経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

“普通”になるということ

経験談「将来への投資」を送らせて頂いたのがきっかけで、私は再び支援の輪へと繋がることができました。あの経験談は死ぬと決めて、最後に誰かに何か残ればと思い送らせて頂いたものでしたので、このような結果となったことは今でも感謝しても仕切れない気持ちです。ですが、やはり私はその支援を受けることができませんでした。父親に完全に心を支配されていたのだと思います。親は何度だって喧嘩する、DVの現場を目の前で見さされる、その時、その事実を支援者さんに伝えることはできましたが、逃げてくるように言われると”怖いから無理です”と毎度断っていました。”決心がついたら行きます”と何度も話すけど距離が遠かったのもあり決心などつかず、でも帰りたくもなく、毎日通学の際に電車に飛び降りる寸前のような状態で生きていました。
そんな時、大学の課題でとある社会貢献活動について調べていると住んでいた都道府県でシェルターを営んでいる団体の方を見つけました。私は連絡をとり、会うことが出来ました。同じ都道府県というのもありハードルが低かったのか、限界だったのか何度かシェルターに保護して下さいと言い、荷物をまとめて会いに行きました。ある時は授業を放棄して、ホテルまで用意してくださり、準備は万端でした。後は保護してもらうだけ。しかし、私はいつも途中で”ごめんなさい、やっぱり無理です”と断り家に帰ってしまいます。
そんなある日、大好きだったおじいちゃんが癌と白血病で亡くなりました。そのお通夜でも父は持論をひけ散らかしました。それが原因で母と大喧嘩になりました。私の誕生日も家族で祝ってもらえるわけもなく、大喧嘩で終わりました。その誕生日は人生の節目である20歳の誕生日でした。
その後もずっと大喧嘩が1ヶ月くらい続きました。
しかし、とある日の喧嘩で父はとうとう母に暴力を振いました。今までは言葉の暴力がメインだったのですが、力で母をねじ伏せ始めました。
私は怖くて自室で過呼吸になり、息が困難になり、地元の警察署に連絡したり、繋がってくださった支援者さん方、SNS相談に連絡しまくっていました。警察署に連絡した時「暴力があるのなら110番して下さい」と言われました。しかし、110番したら誰が110番したか伏せることはできないと言われ、私は自分が通報したことがバレるのが怖くなり母を見捨てました。
次の日私は出かける予定で父は1日外出日でした。母は朝起きてきた私に家を出ようと言ってくれました。私はすぐに同意し2人で緊急の荷造りをし、私が外出している間に母がおばあちゃんと合流して、私は母の元に帰るという計画でした。そして計画は無事成功しました。父親とやっとの事で離れることが出来たのです。
しかし、その日、私は父親からの連絡や父親が来るのではと怖くて何度も過呼吸になりました。お風呂から上がると父親がいるのではないかと思うとお風呂からも上がれませんでした。そして母はスマホを父親に壊されていたので連絡が来るなら私のスマホ。私はスマホが怖くなりました。仕事が終わった父から連絡が来たのは日付が変わる頃でした。何度も鳴るスマホ、おばあちゃんの家にある固定電話も鳴りましたが母が無視すればいいというので出ることはありませんでした。しかし父はおばあちゃんのスマホにも連絡をしました。おばあちゃんは電話をとりました。そして電話を代わった時「お前は帰ってこい、帰ってこないなら大学もバイトも辞めさせる」と言われました。私は電話が来る怖さで眠れないことを見越しODしていました。薬を大量に飲んで寝ようと思っていたのです。その状態だったというのもあり、怖かったですが「帰らない、帰りたくない」と何度も伝えました。父からは何度も脅され、「今から迎えに行くから準備しろ」と言われましたが「帰らない」と何度も訴えました。すると父も諦めました。念の為次の日母は学部事務に事情を話し、退学届を受理しないよう伝えてくれました。
無事に離れられた私でしたが、これで順風満帆とはいかず糸が切れたように人が変わってしまいました。父親が来るのではないかと思うとカーテンも開けられない、外に出るなんてもってのほか、お風呂からも上がれない、スマホを見ることが出来ない、夜寝る時は時計のライト、冷蔵庫のランプなどが怖くて眠れないなど不調がミシミシと音を立てるように現れました。おばあちゃん家はマンションで、高層階に住んでいたので毎日床に寝転んではベランダから飛び降りることを考えながら空を見つめることしかできなくなりました。そんな私を心配して母はクリニックへ行くよう勧めてくれました。その後、評判なども調べ、家からわりと近いメンタルクリニックにかかりました。そこで私は重度のうつ病と恐怖症性不安障害だと診断されました。私の状態は休学するよう言われるほど酷いものでした。しかし、奨学金を借りているため休学はできないと伝え、大学に合理的配慮を申請するという条件で通学する事を認めてもらいました。一連の事件は夏休みに起きたものだったので、少しずつ外の世界に触れるようにし、秋学期再開時には帽子とマスクを着用していればかろうじて1人で外に出られるほどになりました。それでも恐怖心は付き纏いましたが、休んでる暇などなかった上に、途中から友達と合流して登校し、帰りも途中まで一緒に帰ってもらうなどし日常を止めることはしませんでした。当時、スクールカウンセリングにも通っていたので病院とも連携してもらいました。そして、色々な人の助けのもと不安障害は改善していき、普通に出歩けるようになりました。そして憧れの場所でアルバイトをすることまで出来るようになりました。
