経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

理想の人生が歩めなくても

 理想の家庭に生まれたわけではありませんでした。
 幼いころから仕事が忙しくなると、父は母を怒鳴りました。食事中にも怒りを持ち込みました。お互いがお互いを気遣い、それはそれは静かな食事でした。
 それが普通だと思っていました。普通じゃないことを知ったのは、漫画の中の主人公の母親が「化け物」のように描かれていることを知ってからでした。白黒のページの中で怒鳴り散らす様は、まるで私の父のようでした。中学三年生のときでした。
 私は大人しい子供でした。きっと昔は純粋で、自分の興味のあることにだけ視線を向けているような子供だったのでしょう。
 しかし、転機が訪れます。小学校に入ってから、私はなぜかいじめられたのです。いじめっ子はおそらく学習障害のある子で、勉強のできない鬱憤を、勉強のできる弱い女子の私にぶつけていたのだと思います。当時はなぜ私なのかわからず、馬鹿にされるのをとにかく耐えていました。持ち物を奪われるなどの典型的いじめではありませんでしたが、体育の時間でペアがいなかったり、嫌な言葉を言われたり、そんなものだったと思います。
 衝撃的だったのは小学五年・六年の頃でした。担任は時代遅れの完食主義者で、運ばれてきた給食をクラス全員で食べきるまで一人も帰さないような人でした。私は苦手なものが多く、食も細かったので吐きながらどうにか食べていました。吐くたびにクラスメイトが机を遠ざけ、冷たい視線で私を見ました。一歩間違えたら摂食障害になっていたことでしょう。
 小学校から私は周りに合わせることを覚え始めました。いじめられっ子には話しかけ、班長を務め、テストは大体高得点。模範的優等生になることを努めました。そうしていればいじめられずに済むだろうと考えていたのです。体育だけは、ずっとできませんでした。
 これは家でも同じことです。父親に対する嫌いという感情を押し込め、笑顔で話す。明らかにギスギスな家庭でも、いつか元通りになると信じて、祖母や母親、妹、たまに来る叔母におもしろい話題を振りました。まるでピエロのよう。私の作ろうとしていたサーカスに、目を向けてくれていたのは一体誰だったのでしょう。そんな小さな余興で、長年の腐った問題が命を吹き返すことはないのに。
 この頃、私は「うち」と言っていました。なんだか「私」が自分には似合わない。当時の女児向けアニメの女の子のように、うちも強くなりたい。姉御肌でみんなと仲の良い彼女と同じ一人称を使えば、きっとうちもそうなれる。
 女子校の私立の中学に上がりました。いじめのメンバーがいる地元の中学は嫌だったので、頼み込んで親がどうにか認めてくれたのです。すると、なんということでしょう。クラスメイト全員が「私」を使っているじゃあありませんか。うちは「私」に矯正しました。なんだか違和感でもありましたが、数日のうちに慣れました。
 中学ではこっそりといじめられました。後ろの席の気の強い子たちに「この挿絵、腕細すぎだよねー」「ねー」と背中越しに笑われました。私が頑張って描いた修学旅行のしおりの挿絵でした。それから人に絵を見せることをやめました。
 中学のときはオタク女子グループと一緒にいたのですが、いつもBLの話ばかりで興味のなかった私は話についていけませんでした。それでも、みんなに合わせないと。一人になるのが嫌で、このグループよりも下に見られるのが嫌で、私は必死に頷いていました。
 中高一貫校だったのでそのまま進学し、そして腹痛に襲われました。思えば小学校のころから結構トイレに行くことがあったのですが、ひどくなったのはここからでしょう。過敏性腸症候群のガス型だと診断されたのは、大嫌いなダンス発表会の練習が始まり、取り柄だった勉強についていけなくなり、高校をやめてからでした。真っ暗な部屋で青白く光るタブレットの画面と、あの秋の冷えた部屋の空気を覚えています。
 転入した公立の高校で、私は一人でいることを選びました。以前の女子高は進学校だったのですが、今の高校は勉強も簡単だったのでそこで頑張ろうと決めました。休み時間のひとりぼっちの寂しさを単語帳で紛らわせました。英単語は覚えても無駄にはならないからと自分に言い聞かせました。でも、ゆるい分とても温かなところでした。先生方のサポートと塾に行って頑張ったおかげか、偏差値の10近く上の大学に合格しました。
