経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

幸せに対する不安

私は喜びや幸せを感じるとその瞬間に踏み潰してしまう癖がある。
「幸せは長続きしない。」や「偶然上手く出来ただけ。」など自分の中のポジティブな感情を徹底的に否定する。
また、喜びが表情に出てしまうと強い罪悪感と恥ずかしさを感じる。
その考え方の原因が自分の中にある心の傷にあるんだろうなと漠然と考えているが。
傷そのものも傷がついたきっかけも直視することが出来ない。
辛かった出来事の断片的な記憶しかないためこれがきっかけだと言い切ることも出来ず自分の中で折り合いがつけられずにいる。

感想1

読ませていただきました。想像でしかないのですが、あなたの文章を読んで、あなたにとって幸せや喜びは一過性のもので、それどころか幸せを感じた後でもっと嫌なことがあるはずだという予感と、同時に、自分が幸せになってはいけないという規制のような感覚があるのかなと思いました。私は喜びや幸せを感じる心を持つことは人の当然の権利だと思いますが、幸せに対する不安はきっととても強い観念で、あなた自身が頭で別の考えを持とうとしても、かんたんに変えられるものではないのだろうとも感じました。
また傷ついた記憶、そのきっかけを「直視することができない」と書いてあったのが印象的でした。たしかに、それを見つめること自体が計り知れない苦痛であることも少なからずあると思いますし、無理に見る必要もないと思います。
ただ、だからこそ、あなたの中でずっと折り合いがつかず、それもまた苦しさにつながっているのかなとも思いました。
こうやって、あなたの困っていることや、思い、不安を言葉にすることも、あなたにとって負担になることでしょうか。それとも、これであれば、そんなに大変ではなかったり、役に立つ部分もあったりするでしょうか。
もし、死にトリに書き込むことが役に立つ面があれば、これからも気が向いた時に、経験談やとりコミュを活用してもらえたらと思います。

感想2

私にも何となく似たような感覚があるので個人的に共感して読ませて頂きました。

「何を持って幸せとするのか」がとても難しい中で、ハッキリと感じた「喜びや幸せ」を自分自身で踏み潰してしまう、いわば矛盾した行動や考えはあなたをとても戸惑わせるものであるだろうなと想像していました。

漠然と考えているとあるように、心の傷によって「幸せである自分を受け入れられない」や「肯定できない」と考えさせられるのかなと想像しつつ、もしかしたらそれ(幸せや喜び)を手に入れてしまうと、それを失ってしまうということを考えてしまう心理のようなものも働いているのかなとも思いました。(見当違いでしたらすみません。。。)

もしそういったものがあったとして、私はスポーツをやる機会が多く生きてきたので、運動の場面ではそういったことをよく感じてきたように思います。目指していたものがあって、何かしらの結果が実り「幸せや喜び」と言える状態を手に入れられたときに、今度はそれを失う怖さやプレッシャーからくる不安のようなものを感じる経験が私にはありました。(唐突な自分語りですみません。。。)

私自身は「幸せや喜び」を考えなくていい状況に自分がいることが私にとっての「幸せ・喜び」の状態であるのかなと思っています。

幸せや喜びを享受するのは難しい(少なくとも私は苦手としています)かもしれませんし、今はまだ罪悪感や恥ずかしさなどが勝ってしまうことも多いのかと思いますが、能動的に握力で掴むというより「気がついたら包まれていた」みたいにあなたが感じられるような存在にそれらがなっていってほしいなと私は思っています。

投稿ありがとうございました。

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