経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
去年、死の引力に抗わず命を絶とうと決心するような出来事が起こり引きずられるままに今年を迎えました。しかしやっぱり死ぬまい、殺されたくないとようやく思えたときこの場所を思い出しました。
今のところ、私は自分の生命にあまり愛着を持つことのできない人間です。これは物心ついたときからそうでした。「死んでしまう」というのを「眩しいから電気スタンドのスイッチをオフにする」くらいにしか考えられないのです。この感性をうかつに口に出すと、お前は想像力に乏しいのだとか他人の生命もそんなふうに扱いかねない危険な奴だと言われるのかもしれません。決めつけやすい善良な人々に正面から抵抗するだけの気力はまだ回復していませんが、私は可愛がっていた熱帯魚を喪って肌荒れするほど泣いた女だと言っておきます。
幼少期、父母は気まぐれにわが子をかまい、面倒になれば遠慮なくしっしっと追っ払いました。こちらも当時は彼らを自分の保護者というよりも一緒に暮らす若い夫婦程度に認識していたのではないかと思います。父は田舎の裕福な家庭に三人兄弟の次男として生まれた、素朴で少し騙されやすいところのある人でした。新聞の訪問販売員に強くすすめられて断りきれずに契約してしまい、母がかわりに苦情の電話を入れたこともありました。
両親はどちらも地方出身で経済的には余裕のある家庭で育ったおぼっちゃんとお嬢さんという共通項がありましたが、二人の性格はまるでちがっていました。
母は気性がはげしくてなにかと腹を立てては、父をモノでぶったり私を自宅玄関の段差から外に突き飛ばしたりしました。たまに穏やかな日があると、とてもうれしかったのを覚えています。八重歯が可愛らしい童顔の女性で、父がいたときも別れてからも男の人にもてました。でも、母のはげしい言動に耐えきれなくなってしまうのか、誰とくっついても毎回すぐに駄目になるのでした。
自然と私は母におびえ、大人に甘えたいときはできるだけ父のほうに行くようにしていました。父には子どもらしくタメ口で話すのに、母には敬語で話しかけていたほどです。
六歳で両親が別れ、母と母方の祖父母、そして曾祖母(祖父の母)と暮らすことになりました。この家には私に対してやたらとお姉さんぶる猫がいて、それは子ども時代の数少ないよい思い出です。
祖父はその分野では有名な研究者、祖母はお茶やお花をたしなむ主婦でときどき人に教えたり頼まれてホテルに飾る花を生けにいったりしていました。絵に描いたような堅い家です。曾祖母は重い認知症で、彼女の部屋は排泄物のにおいがするので、幼い私は残酷にもそれを嫌って寄りつきませんでした。
離婚直後の母は今まで以上に不安定になっていました。娘がそばにいるのもかまわず、というより見せつけるように自分の手首を切るし、処方された薬を酒で一気に飲み下してひっくり返っていることもしばしばで、家族は母が自殺しないようにいつも気を付けていなければいけませんでした。しかし、祖父母はこの問題にきちんと取り組むのを避けて、服薬の管理やぐち聴き役をまだ小学校低学年だった孫にうまく押し付けました。そしてそれでもざらつく気持ちを、さらに私を傷つけることでどうにかしようとしていました。
これはあくまで私からはそう見えた、ということでしかなく、反論の場も用意しないままこう言いきることはアンフェアにうつるかもしれませんが、少なくとも自分が“愛されるに値しない子ども”だとか“傷つけられてもしかたがない存在”であったわけではないと、あのころの私にはっきり言ってやらなくてはいけないから、その必要のために書きます。
祖母は深刻な性嫌悪の問題を抱えていました。そして彼女の想像力は極端に悲観的でした。七歳の孫が同じクラスの男の子と談笑しながら下校しているのを目撃して、パニックを起こし、暴力をふるうこともありました。そのころすでにマスターベーションの常習者で、毎日憑りつかれたようにそれに耽っていましたが、当然祖母に罰せられました。夏の暑いさかりに両手両足を縛られて押し入れに閉じ込められたことがあります。みじめでした。「えっちなことを考えているのは世界中で実は私一人だけで、ほかの人たちは子どもはもちろん大人もただワルぶって興味があるふりをしているのかもしれない」と真剣に考えていました。自分は怪物だ、善良な人々の痛み苦しみのはけ口として神様が私をおつくりになったのだとやがて思い込むに至りました。
