私自身、ADHDか何かの障害があるんじゃないかと疑っている。それ位には何をするにしても自信がない。
一番に伝えたいことをいの初めに言わないと、話がそれてわからなくなるから。
正直こうして書いてる最中も苦痛に感じる。文字に起こしたい事が次々と溢れて、浮かんでは他に気を取られ忘れて、順序立てるのが難しくまとまらなくなっていく。
そういう“普通にできることが出来ない概念”というか、普段暮らしていくのに苦痛を感じることは中学に上がるまでは感じなかった。楽しく遊んで、友達と喋って、親が誰かが面白いと笑うことを喜びとして、戯けながら生きてきた。
でも過ちもあった。友人との電話が楽しくて何日か夜にかけた、楽しくなり過ぎて人を叩いたことあった、周りの茶化しに乗じてしまい怒らせた、部活動の取り仕切りを頑張ったけど、冷やかしに来る部員に手をかける不適切な処分をした、気持ち高じたスキンシップで顔を触ろうとしたら友達に嫌がられた…
良かったという思い出より、自分が、人が嫌がった出来事のほうが良く憶えてる。
音や目からの情報につられやすい。上の空になりやすいけど褒められた絵だけはやり続けられたし、具合が悪くなるほど集中出来る、ただ何か発言したことで困惑させたり顰蹙買ったり怒られたりした。
それに飽きてきたりすると頭の中で音楽や映像が流れる。
どれも理性で制するのが大変というか。
もう駄目だと思うとその場に居るのが嫌になり、それでも好きな音楽や漫画見て気持ち誤魔化してきたけど、後先考えず衝動的にやめる…が殆ど
母からも茶化す様に「怒りん坊」と揶揄されて、それにもムカついたが今にして思えば感情の振り幅が極端というか…。
何事も中途半端。体がついて行かない。気持ちより先に体が参ってしまう。
小学の勉強で教えて欲しいと自分から父に言っておきながらも、わからなくて怒られて泣く。父の都合で何かしてくれる事はよくあっても、私から関わるのは父は嫌みたいだった。
アレになればコレになればと母の言う通りに、望む形になろうとして頑張ったつもりだった。なれなかった。成らなかった。私が思う以上に脆弱で、体が先に音を上げるから。
何か取り戻そうとして、リベンジ夜ふかしという行為を繰り返してしまう。やり直そう、生まれ変わろうと
それで具合悪くして、夜更かして、その繰り返し。
高校卒業で就職した職場も半年強でやめてしまい、その後いくつか思い切って初めての場所や分野、初めて会う人と接しても長続き出来なくて、職のない居たたまれなさで自分から関係を切ったり自然消滅するまで避けた。学生からいた友人も。
母から言われた友達を大切にしなさいは、どう大切にしたらいいのか解らなかった。
たぶん元々変に短気なところと、人の顔色気になりすぎて不安になって、衝動的にリセットしたくなったからだろうか。色んな人の陰口みたいな話とか聞いてく内に、不信になってく。
わかってくれない貰えないほど苦しいものはない。
相談できそうな者もいない。
唯一側にいる母親でも「一度やりだすとエンジンかかって夢中にあたしもよ…」と、よくあることと、常態とし自分語りする。
母とはどちらかと言えば、私がまともに話す様になったのは10年程か、話しかけても忙しそうに聞いてるのか聞いてないのかわからない。第一声が大きくて、家にいるのが嫌で飛び出して、近所の川に逃げた時に痛いくらい力強く引っ張られたのがトラウマで、避けるようになった。
将来もしもの時はと、母が介護をしてほしい様な事を言われ私は濁したが、勘弁してほしかった。肯定的に、好意的に振る舞わなければ家にいられなくなると思ったからで、大切にする想いがあったわけでなくて
居場所も無いのにいつでも出ていったら良いと考えてるのも、甘えではあろうけど…
良かろうが悪かろうが、もうどうでもいい
今震災により、仮の住まいで母と2人暮らしてる。皆が前向いて進んで行く中、相変わらず怖がって閉じこもってまだ進めぬまま。知っていた居場所が無くなって、塞ぐ毎日。
きっともっと取り戻しがつかないことが起こらないと、進めないんだろうなと飽きるほど平和な日々を過ごしてる。
乱文と長文、失礼しました
言葉足らずで読みづらかったら、御免なさい
感想1
投稿読みました。自分が頭で思っていることと、実際行動に表出してしまうことの差が大きく、特に人間関係では嫌な思いや苦悩が絶えなかったのではないかなと想像しています。「“普通にできることが出来ない概念”」という言葉が印象的で、これまで過ごしてきた中で他の人が「普通」にできることが自分にはうまくできない感覚や、それによって周囲から誤解されることも様々な場面であったとするとその辛さは計り知れないものだと私は感じます。
周囲との関わりの中で感じ取ってきたものを自分の中で咀嚼しながら、あなたなりに生き抜くために自己理解を深めてきたのかなと思いました。でもその時々の状況に合わせて自分を出したり、逆に抑制したりというコントロールの難しさもあって、その部分でうまくいかないことの積み重ねが、もしかしたらタイトルの「人間としては失敗作」という表現に繋がっているようにも感じました。失敗作(何をもって失敗というのか難しいですが)と思ってしまうのは、自分の問題だけではなく環境や他の要因(大体は社会に存在する「普通」や「当たり前」「こうあるべき」といった風潮)も大きいと私は思います。私も人との関わり方が分からないところがあり、学生の頃は苦悩することも多く、今も「本当はそうじゃないのに…」ということがあらゆる場面でよく起こっています。自分で自分をどうすることもできない感覚というのか、目に見えて分かるものではないからこその理解のされにくさは身をもって感じることで、あなたの「わかってくれない貰えないほど苦しいものはない。」という言葉に強く共感しています。また同時にあなたの文章を読んで、無意識に自分も関わる相手に対して自分の価値観で決めつけたり押し付けたりしていることもあるよな…と改めて自身を振り返り戒める機会になりました。
思い返されるエピソードとしてあなたにとって嫌な記憶のほうがより鮮明に残っているかもしれませんが、それはそれだけ人何倍も相手に対して気を配ってきたからこそではないでしょうか。自分を何とかコントロールしようと(無意識かもですが)無理がかかっている状態の中、人に気を遣ってということを続けていたら、エネルギーも消耗されるでしょうし、なかなか進む出すことができないというのも無理はないと思います。
お母さんとの関係性に葛藤やトラウマ、プレッシャーを感じる中で共に暮らしているということなので、そう容易なことではないとは思いますが、親子と言えどあなたとお母さんは別の人生を生きる一人の人間で、「勘弁してくれ」と感じているということは少なからず嫌な思いがあるのだと思いますし、将来的な介護等をあなたが背負う必要はないと伝えたくなりました。
あなたがこの先、少しでも安心安全にあなたらしく過ごせる人や環境に出会えることを勝手ながら願っています。こうして言葉にすることは苦しさが伴うかもしれませんが、死にトリは他にもコンテンツがあるので、あなたに合うものをこれからも活用してほしいです。良ければいつでも参加してください。経験談の投稿ありがとうございました。