私は世間一般の視点で言えば、ごくごく普通の生活を送ってきた人間だと思います。経験談を送られている他の方々からすれば、なぜここにいるのかと疑問を持たれてもおかしくないと思います。しかし、そんな『ありふれた人生』を送ってきたからこそ、その中であった辛い出来事は心の柔らかいところを抉り、傷となって残っています。
私は高校生の時に『不安症』を発症しました。きっかけは、仲良くしていた友人たち(そう思っていたのは私だけだったのかもしれません)が、急に話してくれなくなって無視されるようになったからでした。自分が何かしてしまったのだろうかと悩み続けましたが、口をきいてくれないため理由を確かめることもできませんでした。そうして元々の性格もあったのか、学校に通うことも儘ならなくなった私は、精神科で『不安症』と『うつの一歩手前』という診断を受けました。薬を飲みながら何とか学校には通い続けましたが、件の彼女たちとの仲を回復することなく、そのまま高校を卒業しました。不安症は未だに寛解と再燃を繰り返している状態で、薬を手放すことができません。
思えばこの時に負った傷が、人を信じられなくさせているのかもしれません。また同じことが起きるかもしれないと恐れ、心から人を信頼することができなくなっている。そう感じることが、たびたびあるのです。そういう時、相手への申し訳なさも相まって生きづらさを感じます。人と接すること自体に恐怖を感じることもあります。そんな私も、国家資格を得て今や社会人として働いています。しかし、コミュニティに入ったことで、更に人同士の繋がりが怖くなり、未だに仲がいいと言える職員はいません。
本当に、高校時代を除けば、平々凡々な人生を送っているなと思っています。しかし、だからこそ、たった一回の苦い経験が心に深い傷を残し、生きづらくなることもあるのだと知っていて欲しいと思います。
感想1
読ませていただきました。
(全員ではないかもしれませんが)各々がいろんなトラウマや傷つきを抱えて、その大きさだったり、あるいはその傷がどのくらい日常的に再現されてしまう内容かによって、生きづらさの程度に影響していく…私はそんなイメージを持っています。
そんなイメージの上で、経験談を読みながら、平凡ってなんだろう、ありふれた人生ってこの世にないのかもしれない…と考えていて、そこから、あなたが自分の人生をそのように銘打つのはなぜなのか、ということを考えてみました。勝手な想像にはなってしまうのですが、他の人の大変さや壮絶さを目にする中で、「自分は全然マシ」「こんなことできついなんて言えない、言うべきじゃない」(ちょっと言葉が強かったり、ニュアンスが異なってしまうと思うのですが…)というような感覚を重ねてこられたのかな?と思いました。逆に言えば、「自分にだって生きづらさはある」という主張をせずに、しないようにしてこられたのかなあと。
私から見ると、あなたが高校時代に味わった経験や感覚は、大いに人格形成に影響している(せざるを得ない時期の経験)だと思います。同時に、自分が何から影響を受けて、どんなふうに感性が形成されたかを自覚的に考えられるのは、すごく大切な力だと感じました。(こんなことを言われてもあなたの生きづらさが軽くなるわけではないと思うので、勝手なことを言ってしまっていたらすみません)
あなたが自分や、自分の人生、これまでの経験をどんなふうに捉えているのか、もう少し色々聞いてみたくなりました(きっと言語化できる方なのだろうと思うので)。またいつでも死にトリを覗いてみてくださいね。投稿ありがとうございました。