また、祖父は祖母とはまた別の形で私を性的にいじめました。祖母は食べ物についても潔癖なところがあり添加物をできるだけ摂らせたくないからと、孫に与える菓子にも敏感でした。きれいな色の駄菓子はもってのほかという中で祖父は、禁止された食べ物をひそかに食べさせてくれました。ただし、身体を触らせたり反対に祖父の身体を触ったりしてやることと引き換えにでした。ほかの家族がいる前でも彼はすれ違いざまに私の尻に触れるとか膝に抱いて乳首をいじくるとかしていましたが、この家では誰もそれを問題にしません。ですから、ある時期までは祖父の私へのふるまいを単に“不快な秘密”としか考えずにきました。
八歳の時、児童精神科に連れていかれ発達障害の診断がおりました。母は喜んでいました。娘が学校に馴染めず落ち着きのない言動ばかりしているのが自分の育て方のせいでないとわかってよかったと言い、しばらくの間目に見えて明るくなりました。
しかしそれも長くはもたず、診断をめぐって祖父母と母の関係が急激に悪化しました。私は母を守るためにあえて“障害児らしく”ふるまうことを身に着けました。子ども向けに書かれた障害についての本をあれこれ読んで、発達障害の子どもに対して人々がどんなイメージを持っているのかを学びました。以降現在に至るまで、生活はほとんどが芝居になり、存在は虚構と化しました。
私はなかなかに演技派だったようで、祖父母はだんだん医師と母を信じはじめました。八歳の私が実際に発達障害だったのか、あるいは虐待由来の不安定さがそう見せたのか、もしくはその両方なのかということをここではあえて問題にしません。すでに自分の中では、芝居と本音の区別がどこかあいまいになっているからです。この理屈っぽい文もふだんの抑揚に乏しい喋り方も、どこまでが作為でどこからが自分らしさなのか正確にはわかりません。
私は裕福な家庭の一人っ子で物質的にも不自由せず、父親はいないけれど大人に囲まれて愛されているはずでした。近所の人たちには名前ではなく、“H先生のお孫さん”と呼ばれました。祖父も祖母も、取り繕うのがうまい人たちなのです。
「この家で起きていることを誰も信じない、正直に話せば噓つき呼ばわりされるだろう。夜に私が車に閉じ込められているのを見た人も、学校の先生も、短期間保護されていた児童相談所でお世話になった職員さんも、どうも事態を深刻に受け止めていないみたいじゃないか」とか「診断名があるかぎり、大人たちは私ではなく母を信じるだろう。育てにくい子だというお墨付きなのだから」とか、ませた諦めで私は気づかないまま無力になっていました。母もまた、さびしいからと私の身体をいじりまわす人でしたがそれに抵抗しようとも思いませんでした。
いままで、苦しいことがあるとこの諦念や無力感にあっという間に引き戻されました。悪意を持った人が嗅ぎつけて近づいてくることも何度もありました。児童相談所で職員に隠れて年下をあらゆるはけ口にしていたお兄さんたち、中学の時に私を性的にいじめていた同級生の男子たち、レイプしようとした塾の先生、私に酒を飲ませて犯したあげく自宅に軟禁して金を貢がせた年上の男、あげていけばキリがないほどです。そのくせ人間への信頼は諦められず次から次へと暴力を受ける姿を見かねて、保護を与えようとする人もいましたが残念ながら彼女たちのほとんどは、変えられないものまでも変えようとしました。私は愚かな行為や危険を伴う楽しみを、健常者とされる人々以上にきつく禁止されました。ただ、レッテルを貼られていないというだけで自身の正気を自明視できる立場の人々のむごさを知りました。
私の半生(百歳まで生きると仮定すると今年でちょうど四分の一になります)は性的なものに限らず支配と被支配の関係にすっかり覆われていました。それらは、たとえばBDSMのように合意に基づいたものではなく、わけのわからないまま不本意に巻き込まれときには加害者となって巻き込むものでした。楽しかった思い出や懐かしく思い出す人もいますが、それらを忘れてためらいなく死へ向かおうとしてしまう衝動的で強烈な引力はまだ存在しているのです。
