経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

社会で生きていくことが辛いです。

ASDと鬱傾向もあり、過去の経験から人とのコミュニケーションがうまく取れず、人を信じきることもできず、愛されたい願望だけが残って、普通に生きられないのに生きたいと思う利己的な自分が嫌になります。

実母がシングルで産み、その後はネグレクトのため、祖母の年金、叔母のパート収入、途中でニートになった叔父と生活苦をなんとか耐えながら、高校から借金をしつつなんとか大学まで通いましたが、普通の家族で過ごせなかったコンプレックスや、実母には育てられず捨てられたという気持ちを持ってしまっています。
また、叔母は私や祖母、叔父がいるせいで結婚の良縁を一度断っており、幸せを奪ってしまった感覚が強いです。
その後叔母は妻子がいる方との間に子どもが生まれ、子どものことは可愛がっていますが結果としてシングルマザーになっています。
実母は10年以上音信不通の後、亡くなった状態で数年前に発見されました。もう産んでくれたことへの感謝も、恨みつらみを言うことも何もできません。

友人関係では、後々発覚したASDだったことも影響したのだと思いますが、空気が読めません。調子に乗る時に乗りすぎて他人の境界に踏み込みすぎてしまい傷つけたり、不快な思いをさせたりしてしまう時があります。
小学生の時、相手を傷つけたとまではいかなかったと思いますが、調子に乗りすぎていたのでしょう、「ナルシスト」と呼ばれ、仲の良かった友人からいじめられたことがあります。
その時から人を信じきれず試し行為ばかりしてしまいます。
仲を良くなろうとすると、裏切りや自分が踏み込み続けることへの歪な恐怖が相手との距離感を測り間違えたり、信じきったりすることが困難になりました。
自分でもびっくりするほど、人への興味関心が移ろい、興味がない人や嫌いになった人には急激にそっけない態度をとってしまいます。
人に好かれたいために無理に貢献しようとするときもありますが、結果的に八方美人になって疲れたり、疲れたりした結果比較的仲の良い人たちに雑なコミュニケーションをとってしまい、仲違いのきっかけをつくったりもしてしまいます。多分自分目線が強すぎるのだと思います。

努力や仕事の面でも、
受験勉強をサボった結果お世話になった恩師に申し訳のない結果に終わってしまいました。
新卒で入った会社では営業をなかなかうまくできず、人の気持ちを想像しきったり、業務の意味に納得しきれず迷惑ばかりかけました。
その後異動させてもらってからも仕事に飽きてしまったりして4年経って今はソーシャルセクターで勤めています。
しかしソーシャルセクターでも周りの人が良い人だなと思う一方、コミュニケーションを丁寧に求められる一方で、求められる水準に達せず、前述の友人関係のように調子に乗りすぎて空気を読めない発言をしてしまった結果同僚を傷つけてしまいました。
頑張ろうとしたときも適応障害になり今では周りの方に気を遣われてなんとか在籍させてもらっているような状況です。
仕事のスキルがついたのかどうかもわからず、ただ努力しても周りの求める水準や、憧れる人たちのように他人思いに振る舞えず人を傷つけてしまう自分が組織にいる資格はないなと思いますし、
今後のキャリアの見通しもなかなか立ちません。
人を傷つけてしまったのが直近で、人と関わる仕事を選ぶべきではないのだなと改めて強く感じます。
とはいえどんな道を選べるかどうかもわからず、今いる環境への感謝はあるのですぐさま辞める勇気も持てず、何もかも中途半端です。

もうすぐ29歳になるのにまともに生き続けられる気がしません。
記憶を失ってどこかで全部リセットしてやり直したり、人の記憶から消え去ったり、そもそも存在自体消えたりできたら楽なのになと毎日思います。

