かの名著のように始めてみる。「不義理の限りを尽くした生涯を送ってきました」と。
両親に対して、祖父母に対して、お世話になった恩師に対して、職場の人々に対して……私は不義理の限りを尽くしてきた。無様にも言い訳させてもらうと、決して意図的にやっているわけではない。すべて後になって気づく。時間が経ってから激しく後悔している。
いつしか不義理と化す行為の数々は、そのときの自分の精一杯をもって、ときに拒み、ときに戦い、ときに挑み……そうして自分の心を守るためだった。いま思えばくだらない自尊心に過ぎないのだが、学ばない私は愚かな行為を繰り返し、自分の首を絞め続けている。そして愚かな行為と知りながら、きっとこれからも繰り返すのだろう。
その理由は何となく分かる。『普通じゃない』からだ。これは以前職場の先輩から言われたことを引用している。冗談めいた口調ではなく面談の場で深刻そうに言われた。前述の通り私は自尊心が有り余っているので、もちろん「普通ってなんだよ」だとか「他人に〈普通〉を説けるほどアンタはこの世の多くを知ってんのかよ」と毒吐いた。もちろん、心の中で。それと同時に色んな感情が湧いてきた。それは悲しみだったり納得だったりする。悲しかったのは、いままで職場の同僚から“コイツは普通じゃない”と思われていたのだと知ってしまったから。でなければ『普通じゃない』だなんて面と向かって言わないだろう。納得したのは、私の行いが不義理と化してしまう理由が分かった気がしたから。普通じゃないから可笑しな要因で心が傷つき、その心を守ろうとして可笑しな行為にはしるのだろう。その証左として、私の先輩への返答は『ああ、そうですか』だった。謝罪をして改善に前向きな姿勢を示すべきだったのに、可笑しな自尊心を守るために可笑しな返答をした。そのときの先輩の目つきは鮮明に憶えている。
地平線の見えない社会に根付いている常識というのが私にはよく分からない。知ったところで、その常識を守ることが私には難しい。それを当たり前のように受け入れ、実行している人々を心から尊敬している。皮肉ではない。
人生に行き詰まっているいま、これまで私が不義理を働いてきた人々のことが何故だか片時も頭を離れない。どうしてだか酷く申し訳ない気持ちになるのである。申し訳ない気持ちになりながら、謝る気分にはなれない。そういえば、『普通じゃない』と気付かせてくれたあの先輩の功績は大きい。感謝しなければと思いつつ、やはり礼を言う気分にはなれない。いまのところ激しく憎んでいる。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
不義理の限りを尽くして
感想2
理解と納得のはざまで激しく揺れ動いているようなイメージがわきました。キーワードの一つが「不義理」だろうと思いますが、私の中では経験談を読んだ率直な感想としては、あなたと不義理がまったく結びつきませんでした。むしろ、丁寧で思慮深い心の動きが伝わってきました。わかっているけれど、周囲から見たときに愚かと思われるような行動もあなた自身が明確に「自分を守るため」と表現している通り、理由のあることなのだろうと思いました。あなたがそこまでして、自分を守らなければならないのは、あなたがいわゆる「普通」のことがうまく理解できず、そのことによって自分のこともうまく理解できず、何よりも周囲からも理解されず、孤立していることを反映しているように感じました。周りに理解され、守られるような環境がないのなら、必死に自分を守るしかありません。だから、あなたが「申し訳ない気持ちになりながら、謝る気分になれない」と思うのは無理のないことだろうと思います。
私の周りにはいろいろな個性的な人たちがいて、それぞれの生きづらさや葛藤について話し合うことがあります。何名かの人たちから「頭で理解することと気持ちとして納得することは違う」と聞いたことがあります。また「周囲の人が当たり前にわかることが自分にはわからない。わかるためにこんなに毎日頑張って周囲に合わせているのに、その努力はわかってもらえずに、わかって当然だと思われる。不平等だ」という人もいます。あなたの経験談を読んで、そういったことを教えてくれた人たちのことを思い出しました。
確かにあなたに「普通じゃない」という一考察を伝えてくれた先輩はある意味功績はあるのかもしれませんが、「普通じゃない」という表現は具体的ではなく遠回しな否定の意味が込められている気がして(あくまでも私の感覚ですが)、親切ではないと私は思いました。だから、あなたの感謝できない気持ちや激しく憎む気持ちももっともだと思います。職場であれば、具体的に何が求められているのか、それに対してどのあたりに課題があり、改善するためにはどうしたらいいのか、教えてくれることが必要ではないかと思います。それ以上に、すでにできていることや努力しようとしていることについても伝えてほしいと私は思いました。