この際、一度死んでしまったのだと仮定して生きてみようと思います。幼く無力だった私と現在の私は確かに連続していますが、無力であることに気づいた私はそれゆえに逞しく自律できるような気がします。
感想1
投稿を読ませていただきました。文章から、あなたは幼少期からの出来事をその後何度も反芻し、思考と知識と言語によって捉え直してきた方なのだろうと思いました。色のついた映像として浮かんできそうな描写が続き、私が捉えられただけの不十分なイメージながらも、あなたが「支配と被支配の関係にすっかり覆われて」きたと振り返るのも無理のない状況ばかりだったことを感じます。あなたが安全を感じて過ごせるような機会はほとんどなかっただろうと思いましたし、その中ではあなたは周囲の状況を捉えながら、自分の振る舞いを振り返り周囲に合わせた振る舞いをし……と生きてこざるをえなかったのだと思います。
あなたは詩的で哲学的な感性を持っている人なのだと思います。あなたの視点から見た人間の生々しさを少しだけ垣間見せてもらいながら、生命の切実さと即物性を浮き彫りにしつつ、一方ではある種の倫理観のようなものが込められた文章のようにも感じました。
電気スタンドのスイッチをオフにするように、生命のスイッチをオフにしたくなるためらいのなさを自分自身で感じつつ、そのこと自体が周囲の「善良」さからは外れているとも感じつつ、そしてそれらを諦めてもいるような、そんな感じがしました。抵抗するにも、たしかに気力や体力やさまざまな力が必要ですよね。
「それらを忘れてためらいなく死へ向かおうとしてしまう衝動的で強烈な引力」について、私も、自分自身のこととして、身に覚えのある感覚だと感じました。私も引力に近い、引きずられるような感覚として認識しています。それは常にある程度はあるもので、生活の中で様々な刺激による感覚調整や、自己理解、学習、あるいは他者との交歓などの様々な要素の中である程度抵抗する力を持つ時もあれば、そうではないときもあるという感じかなと、いま私の中の感覚を探ってみて思いました。
タイトルにあるスイッチとは電気スタンドあるいは電気スタンドのように感慨なく電源を落としてしまえるような生命のスイッチですが、電気スタンドのような(しかし一度電源を落としたら、もう電源を入れることのできない)生命とはどういうものなのだろう、それは普通じゃないと言うことになるのか、それはどういうことなのか……と考えていました。
私は世の中で「人間」「人間らしさ」という言葉が使われる時とても情緒的なものでありつつ、理性的なものでもある(はずだ)と語られることが多いように感じ、そうなのかなぁと思うことがあります。もちろん、それも一つの側面ではあるというか、言語を介して感情や記憶を伝達し記述し、制度を作ってきたことの中で、情緒も理性的な側面は重視されてきたとは思います。
でも、そのほかにもさまざまな側面があると思います。
私たちの肉体はまず物理的なものだと私は感じています。それは他の動物や無機物、細胞やあらゆる物質と同じものだというような意味です。この肉体も地球の中で循環するものの一部ですし、私はたまたまその細胞やあるいは原子の集合でしかなく、私の意識というのも、なぜかその主導権をもっているような気がするときがあるだけ、のことのような気がします。(いろんな「気がする」ことの中の一つです)
ただ一方で、電気スタンドというとき、それはただの物質であるだけでなく、使役される道具であるということも示されているのだと思います。道具とは主体ではなく、利用されるものだと思うのですが、それはあなたが書いていた支配と被支配の構造とも関係が深いのかなと思いました。
あなたの家庭環境についての文章を読んでいると、(お姉さん猫さんを猫さんを除き)彼らの多くがあなたに何らかの役割を押し付け続けてきたことを感じて、憤りを感じます。もちろん、さまざまな事情はあったかもしれませんし、金銭的には問題がなさそうだったとしても、それぞれに本来必要なリソース(支援や関わりなど)がかなり不十分な中、不安定な状況の人たちが共に暮らしていたようにも感じました。
