっごく面倒臭い。でもお腹はすくから食べないのも無理だ。忍耐力が無いから食べる。食器を洗うのが面倒だ。
そしてこれを繰り返しキッチンが腐海になる。
お風呂も面倒だ。
入らないと気持ち悪くなるので入るけど。
洗濯物が出る。面倒臭い。嫌だ。
仕事探しも面倒だ。
なんで嫌なことばかりの人生を苦痛である労働で伸ばさにゃいかんのだ。
それはそれとして探してみるが、自分ができることは何も無い。
なのでどう見てもブラックな所か、精神的に追い詰められる万年人手不足で不人気の職が残っている。
求人票と求人サイトは精神の自傷に最適だ。
選ばなければ仕事は大量にあるぞぉ。
他者の目が面倒だ。
良い評価はいつか覆り、悪い評価は勝手につく(と、信じている)。
人間関係は、私を嫌うまでのタイムリミットをどこまで先延ばしに出来るかという競技である。
あらゆる人生のイベントが面倒だ。
知り合いが一同に介し人混みの中にこにこしながらあれこれ話し長時間拘束される。
そして意識的にも無意識的にも社会で成功してるか否かを比べられる。
当然私は否の側だ。
居るだけでどんどん小さくなっていく。
仕事をしないのも面倒だ。
仕事をしていないと後ろ指を指される。
死ぬのも面倒だ。
死ぬと周りの人達に迷惑をかける。最低数日間は私のための儀式の時間が必要になる。
交流してくれてる人は悲しむ。嬉しいけどそれは嫌だ。
生きるのも面倒だ。
生きてると色々感じる。生きるのにはコストがかかる。悪いことばかりが人生を覆う。
人から嫌われる。いつか嫌われる。いつか別れが来る。老いる。病気になる。死ねずに体調を崩しつつ生きることになるかもしれない。
でも偉い人のように「抜け出すために頑張ろう」なんてなれない。気付いたら居なかったことになっててほしい。
こうしてつらつら書いたように、全部面倒臭い。
私はずっと布団に横になっていたい。
ネットを眺めてゲームをしてネットの好きな友人たちと沢山話をしていたい。
でも世の中はそう出来ていない。
私はそれが出来るほど裕福じゃない。
金持ちに飼われて溺愛されてる犬や猫になりたい。
もっと言えば何も感じないものになりたい。
石や砂に。
生きてても後ろ指さされないものに。
一切の苦痛を感じないものに。
100パーセント私が悪い。
素敵な環境に生まれたのにこのように出来上がってしまい変える気もない私が悪い。
なにもかも嫌だ。
死ぬ勇気が欲しい。
もしくは悩まない精神が欲しい。
生きたくない。
消えてて欲しい。
いつまで私が続くんだ……もうヤダ……。
感想1
投稿ありがとうございます。読み進めながら、綴られているのは決して珍しくはないかもしれないけれど、だからといって軽く扱ってはいけない、生きることそのものの苦しさを私は感じました。どこかで誰もが感じたことのあるような、実際言葉にするのは躊躇ってしまうような「面倒くささ」が丁寧に言語化されていて、私自身もどちらかというと生きることに面倒さを感じている人間なので「そうそう、わかる」と思う部分がありました。
「恵まれている」という客観的な環境と、「それでもなお辛い」という主観的な実感との、埋まらない深い溝があるのではないかなと想像しています。そして、その溝を埋められない自分への怒りや諦め、恥、そして淡い願いが、苦しげに絡み合っているように感じました。外から見える姿と内側で感じていることのギャップは、今の社会において特に見えにくくされがちです。SNSや自己責任論がそれを助長し、“こんなに環境が整ってるのに”とか“努力すれば変われるはず”といった声が、時に無自覚に、弱っている心を追い詰めてしまうことも少なくないと私は感じています。生きることの面倒くささをこの文章では何度も繰り返されているように感じますが、その面倒くささは、単なる怠けや気分の問題ではなく、例えば感覚が過敏すぎるゆえの疲弊だったり、内面の誠実さからくる葛藤だったり、そして社会の構造がある特定の人に向いていないことの証でもあるように感じました。特に「死ぬのも面倒」「生きるのも面倒」といった表現には、言い尽くせぬ矛盾の中で粘り強く存在し続けている、ある種の誠実さや責任感のようなものがあなたの中にあるのではないかと私は考えていました。
誰もが“正しく生きること”を当然のように求められる今の社会で、このような“正しく生きられない”という叫びが、もっと真剣に受け取られるべきなのではないかと私は思います。(何をもって”正しい”というのだろうかと私は感じていますが…)人間の適性は本来多様で、全員が社会でうまく立ち回れるわけではないはずなのに、「生きづらい」と感じることすら個人の問題として扱われがちだなとつくづく感じます。あなたが綴った文章は、そうした“見えない痛み”を言葉にしてくれた貴重な声だと私は思います。
最後に、「もっと言えば何も感じないものになりたい。石や砂に」という言葉に、何も感じずにいられたらどれほど楽だろうか…と考えていました。なんというのか、極限まで感受性を使い果たしたあなたの切実な祈りのようにも思えましたが、同時に、それほどまでに多くを感じ取ってしまう感性が、きっとどこかで誰かにとって救いにもなっているのではないかと、そんなことも思ったりしました。こうして綴るために費やしたエネルギーが、少しでもあなたの中に抱えているものを吐き出すことの意味となり、それが誰かの「言えなかった気持ち」の代弁になるのなら、ほんの少しでも、生きてきたことの一部が報われてくれたらと、そんな願いが勝手ながら湧いている自分がいます。今の気持ちや価値観に至ったのは、もしかしたら環境や周囲の人から様々なことを感じ取ってきた結果なのかなと想像しながら(違っていたらすみません)、自分自身も置かれている状況も大きく変わるということはそう簡単なことではないとは思うのですが、抱えている苦しさを言葉にすることで多少でもあなたの中で違うのであれば、また死にトリを活用してもらえたらなと思います。