私なりにあなたの状況を想像して、周囲の理解がないことの理不尽さを過剰に思い浮かべてちょっとヒートアップしてしまいました。すみません。ただ、私としてはあなたは不義理ではないと思ったので、それは伝えたいです。私はあなたがこれまで育ってきた環境や経験してきた場において、マッチしないお世話をたくさんされてきたように思います。それはあなたにとって合わない世話や教えで押しつけだっただけではなく、そのことによって本来必要だったあなたに合った世話や教えを得る機会を逃したという意味にもなります。誰が悪いということはないのですが、少なくともあなたは悪くないと私は感じました。
今まであまり出会ったことはないかもしれませんが、あなたのことを理解して、あなたに合うお世話をしてくれたり、必要な学びをアシストしてくれる人と出会うことを願っています。あなたの分析力や感性があれば、そうした人に出会ったときにきっと気づくと思います。あなたが自然に感謝の気持ちを抱けたり、謝れる気持ちになったりできる相手なのだろうと思います。まだまだそうした人に出会うのは難しいのかもしれませんが、こうして心の内を表現してくれることで少しずつ増えていくかもしれないと私は思いました。
感想1
投稿ありがとうございます。タイトルにもある「不義理」という言葉のニュアンスを想像しながら読んでいて、それはあなたから見て「相手が感じている風景」を表す言葉の一つなのかなと思いました。
それと「普通じゃない」という言葉が接続するのは、以前の職場の先輩の言葉がきっかけなのかと思いますが、その場面に限らず、あなたからみてそれらがつながると感じることが多かったのかなと思います。
私自身も、この国に暮らす人間の中では性質や振る舞いが典型的ではない部分が多いタイプなので、自分でも周りからも「普通じゃない」という評価になることが多々あります。(私は発達障害の診断をされていて、それも私の「普通じゃない」というか「典型的じゃない」部分の一つですが、それ以外にも、典型的ではない要素は色々あるように思います。)
それから、「不義理をしてきた」と思うことも結構あります。それは、私の場合で言うと、社会通念として共有されていることが多い前提を私自身が果たせていないときに、そう感じることが多いです。ただ、「普通」「普通じゃない」も、「義理を果たす」「不義理である」もかなり幅のある表現なので、あなたの文章に出てくるそれらと私が私自身に対して感じることが、どれだけ近いのか、それとも距離のある認識なのかはわからないなぁとも思いました。
職場の先輩に言われた「普通じゃない」も、実際はもっと具体的にも言われたことがあったのかもしれないですが、少なくとも「普通じゃない」だけでは、だからどうということはわからないと感じました。あなたとしては、「普通」であれば「不義理」な状況になる必要はなかった、という思いが強いのでしょうか。
「常識」というのもコミュニティや文化によって異なるものですが、「常識」の受け入れやすさや、そもそもなにがその場の「常識」とされているかを察知しやすさ・しにくさも個々の性質によって異なると思いますが、そういう言語化されない情報が当たり前とされるコミュニティは私はかなり苦手だなぁと感じています。あなたの場合は、ずっと、非言語的になにかが共有されている(らしい)空間や関係性の中で、周囲とのずれを感じながら生きてきたのかなと思いました。それはあなたが悪いということではないし、そもそも「普通」かどうかということは比率の中でのマジョリティかどうかということでしかないと思うので、それがなにか問題ということでもないと私は思います。ただ、感じ方や認識の仕方が比較的少数派だとすると、それによって社会の中で前提とされていないことが多く、困ることがたくさんあったのではないかと思いました。(私は左利きですが、それによって「微妙に不便」だと感じることや、他の人と一緒のものを使えないことがそこそこ日常的にあります。これもマイノリティの不便さだと思っています。)
私自身は、「私はこうしたい」「私はこういうことが苦手だ」「こういうやり方だとやりやすい」ということを相互に共有しながら進められる場所の方が楽だと感じます。もしかしたらあなたも、「常識」を読み取ることを前提としないで、必要な情報交換をしながら関われるような場所であれば、もう少し困らずに生活がしやすかったりするのだろうか……とも思いました。