その中での暮らしから、その後もさまざまな悪意にさらされながら、「少なくとも自分が“愛されるに値しない子ども”だとか“傷つけられてもしかたがない存在”であったわけではないと、あのころの私にはっきり言ってやらなくてはいけないから、その必要のために書きます。」という認識に至るまでには、あなたのなかにどのような変遷があったのだろうか、と思いました。
あなたの「生きる」の試みは、引力が強いからこそ能動的に掴んできたものだとも言えるのかなと思います。
最後の一文にある「無力であることに気づいた私はそれゆえに逞しく自律できるような気がします。」という言葉には、そうかもしれないという感覚を持つと同時に、「自律」がそんなにも必要なのだろうかとも感じつつ……そう思うあなたの言葉の続きをもっと聞いてみたい気持ちになっています。投稿してくれてありがとうございました。
感想2
事実、感情・感性、考察のそろった濃密な文章で、読み終わって、海の中に潜ってきたかのような感覚さえ抱きました。
あなたの語りにまだ少し圧倒され、自分の感情の整理に手間取っている私ですが、あなたがこれを書くだけの力(起こった出来事を理解する力、表現力、エネルギーなど)がどこからどう生まれたのかが気になる…という思考・想像もぐるぐる巡っています。
大人たちの関わりの何がどれほど残酷で罪深かったかは、私がわざわざここでフィードバックするまでもなく、あなたが一番理解しているのだろうと私は感じています。ただ、それは「頭では理解している」というだけなのかもとも思っていて、この文章からは、心を麻痺させながら語っている姿を私はイメージしました。
それはそうしないと生き延びることができなかったのだろうと私は想像しているし、麻痺させていても楽なんかじゃないだろうし、、あれ、自分が何が言いたいかわからなくなってきたのですが、必死に自分だけの力で自分を守ってきたがゆえの静けさ、諦めのようなものを強く感じました。
私はあなたの表現の中にいいなと思ったところが二つあって、それは「決めつけやすい善良な人々に正面から抵抗するだけの気力はまだ回復していません」と、「保護を与えようとする人もいましたが残念ながら彼女たちのほとんどは、変えられないものまでも変えようとしました」です。
これらは鋭く、いわゆるマジョリティ(恵まれて育ち、多数派の感性をもち、でもそのことをまだ十分に自覚できていない人)の本質を突いていると思います。私は壮絶な逆境体験はしていませんが、感性がたぶん独特でそれは周囲からすると冷血にも見られやすく、また発達の特性もあり、善良な人々に理解されない経験を慢性的に積み重ねてきました。
といっても、あなたに共感できるほどの立場にはないと思うのですが、代わりに表現してくれてありがとう、その表現力に唸りました、という気持ちを抱いています。
大人たちのエゴや気持ちのざらつき(あなたの表現を借りました)を子どもで埋める行為は、私も少なからずされた経験はあるので、自分を労わる気持ちも込めながら「それは間違ったことなんだ、私たちは守られるべきだった」と人権宣言的にここで表明させてもらいたいと思います。
私たちは誰かの道具でもはけ口でもなく、一人の人間であり、自分のからだもこころも、自分が選んだ相手のためには使っても、勝手に使われたくなんてない、とも叫びたいです。でも、まあどうせ自分のものになんかならないので、慣れてるので・・・と、支配関係に流されてしまいたくなる自分も時々感じます。
あなたは人間への(自分への?)信頼を手にしようと、今歩み始めているようにも私は感じました。死への引力もまだ存在していると書いてありましたし、そのことは文章からも伝わってきましたが、何かしらの手応えやきっかけも感じてるように私には思えています。もしそうだとしたら、何があってそのような変化が起こったのか、聞いてみたいと思いました。(このへんの私の感じ方が、そもそも全然ズレていたらすみません…)
他にも色々、この経験談を読んで自分の中で動いている思考や感情はあるのですが、まだまとまらないのと、私の話を聞かせることになってしまいそうなので、そろそろ感想は終了しておきます。
経験談の投稿ありがとうございました。
お返事1
嬉しいご感想をありがとうございます。スタッフのお二方にいただいたものを読んで思ったことを少し書いてみます。
