経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生きるということ

私には、性別がない。身体上の性別はあるのだが、心の性別は、女とも男ともつかない、言うなれば無性だ。ただのズボラだと言われてしまえばそれまでだが、私は女としての役目も、男としての役目も、果たすことができないと感じている。
私が性別の違和に気づくより先に、世の中の潮流は『多様性』に重きを置くようになり、最近ではLGBTQA+の人々の声も広くSNS上で散見されるようになった。とはいえ、すぐに私の周りの環境が変わるわけでもない。
性の多様性については大学でも学ぶ機会があった。あえて自分を当てはめてみるのならば、Xジェンダーのアセクシャルといったところだろうか。性別がないということとイコールになるのかは不明だが、無性ゆえに恋愛感情が湧かないのかもしれない。
私はそんな特質ゆえに、友人の話していることもどこか別次元の話のように聞いていた。
「だれそれと付き合った」であったり、「好きな人はいるか」であったり、その場では取り止めのない言葉でやり過ごしているものの、常に違和感は拭えなかった。
恋愛だけではない。普通に仕事をして、家庭があって、それが幸せだという人たちを、私は素敵だと思いながら、どこか雲の上の存在のように思っていた。
だがそれは、私とは縁遠いところにいるのではなく、私が彼らから離れすぎているのだと理解している。
「普通」になりきれない苦悩が、私の心を、身体を苦しめているのだ。
大多数が青と言う中で、1人赤を指すのはとても勇気のいることである。だが、私自身はこれは赤だ、赤で間違いないと確信しているがゆえに、異なる意見に合わせることがとても苦痛になる。
皆もしかしたら各々に考えることがあり、それでも大多数に妥協して青を指しているのかもしれない。しかし、厳密な青でなくても、なんとなく青っぽい、青紫、紺、そんな色であれば、受け入れられるのも比較的容易い方である。
しかし、赤はどうか。青とはその色彩もありようもまったく異なっている。全員が青ないし青に近い色を選択して生きている中で、己だけ赤であるという信念を持って流れに逆らい生き続けることの苦難は、想像に難くない。
私は常にそうであった。何かが他の人と決定的に異なっていた。だが、それでもなんとか友人を作り、家族に感謝し、今までやってきた。だがいよいよどうして、その私の長きに渡る「普通の人」としての仮面が、グラグラと外れかけているのを感じる。
誰も私を理解できないという孤独。それでいいのだという諦念。だがそれでは生きていけないという葛藤。鉛のついた腰を引き摺るようにして立ち上がってみても、人の目が恐ろしく、身体が言うことを聞かなくなって、あえなく布団に沈み込む。
底無し沼にズブズブと嵌っていくような息苦しさと閉塞感が、日に日に増しているのを感じている。
ここに私の現状を書いたのは、ただの気まぐれだった。私のような偉くもなんともない、日々惰眠を貪り自責に酔いしれる屑な人間も生きていていいのだと自分で自分を認めたかったのかもしれないし、あるいは、私のように言いしれぬ孤独感を感じている人に、私のような生産性のカケラもない人間もいるから安心してほしいと、自虐めいた励ましをしたかったのかもしれない。
いずれにせよ、私という痕跡を何らかの形で残しておかないと、もうこの孤独感に押しつぶされ耐えられないほどまで私の精神は耗弱していると言っていい。
かと言って、人生のパートナーを持てるほど魅力ある人間でもなければ、初めから持っているはずのものがない私のような人間では、相手を満足させられるはずもない。むしろ、人といるだけで動悸と息切れが止まらなくなるおまけ付きである。もはや救いようもない。
私はこれからどれだけ生きられるのか、死に目に幸せだった、悔いのない人生だったと言えるのか、正直未来は絶望的だが、こんな人間もなんとか生きているのだと、理解してもらえたら幸いである。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。

文章を読ませていただいて、「性別」というものを通じた社会の「普通」や「当たり前」が、あなたの価値観を大きく揺らしてきたことを感じました。確かに、最近は多様性を尊重しようというムーブメントの真っ只中ですが、すぐに身近な環境が変わることは難しいですよね。自らの意思で選ぶことができることの反面、長い間脈々と受け継がれてきた固定概念や価値観は、私たちの心の奥底に静かに流れているように感じます。選ぶ自由を手に入れても、なぜか堂々と胸を張ることができないのは、あらためて社会からもたらされた価値観の根強さ、多数派と少数派のパワーバランスに左右されやすい国民性など、いろんな問題をはらんでいると感じます。「普通」になりきれない苦悩が、あなたの心と身体を苦しめていると話してくれましたが、あなたの中には「普通」になりたいという思いもあるのでしょうか。