憧れの場所でのバイトは楽しく、やりがいも感じ少し安定し始めた時でした。元々、父親の40kg以外は太っているという持論のおかげで拒食っぽい傾向はありました。しかし、引っ越してからはむしろ過食に走るくらいよく食べていました。その一方で少しは体重も気にしていました。
ある日のバイト先でのこと。社員さんとパートさんの会話が引き金でした。
社員さん「また痩せました?」
パートさん「そうなんですよ」
社員さん「ちゃんと食べてます?笑」
パートさん「食べても食べても痩せていくんです笑」
この会話でした。その時、少し体重があった私は隣で聞いていて”私は太っている”と認識しました。現実は健康体重の範囲でした。それ以来私は過度なダイエットを開始しました。朝はパン、昼は食べないか食べても0kcalゼリー、夜はバイトのことが多かったので60kcalにも満たないプロテインバーの半分。この食生活を開始しました。するとみるみる体重は減りましたが、食事が怖くなり家でもまともに食べられず母とおばあちゃんと喧嘩する日々。それでも辞められませんでした。
いつもと同じようにバイトをこなしていた何の変哲もない日でした。私は閉店作業中に倒れてしまったのです。2日連続。1日目は倒れた後先輩が駆けつけてくれ、自力で動くことが出来ました。次の日は動くことも出来ず救急車で搬送されました。結果は低血糖と脱水でした。過度な食事制限をして働いていたのが原因でした。その日初めて摂食障害拒食症の疑いとクリニックへの紹介状に書かれました。そして私は出勤停止になりました。
出勤停止解除の条件はメンタルクリニックの主治医が出勤可能と判断するまでというものでした。しかし、私は太っているという考えのもと、食生活を一切変えませんでした。自己誘発性嘔吐もしたし、下剤も使いました。みるみる体重は減っていきます。主治医が出勤可能と判断する体重は50kg、最低でも48kgでしたが私の体重は42kg、倒れた時の体重は49kgでした。大学へ通うのもしんどくなってきて行っても保健センターで横になって休ませてもらう毎日でした。
私のうつも良くなるばかりか悪化します。自殺未遂をして警察に保護される事もありました。大学へも通えない日も多々ありました。
そして私の減量は続き、健康診断の日に40.8kg、BMI14.3まで落ちました。主治医はもううちでは診切れないとなり、大学病院を紹介してもらいました。
同時期、私は出勤停止になっていたため、副業サイトに登録しました。すると口車に乗せられるまま登録していくと150万もの借金を背負うことになりました。
それを返していくために家庭教師やオープニングのバイトを増やし、5つ掛け持ち状態になりました。バイトをして大学に行きバイトに向かう、ある日はバイトを1時間早く上がらせてもらって午後は違うバイトをする日々、体重は低体重。私は体動困難になり、家で倒れました。すぐに救急車で搬送され一通り検査するも異常なし、病名は転換性障害(解離性障害)でした。病院でもほとんどご飯を食べない日々。一度退院したものの次の日には予定を詰め込み再度体動困難、発動性低下の状態となり救急搬送。大学病院初診の前日まで救急で入院することになりました。1度目の搬送からしておよそ3週間弱でした。
そして大学病院を受診したところ夏休みに入り次第入院しましょうと言われました。BMI16になるまでの閉鎖病棟への入院でした。
夏休みになるまでは解離症状で半日意識がなかったり、外で倒れたり、複数回救急搬送されました。それでも何とか日常生活を送っていました。
夏休みになると入院生活が始まりました。夏休みはほとんど入院で終わりました。誕生日も病院で過ごすことになりました。
BMI16には届かなかったものの、15後半であったのと任意入院だったので、大学が始まるからと退院させてもらいました。退院後は過食に転じました。過食排出型の拒食症に変わりました。
退院後すぐに大学が始まりました。その多忙さに私の心はついていけませんでした。すぐに死にたくなり、OTでも自傷、別日には自殺未遂、外科受診級のリスカもしました。そしてその事実を主治医に伝えると受診日は火曜日。金曜日からの緊急入院になりました。
1ヶ月閉鎖病棟で入院しました。その入院では色々な気付きがありました。まずはゆっくり休めたこと、あとは自傷行為にはいっときのストレス回避能力はあるかもしれないけれど、根本問題は何一つ解決しないことです。
私は退院してある程度安定して過ごしていました。しかし5日後、大学登校再開前日に散歩中に解離症状を起こし公園で倒れ救急で入院することになりました。1週間ほど入院し、受診日である火曜日に退院し、その足で大学病院を受診しました。
それ以来、今は落ち着いて過ごしています。そんな私の今時点での病名はうつ病、摂食障害、解離性障害、注意欠陥多動性障害です。今でもご飯を食べずに減量しようとしたり、ちょっとしたことで死にたいと思うことがあります。いつ意識を失うかわからない中過ごしています。ご飯のことになると喧嘩になるし、太ってる自分は生きてる価値がないとも思います。大学へも毎日通うことはできません。私はこうなった自分を恨んでいます。何で普通になれないのか、なれなかったのか。普通になりたい。そう何度も願っていますが何度願ってもなれないものはなれない。母にも迷惑をかけている。そんな自分が恨めしくて仕方がない。

