経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

考え方の癖ってありますよね

ごく普通の家庭で、特別裕福なわけでもないけど、不自由なく育ちました。
大学にも行かせてもらい、小さい頃からなりたかった職業にも就いています。
今も正規で働き、それなりに安定した生活を送っています。
仕事ができる人間とは言い難いけど、やりがいを感じる瞬間もあります。

だけどなぜか、最近ふと「死にたい」と感じることがあります。

仕事がうまくいかない→死にたい
何であんなこと言っちゃったんだろう→死にたい
家族とちょっと喧嘩した→死にたい
みたいな。

もちろんその気はありません。痛いのも苦しいのも嫌いなので。
だったら嫌なことがあっても切り替えていけばいいだけなのに、「死にたい」が積もっていきます。
特にここ一ヶ月、この思考に陥りやすく、それでなのか、仕事でトラブルが続いています。
ありがたいことに周りの人に恵まれていて、「気にしなくてもいいよ」「あなたが悪いわけじゃない」と声を掛けてもらいますが、それでも気持ちは落ちていくばかり。みんな気に掛けてくれるけど、本当は私のことよく思っていないのでは?なんてひどいことまで思ってしまいます。そんな自分も嫌です。

これを打っている今も、明日出勤するのが怖いです。また何か起きたらどうしよう。行きたくない。でもそんなことも言ってられない。いっそ消えちゃいたい。こんなこと誰にも言えないから、隠して日々過ごしています。

昔から、「頑張りや」なんて言われてきました。
最近は「1人で頑張ろうとしないで」と言われます。
頑張っているかなぁ?そんなに頑張ってないんだけど…なんて思っちゃいます。
自分ではそんなに頑張っているつもりはないのに、何故か周りからはそう見られます。
頑張るのも好きじゃないです。できれば何もしたくない。
けど、器用にこなせる方ではないからがむしゃらにやるしかないと思う部分もあります。で、空回りします。
じゃあ力を抜けばいいじゃんって言われると思いますが、そうすると今度は「何もしていない」って思われそうで怖いです。「頑張る」と「力を抜く」の境目が分かりません。

そう、人の目も怖いんですよね。優しい言葉を掛けられてもいまいち信用できない。本当にそう思ってる?私がいないところでは悪口言ってない?なんて疑ってしまいます。
で、「あー死にたいな」ってなるんですよね。

何を書きたいか分からなくなりました。つまりは「死にたい」って思うのをやめたい、という話です。

いろいろな経験をされている方がいる中で、私の悩みは小さいかもしれませんが、吐き出すところもなく、ここに書かせていただきました。書いているうちに少しスッキリしたので、気持ちの整理ができたのかもしれません。気持ちを文字にするって効果あるのかもしれないですね。

