経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私はとにかく人に嫌われまくります。学校、親戚、職場、どこでもそうです。
ASDを抱えているせいで(ホントは発達障害のせいにしたくありませんが)人の気持ちを読み取るのが苦手で、意図せず人を傷つけることが昔からありました。なぜその人が傷ついているのか、怒っているのかが分からないのです。
そのせいでチームの雰囲気をぶち壊し、場の空気を壊してしまいました。その結果、皆が自分に冷たくなりました。
これが顕著に現れたのは就職してからです。
チームとして働くことを求められる会社では、私のような人間はとても邪魔な存在でした。先輩、上司に怒られまくり、居場所がなくなって、すがる思いで職場の臨床心理士さんに相談して部署を変えてもらいました。
こうなったのも、自分が小さい頃から人とのコミュニケーションを避けてきたのも要因です。
昔からとにかく1人が好きだった私は、自分以外の人間との関わりをシャットアウトしてきました。家族、親戚、友達みんなです。
友達に「今は人も話す気分じゃないから話しかけないで」なんて言ってしまったのを今でも覚えています。恥ずかしいし申し訳ないです。
でも、こんなヤバい奴に優しくしてくれた人たちには本当に感謝しています。
そのツケが、社会人になって回ってきたのだと思い、今は人とのつながりやコミュニケーションを大事にしています。余計なことは言わないようにしたり、少し声のトーンをあげて話したり、自分なりに工夫するようになりました。
それでも、上手く行きません。
社会人ならではの、上の立場の人への催促、頼み事が苦手です。どれだけへりくだるように、声のトーンを上げて話しても、何かが気に触るのか嫌な顔をされたり怒られたりします。どこを改善すればいいのか分かりません。
また、人に申し送りをする時、どれだけ説明しても伝わらず「なんで伝わらないの?」と悶々とすることも多いです。
「とにかく怒られたくない」その気持ちが強すぎて、ミスの報告が遅れたり、大きなインシデントに繋がったこともありました。
その度に自己嫌悪です。自分のダメなところを一覧にして書いて自分を責め続け、楽な自殺方法は何か一晩中調べた日もありました。今でもミスした記憶が時折フラッシュバックします。
さらに、人と価値観や感覚がズレているせいか「変わってる」とよく言われます。自分は普通に生きているだけです。どこがどんな風に変わっていて、どう直せばいいのかも分かりません。いちいち人に突っ込まれるのも疲れました。普通の価値観、感覚を持った人になりたい。目立たずひっそりと過ごしたいのです。
ここまでネガティブに、卑屈になったのは家族の影響もあるかもしれません。妹がいますが、私とは正反対で空気を読むのが上手く褒め上手。いつもニコニコしていてみんなから愛されています。そんな妹が羨ましかった。母からもそんな妹と比較してか「もっとニコニコしなさい」「愛想がない」とよく言われてきました。
母と妹が、陰で自分の悪口を言っているのを聞いたこともあります。ショックでした。常に母からは悪いところばかり指摘されてきました。内面で褒められたことなんかありません。
今は、良い母親を装っているのか「変なところもあなたの個性よ」と言ってきますが、私は昔言われたことを忘れていません。
発達障害のことを話しても「みんな悩んでること」と、あまり理解を示してくれませんでした。でも悪い所だけではありません。大学まで何不自由なく通わせてくれましたし、食事もいつも3食手作りで作ってくれました。でも、本当に自分は愛されているのか不安になる時があります。
誰でもいいから、自分が必要だと言って欲しい。生きていて欲しいと言って欲しい。あなたがいてくれて良かったと言って欲しい。愛されたい。
やればやるほど周りにネガティブな影響ばかり与えている自分はこの世に必要なのでしょうか。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
私はASDで、自分の言動から感じ方まで一つひとつを、社会の普通と合わせるために、無理やりに矯正しようとした時期がある人です。だから読んでいて、当時のうまくやりたいという焦りや、努力してもうまくいかない恥ずかしさや絶望感が蘇り、勝手ながらあなたと自分を重ねています。