感想1

波のように次々と押し寄せる精神的な症状や行動に圧倒されつつも、これは回復が始まったがゆえの爆発なのではないかという感覚を抱きながら、あなたの経験談を読みました。(感覚がズレていたらごめんなさい)
父親から支配される自分と、前を向いて行動しようとする(シェルターに連絡する、憧れの場所でバイトをする)自分、「助けて」という叫びでいっぱいになる自分、体重に囚われる自分、それを冷静に見ている自分、自分を責める自分・・・たくさんの状態が同居しつつ入れ替わり、混乱してぶつかりながら、これまで何とか生き延びてきた姿を私はイメージしています。

支援する立場になることもある私としては、理不尽な暴力にさらされる環境から逃げることの難しさを、改めて痛感させられました。
どうしても人間は自分の感覚や発想で、「じゃあ逃げよう」と親切心で言いたくなるのですが、支配されている状態の人は、自分と違う状態にあるのですよね…。だからそれをきちんと知らないとダメだし、どういう心理状態にあるのか、どうすれば逃げることができるのか、あなたにわかっていることがあれば教えてほしいと思いました。少なくとも、恐怖というものの支配が強烈であること、そこを麻痺させるにはODくらいの強い刺激が必要になること、離れたからといって心身の問題が簡単に解決するわけではないことは、感じられました。
また、何かに支配されること、何かに追われて振り回されることが、あなたのデフォルトのようなものになっているのかな…?ともちょっと思いました。支配者が父親から体重に変わり、振り回されるものが両親の喧嘩などから副業サイトのあれこれに変わり・・・という印象を受けましたが、どうでしょうか。支配されている方が落ち着くとまではいわなくても、支配されない状態での生き方はゼロから(マイナスから と言った方が正確かも…?)のスタートで、転んだり頭をぶつけたり、まだ歩き方を覚え始めたばかりの幼子のようなイメージが浮かびました。

