経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生き方がわからない

私は、生き方がよくわかりません。無性に死にたくなるのは生き方がわからないからなんです。

 今はもう22歳になり、一人暮らしをしていますが、子どもの頃私は虐待をされていました。
 虐待という言葉にするのにも何年もかかりました。過去と向き合い続ける期間を経て、私はやっと「虐待をされていました」と言葉にできるようになりました。それくらい重い言葉です。重い傷です。
 父は病院には行っていないけど、幻覚や幻聴があって、自分が狙われているみたいな妄想が激しくて。たぶん精神疾患なんだと思います。そんな父の機嫌を損ねたら終わり。お前らあいつの味方なのかとか、本当に合理的にあり得ない理由で、急に罵られ水をかけられ、ものを飛ばされ、深夜に家を追い出されました。
 私はあの怒鳴り声も、痛みも忘れられないんです。本当に暗くて行く場所もなくて図書館の裏の公園に隠れました。人の気配がするたび補導されるんじゃないかと息を潜めて隠れていたあの頃は、夏は暑くて冬は寒くて、雨の日は傘すら持たせてもらえずずぶ濡れで、雷も怖くて雪の日は凍え死ぬかなとさえ思って。
 一生消えません。今でも夜道で誰かの足音がすると隠れなきゃと体が反応します。夜に季節とか天気を感じるとその時の記憶が蘇ります。私の中でなかったことにはできないんです。
 そんな父とのやりとりを見て見ぬふりしてきた母のことも、母もかわいそうだったと客観的な視点に立てば思えなくもないけれど、私は主観的な視点であるなんで助けてくれなかったの?という気持ちをなかったことにはできません。
 そんな中で小中は笑顔を作り問題のない優等生の私を作り上げて乗り切り、高校は病んで通信制に転校するもなんとか乗り切って、現役で大学に合格し、無事卒業し、大学院に入りました。

 大学院まで進んできた私の子どもの頃の話なんてもうどうしたらいいのかわからない。でも私の中では何解決していないし、なかったことにはできない。父も母も普通に連絡が来るけれどその度身体が震えて吐き気がします。心がざわざわして涙が出てきます。
 どこまでどう生きてきても過去がついてまわってくるこの世界でどんな風に生きたらいいのかがわからないんです。

 話が少し変わりますが、なんとか高校を卒業して入った大学の勉強はすごく楽しくてそのまま大学院に進んだんです。
 
 でも、病院実習みたいなのがある専攻で、私は精神科とか心療内科に行かなきゃいけない可能性があって。
 もうそれを知った日から死にたくて死にたくてたまらなくなっちゃって。

 確かに選んだ学問なんです。自分がやりたくて学んだ道なんです。でも、父のような人と会った時、私は実習生として、医療従事者の卵として立っていられるんだろうか。あの人との日々が重なって苦しくなって息ができなくならないだろうか。
 それに病院で、というか精神疾患の方とかが家族に伝えるのは「病気のせいであってこの方が悪いわけではないんでは」というスタンス。勉強していればわかる。本当にその通りだ。

 でも、私はそう思えない。父につけられた痛みを病気のせいだったからだとひとまとめにされたら私は壊れるから。父が私を傷つけたことが、私の傷が、病気のせいにすることで薄れるようや気がして気が狂いそうになる。病気があったって、私の痛みは何も変わらないのに。父を憎んで恨んで忌み嫌って、そういう負の感情でなんとか自分を支えて今生きてるから。
 だから、父ではない人に対してとはいえ、病気だから仕方がないんですというスタンスの「側」に立つことなんてとてもじゃないけどできない。

 あの人との過去を処理しきれない限り私は私がやりたいことをやることも許されないのかと。どこまであの人との関係に足を引っ張られるんだろうか。そんなふうに思う。
 なかったことにできるなら、全てなかったことにして生きていきたい。

 でも、なかったことにはできないから、生きるためには最悪で最低な向き合いたくもないものと顔を突き合わせて解決しないといけない。もし解決できないなら、自分が唯一父に歯向かってやりたいと思えたことを捨てないといけない。そんなのは嫌だ。そうなるくらいなら死んだほうがよっぽどまし。
 向き合うことも苦しいし、向き合うのを放棄するのも苦しいし、生きるために避けられない選択肢、どっちを通っても苦しい。死にたくもなる。死ぬことの方が楽なんじゃないかって思わずにはいられない。

 大人になってやっと初めて「生きたい」という気持ちが生まれたのに、どうやって生きたらいいのかがわからないんだ。
 過去に引っ張られ過去に引き摺り込まれて気がついたら生きたい、いたい場所から離れたところにいる。死にたいところに戻ってる。生きるための選択、沢山考えてみたのに、なんでだか生き方がわからない。こんなにも苦しくて辛いならいっそ死んでしまいたい。
 過去をなかったことにはできないこの世界でどう生きたらいいんだろう。私にはよくわかりません。