 しかし、大学で変な男に出会います。おそらく彼も発達持ちでしょう、距離感がつかめなかったのか椅子に座る私にしゃがみこんで下から話をするような人がいました。ニヤニヤした視線。男性の、恋愛の期待の含まれた視線でした。気持ち悪くなり、大学のカウンセリングルームに相談したものの注意はしてくれませんでした。当時の私もだいぶ疲れていたので妄想(症状的な意味)でストーカーだと思い始め、大学に行くのが怖くなりました。行きのバスでも帰りのバスでも、イヤホンを耳に差して音楽を聴きながら不安と恐怖で涙が止まりませんでした。
 休学することになり、精神科の病棟に二回ほど入院もしました。休んである程度よくなっても、勉強についていけませんでした。教授が親身に教えてくれても、集中力はどこかに遠出してしまっていました。あれだけみんなから喜ばれた進学だったのに、二年足らずでやめてしまいました。
 それから、今は精神科デイケアに通っています。うつ病とASDグレーの診断で、無理なく通えるような範囲で日数を増やしているところです。スタッフの皆さんも優しく、一部の女性に関心のある利用者をのぞけば私に変な視線を向ける人もいないので、ゆるく過ごせています。休みの日には一部の家事をし、自立に向けて練習をしています。あのときの体調不良が嘘のように安定していて、正直びっくりしているくらいです。腹痛ももうありません。
 カウンセリングも始め、うつ病のもととなった過剰適応的な側面が父親から来ているものだと判明したときは、開いた口がふさがりませんでした。でも、どこか納得している自分がいました。やっぱりあれは異常だったんだなぁと、あの頃の怒鳴っていた父親に対して冷めた視線を向けています。今でも彼は怒鳴ることがあります。やはり仕事の忙しいときです。彼も診断こそ受けていないもののASDだと思われるので、出来事が思うように進まないストレスを他人にぶつけてしまうのでしょう。感情のコントロールもできず、無知で可哀想だなとも思います。そんな父とどうやって接すればいいのかよくわからないままですが、今はとにかく距離を取ることで対応しています。
「うち」「私」問題も「俺」「僕」が増えました。最適な一人称がよくわからないのでしょう。おそらく中性か無性であり、みんなに変に思われないような範囲でおしゃれをしている、そんな気がしています。いや、もしかしたら女性かもしれません。なんだかブレンドされているようにも思います。
 趣味の面で、今は小説の公募を頑張っています。きっと第一次選考で落ちるでしょうが、それでも一度応募してみたかったのです。ただ、ここにも生まれ持ったものと後天的なものが影響しています。発達障害の方は、過集中があるために作業をすると頭痛が出てしまい、それはタイマーを使っていても予防できず、安定した作業ができないという負の面があります。それと、うつ病ではありますが双極性障害疑いでもあるので、毎年冬に来ている躁状態がまた今年も来るのではないかと怖いです。そうすると一か月くらい何もできなくなってしまいます。予定が狂うのはASD的につらい要素の一つです。もう来ないでほしいですね、躁状態。呼んでないのに来ないでほしいです。でもアイツ来るんだろうな。
 普段の体調を侵食してもなお、趣味のことにまで手を伸ばす障害や病気のことがあまり好きではありません。でも、そんな私だからこそ書ける物語もあると信じています。小説投稿サイトの特集に数回載ったことが、それを示していると思います。小説家になれるとは思っていませんが、それはそれで障がい者雇用や作業所の道があります。大学を出て、会社に勤めて……みたいな理想の人生でなくとも、無理せずのんびりカタツムリのように生きるのもいいな、と思っています。
 なんだかんだいい感じにまとめちゃいましたが、結構生きるのはつらいです。発達の診断がされている人に比べたら軽いグレーなのですが、双極性障害は自殺率の高い病気だったりするし、この前の躁のあとのうつ状態は本当に電車に吸い込まれそうになりました。すれすれの綱渡りをしながら、いつになったら怒声の聞こえるこの家から出られるのだろう、とも思っています。