明日も「死にたい」って思うかもしれませんが、今できることをやってみます。

感想1

投稿ありがとうございます。
語りかけるようなタイトルになんだか惹かれて感想を書きにきました。

あなたの投稿を読んでいると、具体的な他者との関わりの記述はないものの「人の目が怖い」「信用できない」と語られていることが印象に残りました。「不自由なく」育ったと書いていますが、人間関係でなんらかの困難を感じてきたこともあるのかなと感じたのですが、どうでしょうか。もし思い当たる部分がある場合には、「死にたい」と思ってしまうそれは「考え方の癖」というよりも、あなたが自身の気持ちを安心して表現できない・受け止めてもらえない環境の中を、あるいはそのことによるダメージをやり過ごすための処世術とも言えるのではないかななどと想像した私がいます(違ったらすみません)。
(たとえば)「仕事がうまくいかない」→「死にたい」の間にはきっと様々な気持ちがあるのだろうと思います。その気持ちを感じるためには、誰かと安心してその気持ちを共有(表現)できる機会が必要なのかなと私は考えており、上記したように、もしあなたにそうした機会がなかったとしたら、その気持ちは埋没し、「死にたい」ですべてくくられてしまうのかもしれないと私は考えました。そう考えると、あなたの「死にたい」の「思考」は、ある種あなたにとって安心できる避難先や依存先のようなものとなっているのかもしれないというイメージも私には浮かんできます。しかし、その「死にたい」の「思考」がいつの間にか自分ではコントロールできず、どんどん「積もって」いってしまうものとなり、さらにはあなたはそれに振り回されているがために苦しいのかなと想像しました。
本来「死にたい」気持ちを含め、どのような気持ちもその人の気持ちであって、考えてはいけない(抱いてはいけない)気持ちなどないのだろうと私は思っています。しかし、この社会には「死にたい」と思ってはいけない、思うのはおかしい・甘えだ(不自由なく育ったならなおのこと)などといった風潮・規範があるように私は思うので、あなたはそこにも苦しんでいるのかなと感じました。ただ、あなたが書いてみて「気持ちの整理」ができたかもしれないとしていたので、ここに限らず、あなたにはぜひ自分の気持ちを書くなどの機会を作ってみてほしいと私は思いました。あなたがあなたの気持ちを否定せず(そしてされず)安全な環境で自由にあなたの気持ちを表現できるといいなと思います。それがあなたの「死にたい」の「思考」を解きほぐしていくひとつの術となるといいなと願い、感想とさせていただきます。

感想2

「死にたい」という言葉が醸す重さや意味合い、何より『自分が「死にたい」と思っている状態』に対して、投稿者さんが思う「自分」の環境や感情とのギャップや疑問を抱いているのかなと想像しながら、読ませていただきました(「どうして自分はこの状態において、死にたいと思うのだろう」というような…)。それは純粋な疑問のようでもあり、同時に「死にたい」と思うことに対する抵抗感があるようにも、私には感じられました。

全体を通して一番気になったことは、投稿者さんはどんな人なんだろう?ということでした。より厳密に言うとするならば、投稿者さんから見た「自分」はどんな人で、何を思って過ごしているのだろうか?ということです。経験談から全く感じられなかったわけではもちろんないのですが、それ以上に「周囲が自分(投稿者さん)に向けるまなざし」が先行しているように感じられたので、結果的に「投稿者さん自身の思い」をより知りたくなったのかもしれません。
冒頭の自分に関する説明や、「死にたい」と思うときの心情や状況を想像すると、結構な割合で第三者目線・相対的な評価を軸に自分を規定しているところがあるのかな?と想像しました。自分がどうかという以上に、他者からどう思われているのか?という観点で一番感情が揺れ動くのかなというイメージです。それは「自分がない」とか「本音がない」というより、(自分の考えは)「あるけど見ない」のか、「いまいち信用できない」のか、なのかな…などと推測しました。その仮説に沿って考えてみると、他者という何を考えているかわからない・しかし自分と切り分けるのが難しい存在に振り回される中で、疲れてしまったり、ネガティブな思考の矢印が全部自分に向かってきて、結果的に「死にたい」に繋がっていく…そんな感覚なのかなと考えました(的外れだったらすみません…)。
その思考の転がり方がタイトルにある考え方の癖なのかな、と思いました。他者と自分というところでいうと、コミュニケーションも、性格ではなく反応の癖だと、どこかで聞いたことがあります。

今回、経験談を書いていく中で少しすっきりした感覚になったとのことですが、そこで起きたのは「自分と対話する」みたいな状態でもあったのかなと勝手ながら想像しました。文章の所々に周りの評価を排した本音があるように感じましたし、何より「死にたい」は字義通りの気持ちだけでなく、「しんどい」や「苦しい」の表れ方の1つであるようにも感じたからです。今回のように自分の気持ちを、考えながら、書きながら、誰にともなく外に出していく過程が、何かしら効果をもたらすようであれば、また書きに来てほしいなと思います。
投稿ありがとうございました。

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