「その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。しかし、自分は、忍びました」
これはかの『人間失格』で主人公が自身の幼少期を振り返った一節です。
ここでの”残酷な犯罪”とはおそらく子どもに対する性虐待を指しているのでしょう。CSAが暴力である事実については論を俟たないので、幼少期の家庭環境が私の人生にもたらした最大の悪影響つまり罪たるゆえんを一言で表現するなら、「親密さの意味を変容させられたこと」になると思います。
私は今でも、誰かに面と向かって「好き」と言われると混乱をきたすことがあります。私にとって「好き」は加害前後や(性)暴力のさなかにかけられる言葉としての意味合いが大きく、互いの心を潤すものではなく奪い盗むための凶器として六歳の時点で強く印象付けられてしまったからです。そのため、大人になってから私が関係をもつ相手はごく自然に既婚者や名前も知らないその夜限りの人=私に好きと言わない人々、こちらも言わなくてよい人々に偏っていきました。私はモノガミー規範やロマンティックラブイデオロギーを好まず、むしろ積極的に憎んでいますが、「私に好きと言わないかどうか」にこだわってしまう自分のことはあまり気に入っていません。
人文系研究者の祖父はときどき翻訳の仕事もしていました。私は翻訳という営みを見るときどちらかといえば、失敗とされるもの、たとえば「誤訳」や「Lost in translation」に惹きつけられます。誰かの言葉が別の誰かによって変容させられてしまうという現象に、怖いもの見たさで夢中になります。本を書くこと読むことのみならず、生活にはこのような歪みが満ちていると思います。私は他者に誤って描かれ、私もときには他者を誤解したまま命をつづけているという事実が怖い。私を誘惑する死の引力とは「間違えられる・間違える」出来事のいつ終わるともわからない繰り返しから逃れたいという衝動です。
解釈は人生に付きまとう影のようなものだと思っています。
実際に親しくなるかどうかは状況によりますが、私が性的魅力を感じる相手はほとんど常に50〜70代の男性です。若い男性とも何度か試してみたものの、とくに高揚感はありません。そのありようについて私の生い立ちを知る人から、祖父の虐待の影響を受けた自傷的なアクティングアウトだとか父親不在が原因だとか発達障害ゆえに同世代と「まともな」コミュニケーションがとれないのだろうと言われる場面が多々あります。またBDSMに関心を持っている点にも、逆境的な生育歴のある若者にはふさわしくない興味だという趣旨の非難を受けたことがありました。
ある関係が自傷的なものであるかについては自身の中に明確な基準があり、今でもたまに失敗して痛い目を見ながらも自分の性癖をそこそこ楽しんでいるのですが、他者の人生を一方的に解剖しようとする無礼な態度に対して丁寧にその基準を解説してやる必要はないと思っています。
私がしたい自律とは、不躾な解剖的まなざしをどれほど向けられたところで私は私自身であるという信念をごく自然に受け止められるようになることです。
引力に怯えながらもそれを光あるかぎり逃れられない影として捉えて、死なずに生きていこうという気持ちになれたのはなぜなのか、正直なところ自分でもはっきりとはわかっていません。ただ、一つだけ言えるとすればこれまでは100%を目指していたのが80%で満足できるようになったのは大きいかもしれません。友達と諍いがあった日も飲みすぎて醜態をさらした日も、人生のある一日として受け止めることで、かえって、反省すべき点は反省できるようになってきていると思います。
簡単にお返事するつもりが、長くなってしまいごめんなさい。
感想1
投稿を読ませていただきました。文章から、あなたは幼少期からの出来事をその後何度も反芻し、思考と知識と言語によって捉え直してきた方なのだろうと思いました。色のついた映像として浮かんできそうな描写が続き、私が捉えられただけの不十分なイメージながらも、あなたが「支配と被支配の関係にすっかり覆われて」きたと振り返るのも無理のない状況ばかりだったことを感じます。あなたが安全を感じて過ごせるような機会はほとんどなかっただろうと思いましたし、その中ではあなたは周囲の状況を捉えながら、自分の振る舞いを振り返り周囲に合わせた振る舞いをし……と生きてこざるをえなかったのだと思います。