感想1

投稿を読ませてもらいました。文章から、あなたがこれまでの自分の人生や苦しさを振り返って、意味づけをしなおしながら今を生きている様子を感じました。私はASDの傾向は言われていなくてADHDと双極性障害(時によって病名は変化しますが…)の当事者なのですが、おそらく発達障害で不適応を起こし続けてきた父が怒鳴りまくる家庭の影響を受けて生きてきたこともあり、それから小説を書くことが好きなのもあって、勝手ながら、あなたの文章の中に、すこし近い感覚があるような気がしながら読んでいました。

ずっと、家庭も学校もあなたにとって安全に過ごせる環境ではなかったのだと思います。絵を描くことや好きなアニメが心の支えになっている面もあったのでしょうか。高校でも大学でも、学校では周囲に合わせなければとストレスを抱えながらもなんとか過ごしていたのだろうと感じました。その中で精神科につながったのかなと思うのですが、入院という「休む」時間は、あなたにとってそれまでにはあまりなかった経験なのではないかとも思いました。また、今精神科のデイケアに通っているということで「ゆるく過ごせて」いると書いてあって、なんだか勝手ながらほっとした気持ちになっています。
カウンセリングの中で、過去の体験を少しずつ整理している作業中なのかなぁと思うのですが、父親さんに対する認識もその中で変化したのだろうと思います。個人的なことですが、あなたが父親さんについて書いていることが、私自身の父への認識ととても重なっていて、なんだかびっくりしてしまいました。私はいま父親と別の場所で暮らしているので物理的な距離があるのですが、それでも関わりが生じるたびにどう対応していいものかわからなくなります。(自分語りしてしまってすみません……)

自分自身のことやこれまでの経験を理解し直しながら、自分の生活を自分なりに組み立てているさなかなのだと思います。そう状態について「呼んでないのに来ないでほしいです。でもアイツ来るんだろうな。」と書いているあなたの症状との付き合い方がとても印象に残りました。生活のたくさんの要素に影響し続けるものが好きではないというのも最もだと思いますが、その中で「無理せずのんびりカタツムリのように生きるのもいいな」という感覚も、あなたの感性から導き出されたものなのだろうなと思います。「いい感じ」にまとめられる部分も、そうはいってもしんどくて苦しい部分も、その両面があなたにあって、その両方を言葉によって教えてもらったような感じがします。
デイケアはこれまで過ごした場所の中では安全度の高い場所なのかな?と想像しているのですが、あなたにとってそういう場所や時間が他にも少しずつ増えていくことを願っています。(小説投稿サイトもそういう場所にもなりうるのでしょうか。それとも、それはまた別の感覚でしょうか。)
私自身も自分の波や疲労や苦痛を調整して、調整しそびれて……を繰り返しながら生活していますが、その中であなたと言葉をかわせたことをうれしく思います。死にトリに投稿してくれてありがとうございました。

感想2

読んで、自分の人生のスタートラインにやっと立てたというような、あなたの現在地をイメージしました。
内容がディープなものでありながらも、爽やかさのようなものを感じ取っている私がいます。

感想を本格的に書く前に、少し自己紹介をさせてもらいたいのですが、私は診断済みASD、精神疾患歴はうつ病からの双極性障害です。自分が女性であることにちょっともやっとしていて、ひっそり小説も書いたりしています(今のところ100%自己完結で、どこかに出したりはしていないですが)。
それらの要素があるからといって、あなたのことをわかるといえるかと言うと、私は攻撃されることとは無縁で生きてきましたし、わかる部分と、想像しても想像が至らない部分があるかとは思います。ただ、なんとなくの仲間意識のようなものは、勝手ながら抱いているところです。

あなたは安心を感じる時間がほとんどないまま、気を張って生き続けてきたのだろうなと想像しました。
そこまで気を張らないといけなかったことに思いを馳せるほどに、今の社会が個人に要請してくること・暗黙で奪われている自由の多さに愕然としてきます。
家がどれほど安心できない場所でも我慢するしかない、先生の言うことに対等に対抗する選択肢はない。従順な優等生でありなさい、しかし明るく親しみやすい人間でいるのが望ましい。何か誇れる個性をもちなさい、ただし、普通に盾突くなら排除する。コミュニティや人間関係によっては、そこまで全てを求められるわけではなくとも、「社会自体が毒親では?」と言いたい気持ちに私はなります。
大学で会った変な男についても、人との距離感を学ぶ機会が乏しい、むしろ一方的な好意を押しつけることを許す風潮のある社会が、そういった被害をもたらしたといえる部分もあると感じています。

