物心ついた時には、死にたい子どもでした。
実際に行動に移すことも、よくありました。
自分は両親に愛されていない、必要とされていない、生きている価値がないと強く感じていました。
大人になった今、客観的に思い直すと、愛されてはいたが、うまく噛み合っていなかったのだと理解できます。
よく怒られて、引きづられて外に出されていたことは、私は発達障害特有の混乱や理解不足が原因のひとつであると推測できます。
また、父がほとんど不在で、母がひとりで仕事と育児をしていました。
時間も金銭的にも気持ちにも、余裕が持ちにくかったことは想像できます。
そんな母は、私が高校生のころ、亡くなりました。自死でした。
今でも、私が代わりたいと思います。
母は、みんなから必要とされて、愛されていたから。
父はそれからまもなく、行方不明になりました。
私は、当時お付き合いをしていた方のところに身を寄せて暮らしました。
その頃が、生きてきたなかで唯一、死にたいと思わなかった期間です。
ですが、唐突にお別れをすることになりました。
理由はわかりません。
けれど、私が甘えすぎてしまったからだろうと、嫌になったのだろうと、考えています。
その際、精神的に不安定になり入院をし、退院後は叔母家族へ引き取られました。
けれど、家族として扱う一方、深いところでは家族ではない線引きのある叔母家族と暮らすことは難しく、つらかった。
家を出るために、障害者手帳を取得しました。
大学にいくことができなかった私が一般職につける確率を上げたかったためです。
その後、障害者雇用で働き、体調を崩し退職をすることを繰り返しています。
もう、疲れてしまいました。
ずっと海原を小舟で彷徨っている感覚です。
ひとりでなんでもできないと、生きていけない。
障害者への公共の支援も、病院も、とてもありがたいです。
でも、それは契約期間のある仕事としてのつながりで、帆の先に渡り鳥がたまにとまるようなものだと思うと、こわくて心を預けることができません。
このままずっと、広い海を漂いかのように、しっかりした人のふりをしてがんばり続けることが怖いです。
将来が、とても怖い。
怖くなると、想像します。
私の身体の臓器を全部、必要とされている方へ移植してもらって、余った部分も検体として利用してもらうことです。
それまでに、僅かな貯金を全部おろして、海外に旅行をして、思い残すこともなく、楽しいことだけ詰め込んだ臓器を渡す想像です。
私の最期にしたいことも叶って、望まれている方へ必要としているものを渡すことができることを想像すると、しあわせを感じます。
もうどこまでも漂わなくていい、もういのちを重荷に感じなくていい。
ニュースなどで、事故や事件で亡くなられる方の報を観ると申し訳なくなります。
不必要で価値がない、私自身が1番そう思う私が生きていることも、代われないことも、申し訳ない。
頭では、私が死ぬことでかなしむ人がいることは理解しています。
でも、心までおりてこない。
それがまた、申し訳ない。
これからどうすればいいのか、どこへ向かえば楽になれるのか、わかりません。
たすけてほしいです。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
文章の端々からあなたの丁寧で思慮深い人柄を思い浮かべていました。
そしてこれまでずっと自身のこころのおきどころを探してきた様子が文章全体から伝わってきました。母親さんから愛されていなかったという感覚を持ちながらも、一方で母親さんの立場からも事実を想像して、客観的に捉え方や理解を変えられたのはどういうきっかけや過程があったのか聞いてみたいと思いました。私も育ての親を自死で亡くしています。それから随分時間が経ったいまでも繰り返しずっと当時と同じようなことを考え続けていて、そのこころの部分だけは当時のまま止まっているような感覚です。あなたが母親さんのことをいまも考えている様子に自分も重ね合わせながら想像していました。
あなたのその後の出会いや生活は、安心が長く続くものではなかったけれど、後から振り返って相手を責めるのではなく、自身にその理由を探していることが印象的です。(そういうところから思慮深いと感じたことがいまわかりました)
福祉サービスなどの支援という物理的なつながりはあっても、それはこころのおきどころとは違うのだと思います。あなたの表現をお借りするなら、大海原で帆の先に恐る恐る止まるのではなく、安心して羽を休めてはまた飛び立つことができる、あなたはそんな存在やつながりを求めながら彷徨ってきたのかなと私は理解しました。そう考えるとあなたにとって必要な存在は、あなたが安心して人間関係を築きながら一緒に生きていく私的な関係なのかもしれないとも思いました。怖くなると浮かぶ想像も印象的でした。不安や怖さでいっぱいの自分ではなく、楽しい思い出で満たされた自分のからだが誰かの役に立つなら幸せだという意味を理解しようとした時に、あなたのいのちを自分自身のために使うことを見通せない事実がとてもリアルに伝わってきて、私は苦しい気持ちを感じながらしばらく“想像”について繰り返し考えていました。
私はこれまでのあなたの生き方に敬意を感じながら、これからのことが少しでも見通せるように一緒に考えてみたいと思いました。ここも小さな帆に止まる感覚なのかもしれません。でもなにかこれまでとはまた違ったつながりになればいいなと勝手に思いながら感想を書かせて頂きました。良かったら死にトリにこれからも参加して欲しいです。