感想1

何かを選んでも、何かを手放しても、どちらを選んだとしても結局は「うまくいかなかった」と思えてしまうことがずっと続いてきたことによる、苦しさやどこか疲れ果ててしまった様子が伝わってきました。努力をしても空回りをして、人との関係性や関わりに苦しみ、環境に適応しようにも難しくて自分を責め続ける日々の中で、最後に書かれている「記憶を失ってどこかで全部リセットしてやり直したり、人の記憶から消え去ったり、そもそも存在自体消えたりできたら楽なのに」と思ってしまうのは、自然な感情のように私は思います。
普通に生きたいと思いながらもそれがなかなかうまくいかない現実との間で葛藤しているのだろうと想像しています。一体“普通”とは何なのか…生きていると何かにつけてよく出てくる言葉ですが、「誰に対しても当たり前のように強いられるもの」という感覚が私にはあって、そこには個々の価値観や考えは適用されずとても窮屈だなと思ってしまいます。普通を願うことは何も悪いことではないと思いますが(私自身も普通に憧れている節はあります)、それによって生きづらさを感じてしまうのは何だかしっくりこないというのか違和感を抱いてしまいます。あなたの中での普通がどういうものを指すのかは分かりませんが、もしかしたら「もっと楽に生きられる道を見つけたい」という思いが込められているのかもしれないなと私は思いました。(違っていたらすみません)普通に対する社会の在り方もそうですが、ASDの特性によって、人との距離感がつかめなかったり、空気が読めなかったりすることがあるのは、あなたの努力不足というわけではなく、「認知の仕方が違う」というだけで(それはASD以外の人にも言えることだと思います)、でも、社会はそういう違いに対してまだまだ不寛容で、個人に変わることを望むし個人の責任として扱うことも多いです。その結果、あなたは「努力しても、どうせまた失敗する」「自分はどこにも馴染めない」と思うようになってしまったのではないでしょうか。あなたの経験談を読んで改めて社会に根深く残る課題を突き付けられたような感覚になり、考え続けなきゃいけないことだと痛感させられました。
人間関係において「試し行為」をしてしまうというのが印象的で、過去の経験(小学生のときにいじめを受けたことや家庭の中で安心できる関係を築けなかったことなど)が大きく影響しているのだろうと感じます。そういう経験があると、「人を信じる」ということがどれだけ難しくなるか…私も育った環境が不安定だったので試し行為をしてきましたし、一連のあなたの振る舞いには勝手ながら共感を覚えています。試し行為をしてしまうのは、「本当にこの人は自分を受け入れてくれるのか」を確かめずにはいられないからだと私は思っていて、でも、それが結果的に相手との関係を壊してしまうことがあって…そうやって、「自分のせいでまた人間関係がダメになった」と思うたびに、「どうせ自分はダメな人間だ」と自己否定が強くなってしまうという負のループが続くのもまた苦しいところだなと思ったりします。ただ、「人を信じたい」という思いの裏返しでもあるのかなと感じていて、あなたはどうだろう?と気になりました。
これまでの経験を踏まえながらもあなたからは自力で生き延びる道を模索し続けてきたパワーを感じました。そして今も職場の人間関係や働くということに対してたくさんの思いを抱きながら、それでも自分はどうすればいいのかを考え続けていて、辛く苦しいながらも向き合い続けるというのは容易なことではないなと思います。絶対とは言い切れないですが、あなたに合った仕事(環境)や、あなただからこそ(特性に合った)活躍できる場はあるはずです。(そうであってほしいという願いも込めて…)
あなたが今、「生き続けられる気がしない」と感じているのは、あなたに問題があるのではなく、今の社会が、あなたのような人を生きやすくする仕組みを持っていないからで、自分を否定しすぎないでほしいと伝えたいです。どうしても苦しいときは、少し立ち止まってもいいですし、まとも(普通)に生きなきゃと焦る必要もないのではないでしょうか…。あなたがこの先少しでも、無理をして頑張らなくてもあなたらしく過ごせる環境や人との繋がりが見つかることを願っています。また何か役に立つようでしたら、いつでも死にトリにきてください。お待ちしています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

社会とあなたの立ち位置や距離感について、あなたがこれまでの人生を通して振り返っているような文章だったのが印象的でした。たくさんのしんどい経験を重ねながら、でも何とか社会と折り合いをつけながら生きてきたんだな…そんな風に考えながらしばらく色々と想像していました。生きたいと思うことは利己的というよりもとても自然な感覚だとも思います。
生まれてから幼少期、そして進学への過程は、家族や周囲の大人の事情で翻弄されてきたような逆境体験の連続だったのではないでしょうか。あなたは普通に生まれ育ちたかった子どもだったけれどそれを状況が許さなかったように私には思えました。本来ならあなたの感情や想いをぶつけたい母もいないということですから、例えば怒りややるせない気持ちはどこか解消されないまま抱えているのかなと思います。
友人関係のくだりは私にとって印象的でした。
友人との距離感を迷ったり境界を踏み越えることで何が起こったのか…あなたの言葉でとても整理されています。あなたはこういった振り返りを1人でしてきたのか、それとも誰か身近にそういった相手がいるのか気になります。
私も自分を振り返ってみました。過去に人間関係でうまくいかず感情をぶつけられたり、拗れたりする経験がありました。あれは何だったんだろう…と整理できない気持ちをずっと抱えていました。数年前に境界について学ぶ機会があって、「感情」や「責任」の境界が曖昧だったんだということに私は気付かされました。自分でやらなくていいところまで責任をとったり、相手の感情を先読みしたりしていたのです。(過去形で書きましたが、今も少し残っています)私の場合は感情を周囲に振りまく母の影響が大きいかもしれません…。
あなたが学校や職場の人間関係で悩んでいるのは、投稿文の中で触れていたASDなどの特性も関係しているのかもしれませんが、幼少期の経験も影響しるのかもしれないなって少し自分に重ね合わせて想像していました。
あなたは何とか組織や対人コミュニケーションに適応しようとして苦しさが増しているようなので、仕事以外に組織や社会に自分を当てはめずに語れる機会をもつことはあなたにとってよい影響があるかもしれません。人間は環境の生き物だなって私は思います。身を置く環境によってぜんぜんパフォーマンスも人柄も違って見えることがあります。もちろんその人自身は変わらないのに…。私の身近にもASD傾向があって、うまくいかないことを繰り返していたけれど、環境を変えて以前より安心して暮らしているひとが何人かいます。今回死にトリを見つけて投稿してくれたのも別な環境に身を置いてみるきっかけになるかなって思ったりしました。ぜひまた死にトリに立ち寄ってみてください。
投稿ありがとうございました。

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