私は、あなたが自分が信じているものを信じたい気持ちと、社会の「普通」との間でずっと戦ってきているように感じました。しかも、自分が自分を否定される側と捉えながら戦っているので、疲労は相当だと思います。その戦いの中で、諦めや自責の念があなたの心身からパワーを奪い、自分そのものすら受け入れることも難しくなっているのかなと感じています。

最後の「死に目に幸せだった、悔いのない人生だったと言えるのか」という言葉は、苦しい状況にありながらもどこか希望を見出したい気持ちのように感じました。社会における「生きづらさ」について、あなたともっと話をしてみたい思いです。またここで気持ちを吐き出してもらえたらと思っています。

感想2

経験談、読ませていただきました。(このようなことを簡単に言っていいかは分かりませんが)すごく共感できる内容で、自分のつらさや違和感を代弁してもらったようにさえ感じました。

とくに「私という痕跡を何らかの形で残しておかないと、もうこの孤独感に押しつぶされ耐えられないほどまで私の精神は耗弱している」という言葉が印象的で、そのことがよく伝わる文章だと思いました。私は、この文章を読んだだけですが、あなたという存在が確かにこの世にいて、日々苦しみながらも自分自身をなんとか支えているのだ、というのをリアルに感じました。
同じような違和感を抱えている人にも、「普通」に馴染んで生きている人にも、この文章を読んでもらったら、何か伝わるものがあるんじゃないだろうか、伝えたい、と思ったと言ってもいいかもしれません。

世の中で今使われている『多様性』は、どこか表面的な言葉だと私は感じています。
それは「普通になれない」違和感を抱いている人の痛みを軽視して、「普通である」ことの(普通に当てはまらない人を無自覚に排除している人の)ある種の暴力性を許している気がするからです。うまく説明できなくて、申し訳ないですが…
ちなみに私は、性自認は中性で、既存の言葉に当てはめるならデミセクシュアル(深い信頼関係のある人にしか恋愛感情を抱かない)です。生物学的には女性で、身体に違和感はないし髪は長いですが、化粧はこれまで一度もしたことがないし、スカートやヒールなどの女性ジェンダーの服装はしません。もししないといけないとしたら、かなり苦痛だと思います。いわゆる恋バナも全く好きになれません。でも、恋愛とは(自分にとって)何か、を真剣に語ることは好きです。それは恋愛に興味をもてないのも含めて、その人の感性や大切なものが凝縮されて出てくる話題だと思っています。

あなたには、あなたなりの感性が大切なものとしてあって、それは「女」「男」としての役割を果たすとか以上の、何かを生み出すことができると私は思います。少なくとも私にとって、自分にとって大切なものをくれたのは、「女」「男」「普通」の枠にはまれずに「自分」で生きるしかない人との関わりでした。そしてこれからも、そういった人たちとの関わりの中で、自分が自分らしく生きられて、他の人も自分らしく生きられる社会をつくっていこうと足掻いていくのだと思います。
経験談の投稿、ありがとうございました。

感想3

経験談への投稿ありがとうございます。私はジェンダー論には明るくありませんが、誰かに理解してほしいと思う、普遍的だけどあなたにしか感じ得ない気持ちは自分にも近しいものがあるかもと思い、感想を書かせてもらいました。

色々な人が色々な発信をするようになって、今までより多様性を認められる時代になったと私も思います。思いつつも、簡単に理解できないものに頑張ってラベルを付けて、多様性から引き剥がしているように見えてしまうこともあります。もし私が投稿者さんから『私はXジェンダーのアセクシャルです』と言われたら、難しい言葉が出てきたと感じて、ちょっと身構えてしまうかもしれません。でも文章を読んでみると、投稿者さんは、自分や周りのことを俯瞰してたくさんのことを感じ取っている方なのだろうと感じました。『女としての役目も、男としての役目も、果たすことができない』なんて、私も共感する部分があるし、そう思う人はきっと他にもいるように思います。

私が思うに、自分のラベルの付け方(価値観)と隣り合う人間を好ましく思う性質があるんじゃないかなあと。なんだかこの人は自分と近いかもしれないと思って仲を深めて、そこで初めてラベルを貼った瓶の中身を見せ合っているような気がします。でも、あまりにも自分からかけ離れている(ように見える)と、理解するのも大変そうだし、なんか触らんとこ……と思ってしまって、見なかったことにされてしまう。きっとあなたの中身は素敵なのだろうと文章を読んで感じたし、そもそも誰が素敵で誰が素敵じゃないとか、そういう話でもないはずなんですが、できるだけ分かりやすく、かつ他の人と近いラベル付けをすることが是とされている感じがして、それが気に食わないなと私は思っています。だからこそ、多様性が流行っているのもなんか……そうだけど、そうじゃないな……と独りでぎりぎりしています。

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