経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分が好きという感覚がわからない

 初めて死にたいと思ったのは小学生に上がるよりも前でした。親に怒られて、トイレで「死ね。自分死ね」と呟いていたら外から「死ねなんて言うな!」と怒られた。「自分に言ったんだよ」と弁明しても「自分にも言うな!」と更に怒られた。なんで自分が死ねばいいと思うのがだめなのか分からなかった。そのままずっと死にたいと思ったまま。
 中学生までは、自分が死んだほうが世のためだと思ってた。高校生の頃には、自分が生きてようと死んでようと何も影響なんてないと客観視できた。大学生になると、こんな自分でも死んだら悲しむ人はいると冷静に考えるようになった。でも生きたいと思うことはなかった。
 人生山あり谷ありと言うが、自分は苦痛や悲しみがあるなら、幸せもいらないと思ってた。
 20歳過ぎの頃、本気で今日死のうと考えた日があった。でも痛いのが怖くて、未遂にすらならなかった。行動を起こせなくて、電車で一番遠い駅まで乗って、知らない土地を適当に歩いてた。挙句、死ねないと悟って親に連絡して迎えに来てもらった。その日からずっと、生きてるではなく「死に損ねてる」と思っている。
 そんな自分でも、唯一生まれてきてよかったと思えた期間があった。子どもが生まれた時だった。長男が生まれ、次男が生まれ、その間の5年くらい死にたいなんて思わなかった。しんどいことがあっても、それをはね返して成長してやると思ってた。
 それがガラガラと音を立てて崩れる日がやってきた。会社の同僚の何の気なしの一言。最初はムカついてイライラしていた。でも冷静になろうとして、そういう人もいるんだなと思っていた。
 そんな中で、5年ぶりに「死にたい」と呟いた。その一言で、死にたいと思っていた幼少期に一気に気持ちが戻ってしまった。克服したと思っていた希死念慮が全くなくなっていなかったことがショックだった。
 それから人に対して今まで以上に気を遣うようになった。異動があり、環境が変わると思っていたらもっと難しい人がいて、ついに適応障害になってしまい今に至る。
 そんな過程を経て気づいたことがある。ずっと感じていた違和感。
 自分は幸せになりたいわけじゃなかったんだな。
 幸せになるために努力したり、苦痛を受け入れるくらいなら何も感じたくない。家族のことを愛しているけど、自分は家庭を持っていい人間ではなかった。
 せめて子どもたちが、自分と同じにならないように頑張っている。
 願わくば、誰からも愛されず、覚えられず、できるだけ早く一人で死ねますように。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。
初めて死にたいと思った時のエピソードを読み、「死ぬ」ことに準ずる言葉というだけでも、忌避感を示す人は少なくないという実状があるのかなと感じました。ただ、他の誰かではなく自分を傷つけたくなる思いすらも禁じられてしまった過去のあなたは、どこにも気持ちの置き場がなかっただろうなと想像しました。あなたの親が言った「死ねなんて言うな」という言葉を見ていると、もはや反射的にそのように断じてしまう人は少なくないのかもしれないと私は感じましたが、そう言う前にせめて、なぜそんなことを言いたくなったのかを知ろうとする姿勢を示してほしかったなと、勝手に思っていました。

自分が死ぬことで悲しむ人がいると感じ、それは一旦避けながらも生きたいと思うことはなかったということ、そして、「生きてるのではなく「死に損ねてる」」、、これらはとてもリアリティのある表現で、あなたの根幹をなす考えでもあるのかなと感じます。考えてみると、(私の体感でしかないですが、)世の中には「なんとなく生きること」を歓迎しない雰囲気が漂っているように感じます。そのため、死に損ねたと感じながら人生を歩んでいくことには、経験談には収まりきらないような生きづらさが潜んでいたのではないかと、経験談を読めば読むほど、考えさせられるようでした。

表現の端々にリアリティが詰め込まれていたからこそ、お子さんが生まれたことは本当に「生まれてきてよかった」と感じることだったのだろうなと感じます。そんなあなたに、会社の同僚は一体何を言い放ったのか、気がかりになる気持ちも併せて抱きました。他にも、苦痛の持つ影響力が時に(いや、しばしばかもしれません)幸せの持つ影響力を上回ることがあるのかなとか、苦痛ってなんでこんなにも存在感があるのだろうとか、、いろいろな思考が頭をよぎります。

投稿者さんがずっと抱えていた違和感、これが明文化されたのは、あなたがよほどそのことを考え続けてきたからなのだろうなと思います。私自身、この経験談を読んでさまざまなことを考えさせられたこともあって、投稿者さんが如何に考えているか、より伝わってきたような気がします。
個人的な話ですが、私には人が家庭を持っていいか悪いかの判断なんてつかないけれど、私自身は家庭を持つことはないだろうなと直感しています。そういう体感も影響しているのか、投稿者さんは家庭を持つことの重みみたいなものを客観的に、かつ目を逸らすことなく捉えているのかなと私は感じ、それは投稿者さんの誠実さ故なのかなと思ったりもしました。だから、あなたの意には沿えないかもしれませんが、最後に書かれている投稿者さんの願いとは裏腹なことを考えている自分もいたということを、率直な感想として伝えさせていただきます。改めて投稿ありがとうございました。

感想2

文章を読んで感じたのは、「死にたい」という思いが人生の背景にずっと存在してきたのだろうなということでした。その感情は衝動ではなく、ずっと一緒に生きてきた空気のような、言葉の端々にその積み重ねの重さが滲んでいるように感じました。だからこそ、「死にたいと思わなかった5年間」の存在が、あなたにとってはとても大きなもので意味のあるものだったのではないかと考えていました。
お子さんが生まれたことで初めて「生まれてきてよかった」と感じられたという経験は、希望というよりかは“生”というものに一時的に居場所を見つけたような瞬間だったのかもしれないなとも感じています。でも、それが崩れてしまったあとに再び戻ってくる「死にたい」という思いには、まるで古傷がうずくような切なさのようなものを感じ、おそらく悪意のない「何の気なしの一言」によって引き戻されてしまう痛みを想像すると、共感では癒えないものだとは思いつつも、読んでいる私まで胸が締め付けられるような感覚に勝手ながらなってしまいました。
「幸せになりたいわけじゃなかった」という言葉に、人はつい“幸せを目指すのが当然”と考えてしまいがちですが、その前に“これ以上傷つきたくない”と思うのは、むしろもっと根源的な感情なのではないかと思いました。何かを得るために頑張るというより、これ以上壊れないように自分を守っている、そういう生き方だって、尊重されてもいいのではないかとあなたの文章を読んで思っているところです。
生きることに答えが見つからなくても、その問いを抱えてここまで歩いてきたこと自体に、あなたの強さも感じています。ただ、その強さがあるからこその辛さ、苦しさもあるようにも感じ、最後に書かれていた願いは、ずっと頑張り続けてきて、ようやく正直に自分の思いを言葉にしたもののように私は感じられました。何かを失敗したからこうなったのではなく、何度も立ち上がってきたがゆえの今の思いなのではないでしょうか。(違っていたらすみません)また、余談ではあるのですが私自身も”自分が好き”という感覚が本当に分からない人間なので、そのあたりの感覚を機会があれば一緒に深めてみたいななんてことも思いました。
まずは、あなたがこうしてここに綴ってくれたことを静かに受け止めたいと私は思っていますということを伝えて、感想とさせていただきます。あなたにとって死にトリが苦痛を感じずに自己表現できたり、一瞬でも心休められたりできる場であれたらいいな…と願っています。良ければまた、思いや考えを届けてください。経験談の投稿ありがとうございました。

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