ただ、私は結論としては、ASDな自分に問題があるのではなく、この社会がASDに対して理不尽なまでに不親切な点こそ問題だと思っています。
読んでいてとても歯がゆく、自分についてももどかしく感じるのは、自分では普通のこと、意図していないことで、ネガティブな評価を受けたりトラブルが起こることです。
経験談にも「なぜその人が傷ついているのかわからない」「どこを改善したらいいかわからない」といった表現があったように、あなたは傷つけたくない、できることなら改善したい、という気持ちをもっています。
改善しようという動機、頑張るだけのエネルギーもあるのに、うまくいかないのなら、足りないのは、わかるように伝えてくれる人・機会だと私は思います。
その背景には、察しろの強いコミュニケーション文化があると私は考えているし、察することが前提となるコミュニケーションは実は誰にとっても息苦しいのでは?とも思っています。実際に私の周りは、ASDではないけど察しろが文化がキライな人たちがいて、その人たちはASDの人とあまりストレスなく関われるようですし、言葉にしてくれることでASD側の「改善したい」が実際に叶う例も見てきました。
と、ここまでASDのことだけを書いてきましたが、これはASDだけに当てはまる問題ではなく、多数派ー少数派にいつも起こりうる問題だと思っています。
多数派が自分を「普通」だと思い込み、周りもみんなその「普通」の感じ方をするはずだと無意識に押しつけ始める
↓
少数派にとって居心地が悪かったり、不親切な文化や風習が生まれる
↓
少数派がうまくパフォーマンスを発揮できず、自分を責める
で止まってしまうと、多数派の普通がどんどん暴走し、あらゆる点での(ASDに限らず)少数派が息苦しい世界になります。
だから、少数派にとって居心地が悪いよ、不親切だよ、というのを伝えて、どうすればみんなにとって過ごしやすい社会となるのかを考えていく必要があると私は思っています。(逆に、自分がもし多数派になったら、そういった声を押しつぶしたり拾い逃したりしないように気をつけないと、とも思っています)
つまり、みんなが過ごしやすい社会になるため、これ以上「普通」が暴走しないためには、あなたの声がとても大切なのです。
ASD云々関係なく、私は一人が好きだし、自分がおかしいと言われても周りの方が変だと思ってしまうし(例えば、飲み会とかは本当に何が楽しいかわからない…その他にも、自分が好きじゃないものを周りは好きでびっくりします)、察してのコミュニケーションがイヤです。
だから少数派の仲間たちには消えてほしくないと勝手ながらいつも思っています。
感想2
人間関係やコミュニケーションの難しさについて語られるとき、度々「自分らしく」「無理なく」などと結論付けられているのを耳にするのですが、私はそれを聞くたびに、「本当に自分が思うとおりに行動したら、きっと周りに人が居なくなるんだよなあ…」と思ったりします。私の場合、本心のままに何も考えず発言すると、おそらく人を傷つけたり、がっかりさせたりすることが多いですし、本心すら湧かず興味が持てない話題もたくさんあります。でもその心情がそのまま伝わると関係性に支障がありそう(実際に支障をきたしたこともある)と思い「相手が求めていそうなリアクション」を想像し、本心や素直さを犠牲にしたリアクションを返すことが通常運転ぎみです。
投稿者さんと全く同じ状況というわけではないですが、つまるところ「自分の好きなようにしていたら人間関係に支障が出る(だろう)」という点では、近からずも遠からずなジレンマを抱えているように感じながら、読ませていただきました。
「社会人になって小さい頃のツケがまわってきた」とありましたが、投稿者さんのように「1人が好き」だと感じたうえで「今はそういう気分じゃない」と伝えたことは、ある意味で自分の気持ちを正直に伝え、自分らしくあろうとした行動に思えました。一方で、社会はコミュニケーションの連鎖・蓄積で成り立っている部分が大きいとも思うので、自分が好きなタイミングで人と関わったり、一人で居たいときは無理をしない、ということを実践したくても、それがそのまま受け入れてもらえる環境は極端に少ない気がしています。仕事は自分だけでは完結しないものなので、尚更どこかでチューニングや工夫をしないといけないのかもしれませんが、その方法が「みんな一律で同じようになる・合わせる」だけではなくて、「それぞれのコミュニケーションスタイルが尊重される」という道があってほしい、と私は思います。同時に、1人が好きなままで、「変わっている」としても、人にとやかく言われずひっそりと過ごすことは、はたして両立しえないのだろうか…とも考えました。
