経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
死にたいままで生きております
うつ症状と不安症状の治療のために、もう5年くらい心療内科に通っている。治療しながら学校卒業して、治療しながらなんとか社会人を続けているが、一向に良くなる気配がない。なんか、もう疲れた。
普通に働いて、普通に生きているだけなのに、もう絶対にこれ以上生きてなんかいたくないなあと毎朝毎晩思います。
小さな幸せとやらはそのへんにたくさん落ちているらしく、わたしも結構普段から「小さな幸せ」とやらは発見できている。でも、見つけた幸せと同じ数だけ、お願いだから早く死なせてくれと思う。幸せが死にたさと絶望感の解消につながらないのは、本当につらい。
今日をなんとか乗り越えて、明日もきっと生きているだけでいっぱいいっぱいでしょう。将来のことなんて全然考えられないんだろう。
そうやって目の前のことに集中して、後先考える暇もなく終わっていく人生も悪くないと思う。だいたいの人間はそうだと思うし。
だけど、早く死にたいと思いながら生きていくのは本当に、本当に疲れる。もう無理。
あと何十年続くの?これ。がんばってみるけどさ、もう無理だよ。無理だけど、もう少しだけがんばるけど。疲れました。
感想1
「早く死にたいと思いながら生きていくのは本当に、本当に疲れる」という実感のこもった文章にとても共感しながら読みました。死にたい中でそれでもそれなりに生きようとすることは、疲れるという言葉に尽きる、と思う瞬間が私にもあります。人によっては、乗り越えるまでもなくいつのまにか明日がある感じなのかもしれないと思いますが、そうではない中で、働いたり、日々の生活を続けたりすることは、ひとつひとつがとても大変なことだと思います。本当にお疲れ様です。普通に働くということ、普通に生きるということは、とても普通ではないことのように私には思えます。そもそも普通とは……? と、いつもわからなくなります。
また、普通かどうかはさておき、あなたにとって楽な働き方、楽な生活ではないということなのだろうか……とも気になりました。
いまのあなたの生活は「小さな幸せ」では帳尻が合わないくらいのしんどさということなのかな、と気になっています。(もちろんそんな簡単な足し算引き算の話ではないとは思うのですが……。)
私もずっと精神科に通いながら、支援を受けながらぎりぎり生活していますが、この社会の中で一般的かではなく「自分にとっていい」方法を探すのは、かなり大変だと感じています。世の中には「こうあるべき」というメッセージが溢れていて、自分よりもそういう価値観に従ってしまいやすく、知らず知らずのうちに自分は蔑ろにされてしまうことが多いと私は思います。
あなたにとって一息つきやすい生活や、回復しやすい過ごし方はあるのかな、死にたいままで生きるとしても、「死にたい」や「疲れた」でいっぱいの時間がすこしでも減るといいなと思っています。ここにきてくれて、投稿してくれてありがとうございました。
感想2
「普通に働いて、普通に生きているだけなのに、もう絶対にこれ以上生きてなんかいたくないあと毎晩毎晩思います」という言葉が、すべてを物語っているように感じました。
生きることがこれほどまでに苦しく、日々を乗り越えることに全精力を費やしている状態では、未来なんてとても考えられないのも無理はないなと思います。だからこそ、「あと何十年続くの?」という問いが、まるで終わりの見えない道を歩かされているような絶望感が表れているように思いました。
「小さな幸せ」を見つけられることは、まだ感覚が麻痺していない証拠なのかもしれないなと感じつつ、それが死にたさを打ち消してくれるものに繋がらないのであれば、その幸せはどこか薄っぺらく感じられてしまっているのではないかなと想像していました。「良かったことがあったから、死にたい気持ちがなくなるはず」という理屈が通らないところが、あなたの抱える苦しさの一つになっているようにも思いました。