あなたの「普通になりたい」という願いについて、私なりに想像をしてみています。
心身が健康で、安定した社会生活を送ることができ、家族とも悪くはない関係を築けていて・・・というのが具体的なものかなと読み取ったのですが、それは全て「安心・安全な環境で生きられたかどうか」の影響がとても大きいものだと私は思いました。つまり、あなたの問題ではなく、あなたを取り巻くものの問題で、恨むべきものがあるなら、そういった周りなのかな…?と。少なくとも私は、あなたの父親と、あなたのSOSを拾うまでここまで時間がかかってしまうこの社会に、怒りともどかしさを抱いています。どう考えても、あなたが悪いみたいな発想は一ミリも浮かばないとだけは伝えておきます。(でも、自分のこととなると、全部自分が悪いとも思っちゃったり・・・不思議ですね)

入院で色々な気づきがあったのは、よかったな…と心から思いました。今はただ生きるということだけで、あなたは過労死レベルで忙しいように見えるので、なるべく刺激が少ない場所で休んでほしいとは願ってしまいます。ただ、休むことで今度は、大学はどうしようといった恐怖やらがまた膨らんできたりもするのか…?とも想像しています。そう考えると、生きるというのはどっちがマシかの選択の連続な気がして、やってられないという思いと、「やってられない」とお互いに愚痴れたらなんとかなるのかな…?という思いが浮かびました。
またいつでも死にトリに書きにきてください。

感想2

「逃げる」ということは簡単ではないと感じました。
同時に、辛い現状から逃げたいと思っていても、それは漠然としたイメージで留まるばかりで、ちゃんと「逃げる」について考えたこともないと気づき、「逃げる」について考えてみようと思いました。
まず「逃げる」までのプロセスを考え、私は【自分が困難な状況にいることを受け入れる→助けを求める→逃げることを決断する→実際に行動する】という段階に分けました。しかし、実際には他にもいくつかの段階を踏むことがあるだろうし、一つ一つの段階の中にもさらに細分化されたステップがあるはずです。本当にたくさんのハードルがあると痛感しました。
そして逃げた後も暮らしは続きます。おとぎ話のように、「〇〇は□□で幸せに暮らしましたとさ」ともいかず、むしろ新章が始まる瞬間に近いと言えるでしょう。私だったら、一区切りついた後はしばらく休みたいと感じますが、社会生活は個人の状況を無視して進み続けます。もし達成したい夢や目標があるなら、休むことは遅れを取ることに繋がりかねません。それが心の中で大きな抵抗を生み、回復しきれないまま次の戦いに挑まざるを得ないことも少なくないと思いました。
自分の人生に与える影響を考えれば考えるほど、決断のハードルは高くなるものだと思います。逃げたときに失うものや、予想される苦労を思うと、すぐに決断することは難しいのは当然であり、直前に決断を撤回することも十分にあり得ることだと思いました。
そんな中で、あなたが何度も助けを求めたこと、そしてその求めに応えてくれた人がいたことは、非常に大切なことだと思います。差し伸べられた手を掴むことができなかった自分を、あなたは責めたかもしれません。それでも、相談できる場所を探し、何度でも助けを求めたその行動は、誰にでもできることではなく、あなたが自分の力で自分を救おうとした証だと感じています。

そして、いくつかの壁を乗り越えた先にあった摂食障害やその他の疾患という壁に、休みつつ立ち向かっているところを想像しています。もともと拒食の傾向があったということでしたが、その父親の「40キロ以上は太っている」という持論に、とてつもない暴力性を感じました。
自明のことですが、身長によってはかなり危険な数値です。医師の判断やBMIから、あなたは比較的身長が高い方だと想像していますが、父親のいう40キロはあなたにとっては”主治医が診きれないと言うレベル”で、それを暗示のように日常に浸透させたことは一種の呪いのように感じました。
私が特に嫌悪感を抱いたのは、父親自身がその持論の対象外であることです。(40キロ以上”の女”は太っているという意味だと受け取っています。)女性を性的客体化させ、自分はその外側から容姿を勝手にジャッジしていることに対し、言葉を選ばずに言ってしまうと「何様なんだ?」という感想を抱いています。

こうしたお話を読むたびに、その言動の責任は別の誰かに在るはずなのに、どうしてそのツケをこの人が払わなければならないんだと、いつももどかしい気持ちになります。自分が恨めしいというのも、「恨めしい自分にさせられた」に近いのかなと想像しながら…。
これまで、自分の生存のため、他人のケアのために使っていたエネルギーを、自分の人生のために使うことができるようになったのではないかとも感じています。まだ慣れないことでしょうし、何をどうしたいかも、すぐには決まらないかもしれませんが、少しずつあなたのペースで進んでいけるのではないかなと思っています。