ASDな自分と、調子の波・・・。それに振り回される人生について、もう仕方ないと諦めつつも、自分の人生は穏やかにはたどり着けないだろうと思うと、「苦労したけど幸せになりました」的に自分の人生をまとめれるわけない…!という気持ちに私はなります。その気持ちや感覚は、あなたとある程度近しい部分がありそうかな、と想像しています。

あなたが経験談で使っていた「理想の人生」は、「理想」という言葉よりも「こういう道であるはずだと自分が想定していた人生」と表現した方がしっくりくるかもしれない…?と私は感じました。(違ったらすみません)
人生というのはきっと、一個人が想定よりずっと複雑で、流動的で、混沌としたものであるように私は感じています。小説家、障がい者雇用、作業所、という3つを具体的にあなたは挙げていましたが、どれでもない道や、全部が混ざった道や、予想もしないような(しかし悪くはない)展開が訪れることもあるかもしれません。でもいずれにせよ、のんびりとカタツムリのように、というあなたの「理想」(と呼べると私は感じました)がなるべく叶ってほしいと願っています。
ひとまず、怒声の聞こえる家から出られてほしい・・・と心から願ってしまうし、「障がい」と名前のつく診断をもっていることを利用すれば、それはそんなに不可能ではないのかも?なんて、乏しい知識からですが思ったりもしています。(例えば、今は一人暮らしタイプのグループホームが増えているそうですし、手帳や自立支援医療受給で対象者になりますし、完全な一人暮らしと比べると初期費用がかからない分ハードルは低くなるかな、と)

経験談の投稿ありがとうございました。
またいつでも、あなたの感性や思考を語ってもらえたらと思っています。

お返事1

感想を書いて送ってくださり、ありがとうございます。
読みながら、泣いてしまいました。こんなにも温かい心を持つ人達がいらっしゃるのだとわかって、この世界も捨てたもんじゃないなと思いました。
医療の人達以外に自分の人生なんていうものを明かしたことがなかったので、どんな感想が帰ってくるか少し不安だったのですが、同じく小説を書くことを趣味にされている方からの回答で驚くと共に、嬉しかったです。私の今いるデイケアではあまり双極性障害の方を見かけない(ご本人が口に出していないだけかもしれませんが)ので、お二人と言葉を交わせたことが嬉しいです。

感想1の中の「入院という『休む』時間は、あなたにとってそれまでにはあまりなかった経験なのではないかとも思いました。」というところはまさにその通りで、入院当初は「休むってなんだろう……」となり、困惑するような状態になってしまっていました。それまで全速力で走ることが当たり前だったので、歩いたり止まったりすることがわからなかったのでしょうね。
そこからデイケアに繋がり、少しずつ私の無理しなくていい「理想」、つまりは感想2に書かれていた「『こういう道であるはずだと自分が想定していた人生』」を送れるように試行錯誤しながら生きているところです。まぁ……変な男は変わらず寄ってくるんですけど笑、適当にあしらうのもまた勉強だと思ってます。もちろんヤバいときはスタッフさんに相談してます。私は断るのがあんまり得意じゃないので、その練習になるかなと考えています。

この経験談を投稿してから、文ではなく絵でも描きたいと思い、複数の自画像を描きました。みんな一人称が違っていて、全員私であり、俺であり、僕です。
性別で悩んだ時期もあったのですが、それも含めて自分だと思えるようになったので、過去の悩みとケリをつけることができた?ような気がしています。モヤモヤしている抽象的なことが苦手なので、このように絵にしてわかりやすくしておけば、また悩んだときの助けになるかもしれません。

父親は相変わらずで、怒鳴っていたと思えば一時間後にはケロッとしていたりして、とても扱いが難しいです。今はとにかくこちらから接触しないことにして、あちらからの接触だけに対応するようにしています。母も同じようにしているようです。
感想1を書いてくださった方のように、また感想2で勧められているように、いつかは父親と離れて過ごせるようになりたいです。そうすれば、少しは楽になるでしょうか。

過去と他人は変えられないので、今、私ができることはなにか、それに目を向けるようにしています。
最近は他人の行動を100%で受け取らないようにしています。鈍感力を育てるというか。なかなか難しいのですが、これができるようになればかなり助けになってくれると思うので、意識して思考を変えているところです。

お忙しい中、感想を書いて下さりありがとうございました。とても嬉しかったです。

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