「個性」や「変わっている」という表現や、「みんな」「○○はこういう人」のような言い方を聞くと、私は抵抗を感じてしまいます。「本当にそうなのか?」という気持ちと、「そうなのかもしれない」とどこかで容易く受け入れてしまう気持ちがせめぎあってしまいます。そして何より、自分自身も親から主語を大きく扱われたり、周りからラベリングされたりして、自分を見てもらえていないような、よく知らないまま断定されてしまったような、そんな悲しさを抱えてきたからだと思っています。
投稿者さんが今まさに日々感じているもどかしさや苦しさを(感じなくて済むならそのほうがいいとは思いつつも)、「投稿者さんの思い」として受け取りました、とそっと伝えたくなりました。よければまた、声を届けてほしいなと思います。
投稿ありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
私はASDで、自分の言動から感じ方まで一つひとつを、社会の普通と合わせるために、無理やりに矯正しようとした時期がある人です。だから読んでいて、当時のうまくやりたいという焦りや、努力してもうまくいかない恥ずかしさや絶望感が蘇り、勝手ながらあなたと自分を重ねています。
ただ、私は結論としては、ASDな自分に問題があるのではなく、この社会がASDに対して理不尽なまでに不親切な点こそ問題だと思っています。
読んでいてとても歯がゆく、自分についてももどかしく感じるのは、自分では普通のこと、意図していないことで、ネガティブな評価を受けたりトラブルが起こることです。
経験談にも「なぜその人が傷ついているのかわからない」「どこを改善したらいいかわからない」といった表現があったように、あなたは傷つけたくない、できることなら改善したい、という気持ちをもっています。
改善しようという動機、頑張るだけのエネルギーもあるのに、うまくいかないのなら、足りないのは、わかるように伝えてくれる人・機会だと私は思います。
その背景には、察しろの強いコミュニケーション文化があると私は考えているし、察することが前提となるコミュニケーションは実は誰にとっても息苦しいのでは?とも思っています。実際に私の周りは、ASDではないけど察しろが文化がキライな人たちがいて、その人たちはASDの人とあまりストレスなく関われるようですし、言葉にしてくれることでASD側の「改善したい」が実際に叶う例も見てきました。
と、ここまでASDのことだけを書いてきましたが、これはASDだけに当てはまる問題ではなく、多数派ー少数派にいつも起こりうる問題だと思っています。
多数派が自分を「普通」だと思い込み、周りもみんなその「普通」の感じ方をするはずだと無意識に押しつけ始める
↓
少数派にとって居心地が悪かったり、不親切な文化や風習が生まれる
↓
少数派がうまくパフォーマンスを発揮できず、自分を責める
で止まってしまうと、多数派の普通がどんどん暴走し、あらゆる点での(ASDに限らず)少数派が息苦しい世界になります。
だから、少数派にとって居心地が悪いよ、不親切だよ、というのを伝えて、どうすればみんなにとって過ごしやすい社会となるのかを考えていく必要があると私は思っています。(逆に、自分がもし多数派になったら、そういった声を押しつぶしたり拾い逃したりしないように気をつけないと、とも思っています)
つまり、みんなが過ごしやすい社会になるため、これ以上「普通」が暴走しないためには、あなたの声がとても大切なのです。
ASD云々関係なく、私は一人が好きだし、自分がおかしいと言われても周りの方が変だと思ってしまうし(例えば、飲み会とかは本当に何が楽しいかわからない…その他にも、自分が好きじゃないものを周りは好きでびっくりします)、察してのコミュニケーションがイヤです。
だから少数派の仲間たちには消えてほしくないと勝手ながらいつも思っています。