感想3

父親から、そしてつらい環境から逃げたい離れたい気持ちは本当にあるけれどそれと同じくらいに離れる事も凄く怖かったんじゃないか…と感じました。離れた後の事は未知すぎて怖いと思うし、何もかもが不安で、今より酷くなったら?と考えてしまったり、離れた際に父親が何をしてくるのかわからない恐怖もあったのではと想像しました。あなたと状況は違うけれど、私は今書いたことと少し似た気持ちになった経験があったため、一人色々と想像を膨らませました。
安心できる環境ではなく休まらない中で過ごし、恐怖や不安から起こっていたと思われる過呼吸も、身体の反応として正常なことの一つなのかもしれないと感じました。読みながら沢山印象的な部分がありましたが、110番したら誰が110番したか伏せることはできないと言われて通報を知られるのが怖くなったエピソードには、また状況は違えど私もあなたと同じく、知られるのが怖くて通報できず耐えてしまった経験がありました。なのでここでも、通報したことが知られ、逆恨みがあっても怖いしもっと酷い状況になったら?とあなたの中で即座に考えが巡ったかもしれないなぁ…と目を閉じて考えていました。その時にあなたが怖くなったことと、「母を見捨てた」ことはイコールではない。と私はそう思います。
内容にもよるかもしれませんが、事情を伝え通報者の名前を伏せてもらうことって現在はできないのだろうか…?と、ふと今考えています。でももしそれができないのだとしたらできるようにしてほしいですし、「バレてしまうのでは?」という恐怖から通報を躊躇うようなことがこの社会からなくなるようにしてほしいと私は思いました。
父親から離れるためにおばあさんの家に着いた時、一番最初にあなたが感じた気持ちはどんなものだったのだろう?と、気になりました。何度も鳴るスマホはとても怖かったと思いますし、もはやスマホではない何か別の怖いものに感じたんじゃないかとも思いました。「帰らない」と何度も訴えたところを想像すると胸が締め付けられる感覚になりましたが、もう大きく現状を変えたい、戻りたくない、という強い意志も伝わってくる場面だと感じました。
でも離れてもまた違う形の恐怖があなたに降りかかってきたのですね。「不調がミシミシと音を立てるように現れました」の表現から、あなたに次々と、そして着実にやってきた不調の数々が目に見えたように思いました。読みながらずっと思っていたのですが、なぜ苦しんでいる(苦しめられている)側がつらい状況で過ごさなければならないのだろうか、休む必要があるのに休めず、なぜこんなに怯えて日々を過ごさなければならないんだろうかと理不尽さを覚えます。このような状況にいる人達が、本当に安心して安全に暮らせるように、加害側をこちらが納得できるような形でどうにかしてくれないだろうかとわたしは思います。
そんな中でも、あなたが憧れていた場所でアルバイトができたと読んで、嬉しい気持ちになった私もいました。でもここでも「父親の持論」に苦しめられ、そして世間のルッキズムにも苦しんでいる様子を受け取りました。どうしたら体重や見た目など、気にせずに生きていけるのか。どんな社会であれば気にせず済むのか……。自分の中で今一度考えてみたくなりました。
これも読みながら印象的だったことなのですが、大喧嘩で終わった誕生日・病院で過ごした誕生日と、この誕生日を節目のようにして経験談を書き綴ってくれたようにも感じてきています。
最後の文章に、「こうなった自分を恨んでいます」とありました。でもここまで読んだ私からは、あなたにそんな想いをさせてきた環境、そして父親への憤りがあります。でも同時に、自分を恨んだり許せなかったりする気持ちにもとても身に覚えがあり、それを深く感じながらつい腕を組みました。普通って何なのでしょう…。どんな普通がこの世界にはあるんだろうかと考えています。人がそれぞれに求めている普通は違うものかもしれないけれど、気にしなきゃいけないことや怯えてしまうことがあり、それに縛られて過ごすことはとても苦しいと私は思っています。感想を書きながら、色々と考えてみたいと感じる時間になりました。投稿ありがとうございます。

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