感想1

 経験談を投稿していただいて、ありがとうございます。読ませていただきました。
 過去と向き合い続ける期間を経て、ようやく言葉にできるようになったとしても、〝過去のこと〟として、整理ができたり、片付いたり、そのようなことは決してできないことと思います。子どもの頃の、〝あの時〟の、感覚が、音が、温度が、今でも鮮明に思い出せてしまうように、今も負の感情で自分を支えて生きているように、投稿者さんにとって、過去は過去ではなく、まだ続いている、現在にも影響を及ぼしていることですよね。。
 ようやく「楽しい」と思えることに出会えたこと、初めて「生きたい」と思えたこと、正の感情を持って生きられそうなのに、正の感情で自分のことを支えることができそうなのに、それはとても素敵なことであるはずなのに、正の感情を持つことを許されないような、過去と向き合い解決することを強制されるような、そんな感覚がとても伝わってきました。
 〝今〟を生きたいのに、生きられない。過去に戻りたいわけないのに、過去に引き摺り込まれてしまう…。どうしたら良いのか分からなくなりますよね。。本当に「生き方がわからない」、この言葉に全てが込められているように感じます。
 「自分の人生なんだから…」とか「過去は過去だから…」とか、言う人もいるけれど、簡単に割り切って自分の人生を、今を、生きることができたら、どれほど楽で幸せか…と思います。簡単には割り切れないからこそ、〝私は私〟、〝誰も私に干渉しないで〟と、「都合よく」解釈したり、振る舞ったりしても、良いのではないかな…と感じました。
 たくさんの苦しさと向き合ってきた投稿者さんのことを、投稿者さんには大切にしてほしい、時にはたくさん甘やかせてあげてほしい、と感じます。「楽しい」と思えること、勉強のこと、存分に楽しんでほしいと思います。そして、その中でまた伝えたい思い、吐き出してしまいたい感情が湧き出てきたときには、こちらに書き込みにきてくださいね。

感想2

 経験談の投稿、ありがとうございました。あなたが、一体どうやって過去と向き合えたのか、どんな過程で「虐待をされていました」と言葉にできるようになったのか…すごくお話を聞いてみたいと私は思いました。向き合い、言葉にできた事実から、あなたの持っている本来の「強さ」や「力」のようなものを私は感じました。(きっとこの経験談で文字に起こすときも、しんどさがあったのではないかなと私は想像しています…)
 当時のあなたのエピソードを読ませて頂いて、幼少期にあなたの味方となって助けてくれる大人が周囲にいなかったのではないかなと思いました。その事実が、傷をさらに重くさせたように私は感じます。そして(勝手ながら)悔しい気持ちにもなりました。
 「父も母も普通に連絡が来る」とのことでしたが…以前私が過去に親から受けた傷を、笑いながら「けんか」という容易な表現で済まされた経験を思い出しました。受けた側はずっと忘れられないのに、どうしてあなたは普通に生きているのか?私は無かったことにするつもりはないよ、と心の中で思い、私は親に「理不尽さ」や「怒り」を感じました。ですので、私とあなたの状況や思いの強さは違えど、あなたが繰り返し表現している「なかったことにはできない。」という気持ちはわかる気がします。
 あなたは今大学院に進み、楽しく学びたい勉強に打ち込めている時期なんだと思いました。しかし、そんな時期に「過去」があなたの前に現れて、しんどくなっているように私からは見えました。「病気のせいであってこの方が悪いわけではないんでは」というスタンスは頭では理解できるのですが…ただ私は病気を免罪符に人を傷つけることを正当化したくはないなと思ってしまいます。病気だから仕方ないよね、と割り切る方がむしろ難しい気がしています。一度紙をぐしゃぐしゃにすると、元のまっさらな状態には戻らないように、心の傷も一度受けたら、そう簡単には元に戻らないと私は思っています。
 実習生として立っていられるか不安に感じてらっしゃるかもしれませんが、私は逆に、自分の感情が揺さぶられる可能性がある場合をあなたは想定できている。あとは、どう対処していくかを考えるだけな気がしました。
 そして、あなたは心の傷の存在に気づき、その傷を癒していく段階に今立ったのかなと私は思いました。そこで、その癒し方が分からないように見えました。私は、それは一人で考える必要はないと思っていて、誰かと一緒にその癒し方を考えていって欲しいです。また色んな癒し方があると思います。死にトリが、何か癒し方のヒントとなるかもしれないので、もし良かったらまた参加していただきたいです。

お返事1

すべての感想を読ませていただきました。どの感想も、私の拙い文章から色々な想いを拾って、私のことを想像しながら書いて下さったことが伝わるもので、感謝の気持ちでいっぱいです。
 「虐待をされていた」といえるようになるまでは長い道のりだったと我ながら思います。ただその長い道のりの中で、信頼できる先生に会えたことは大きかったように思います。その人は私が葛藤している時間、ずっと隣を歩いてくれたんです。沢山泣いて、沢山弱さや脆さを晒して、それでも、見捨てず私の話を聞き続けてくれた人がいたから、過去に潰されそうな時もなんとか保ちながら過去と向き合い続けられたのだと思います。
 感想を読んで、あの頃とはまた少し違う段階にいられていて少しだけかもしれないけど進めているのかもしれないと感じました。傷つけられる段階、傷に気づく段階、次は傷を癒やす段階へと進んでいるのかなと。
 こうやって死にトリの中で言葉を発して、みなさんから反応をもらって、また人の助けを借りながら生きる方に向かって歩こうとしているのかなと思います。  1人では頑張れないからこそ、周りを頼りながら少しずつ自分を甘やかせるようになってきているような気もします。私は私、私を大切に、私を甘やかしながら、周りの人やこの死にトリという場や人を頼って、私が楽しいと思えることを楽しくできるようにこれからまた少しずつ歩いていけたらいいなと思います。
 改めて素敵な感想をありがとうございました。

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