あなたは詩的で哲学的な感性を持っている人なのだと思います。あなたの視点から見た人間の生々しさを少しだけ垣間見せてもらいながら、生命の切実さと即物性を浮き彫りにしつつ、一方ではある種の倫理観のようなものが込められた文章のようにも感じました。
電気スタンドのスイッチをオフにするように、生命のスイッチをオフにしたくなるためらいのなさを自分自身で感じつつ、そのこと自体が周囲の「善良」さからは外れているとも感じつつ、そしてそれらを諦めてもいるような、そんな感じがしました。抵抗するにも、たしかに気力や体力やさまざまな力が必要ですよね。
「それらを忘れてためらいなく死へ向かおうとしてしまう衝動的で強烈な引力」について、私も、自分自身のこととして、身に覚えのある感覚だと感じました。私も引力に近い、引きずられるような感覚として認識しています。それは常にある程度はあるもので、生活の中で様々な刺激による感覚調整や、自己理解、学習、あるいは他者との交歓などの様々な要素の中である程度抵抗する力を持つ時もあれば、そうではないときもあるという感じかなと、いま私の中の感覚を探ってみて思いました。
タイトルにあるスイッチとは電気スタンドあるいは電気スタンドのように感慨なく電源を落としてしまえるような生命のスイッチですが、電気スタンドのような(しかし一度電源を落としたら、もう電源を入れることのできない)生命とはどういうものなのだろう、それは普通じゃないと言うことになるのか、それはどういうことなのか……と考えていました。
私は世の中で「人間」「人間らしさ」という言葉が使われる時とても情緒的なものでありつつ、理性的なものでもある(はずだ)と語られることが多いように感じ、そうなのかなぁと思うことがあります。もちろん、それも一つの側面ではあるというか、言語を介して感情や記憶を伝達し記述し、制度を作ってきたことの中で、情緒も理性的な側面は重視されてきたとは思います。
でも、そのほかにもさまざまな側面があると思います。
私たちの肉体はまず物理的なものだと私は感じています。それは他の動物や無機物、細胞やあらゆる物質と同じものだというような意味です。この肉体も地球の中で循環するものの一部ですし、私はたまたまその細胞やあるいは原子の集合でしかなく、私の意識というのも、なぜかその主導権をもっているような気がするときがあるだけ、のことのような気がします。(いろんな「気がする」ことの中の一つです)
ただ一方で、電気スタンドというとき、それはただの物質であるだけでなく、使役される道具であるということも示されているのだと思います。道具とは主体ではなく、利用されるものだと思うのですが、それはあなたが書いていた支配と被支配の構造とも関係が深いのかなと思いました。
あなたの家庭環境についての文章を読んでいると、(お姉さん猫さんを猫さんを除き)彼らの多くがあなたに何らかの役割を押し付け続けてきたことを感じて、憤りを感じます。もちろん、さまざまな事情はあったかもしれませんし、金銭的には問題がなさそうだったとしても、それぞれに本来必要なリソース(支援や関わりなど)がかなり不十分な中、不安定な状況の人たちが共に暮らしていたようにも感じました。
その中での暮らしから、その後もさまざまな悪意にさらされながら、「少なくとも自分が“愛されるに値しない子ども”だとか“傷つけられてもしかたがない存在”であったわけではないと、あのころの私にはっきり言ってやらなくてはいけないから、その必要のために書きます。」という認識に至るまでには、あなたのなかにどのような変遷があったのだろうか、と思いました。
あなたの「生きる」の試みは、引力が強いからこそ能動的に掴んできたものだとも言えるのかなと思います。
最後の一文にある「無力であることに気づいた私はそれゆえに逞しく自律できるような気がします。」という言葉には、そうかもしれないという感覚を持つと同時に、「自律」がそんなにも必要なのだろうかとも感じつつ……そう思うあなたの言葉の続きをもっと聞いてみたい気持ちになっています。投稿してくれてありがとうございました。