5年も治療を続けながら、社会に出て、働いて、それでも一向に良くなる気配がない中で、もう無理だと思いながらも、「がんばってみるけどさ」と書いているのが印象的で、まだ踏ん張ろうとする意思が感じられました。でも、その「がんばる」には、もう何の希望も期待もないのかもしれないなとも同時に感じています。ただ、生きてしまうから、生きるしかない…そんな絶望の中で続く毎日なのではないでしょうか。
社会の側から見れば、ちゃんと学校を卒業して、働いて、「普通」に生活できているのだから、問題はないと判断されることも少なくないですし、でも、その「普通」の枠組みの中に、死にたさを抱えたまま生きている人がどれほどいるのかを、社会はほとんど気にしていないようにも感じ、表面的に機能していれば、それで良しとされてしまうことに悔しさを抱いてしまいます。精神的な不調を抱えながらも社会に適応し続けている人たちの苦しさは、あまりにも見えにくいことから、「ちゃんと働けているなら大丈夫」「普通に暮らせているなら問題ない」という雑な判断の中で、限界を抱えた人たちは黙り込むしかなく、けれど本当はそんな風に「黙らざるを得ない」社会こそが、大きな問題なのではないかとあなたの文書を読んで考えさせられています。
もう無理だと思っても、それでも「もう少しだけがんばる」と言うしかない現状への疲れは、想像以上のものではないかと私は感じます。生きることを「がんばる」という言葉で表さなければならないこと自体が、どれだけの負担を背負っているのかを示しているように感じました。生きているだけで精一杯の状況では、「回復する」とか「良くなる」とかいう言葉すら、どこか現実味を失ってしまうのかもしれません。それでも、たとえ実感がなくても、治療を続け、日々をなんとかやり過ごしていることは、誰にでもできることではないとも思ってしまいます。(あなたの中にあるパワーというのか強さを感じました)
「がんばる」と言ってしまうけれど、本当はもうがんばらなくてもいいのかもしれません。ありきたりな言葉にはなってしまいますが、ただ、“生きている”、それだけで、本当は十分なのではないかと私は思いました。日々の生活の中でまた心が疲れ切ってしまった時や迷いが生じたときは、いつでも死にトリに思いを置きにきてほしいですし、あなたにとって少しでも休まる場として死にトリがあれたらなと勝手ながら思っています。投稿ありがとうございました。
感想1
「早く死にたいと思いながら生きていくのは本当に、本当に疲れる」という実感のこもった文章にとても共感しながら読みました。死にたい中でそれでもそれなりに生きようとすることは、疲れるという言葉に尽きる、と思う瞬間が私にもあります。人によっては、乗り越えるまでもなくいつのまにか明日がある感じなのかもしれないと思いますが、そうではない中で、働いたり、日々の生活を続けたりすることは、ひとつひとつがとても大変なことだと思います。本当にお疲れ様です。普通に働くということ、普通に生きるということは、とても普通ではないことのように私には思えます。そもそも普通とは……? と、いつもわからなくなります。
また、普通かどうかはさておき、あなたにとって楽な働き方、楽な生活ではないということなのだろうか……とも気になりました。
いまのあなたの生活は「小さな幸せ」では帳尻が合わないくらいのしんどさということなのかな、と気になっています。(もちろんそんな簡単な足し算引き算の話ではないとは思うのですが……。)
私もずっと精神科に通いながら、支援を受けながらぎりぎり生活していますが、この社会の中で一般的かではなく「自分にとっていい」方法を探すのは、かなり大変だと感じています。世の中には「こうあるべき」というメッセージが溢れていて、自分よりもそういう価値観に従ってしまいやすく、知らず知らずのうちに自分は蔑ろにされてしまうことが多いと私は思います。
あなたにとって一息つきやすい生活や、回復しやすい過ごし方はあるのかな、死にたいままで生きるとしても、「死にたい」や「疲れた」でいっぱいの時間がすこしでも減るといいなと思っています。ここにきてくれて、投稿してくれてありがとうございました。