経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私は実は、「つらい」「しんどい」と感じる瞬間があまりありません。それでも投稿しようと思ったのは、医師や心理士から「つらかったですね」「しんどいですよね」と言われることが多く、私の経験もここで募集されているものに当たるのだろうと考えたからです。読んだ方がどう感じるのかを知ることで、自分の気持ちに向き合いたいと思っています。
私は数年前にASDの診断を受け、一時期は障害者手帳も取得していました。最初の医師には「見た瞬間に分かったよ」と言われましたが、当時の私には何のことやら、という感覚でした。ただ振り返ると、こだわりの強さや、自分の中の規律・規則に極端に従うところなど、確かに人とは少し違う部分があると感じています。
そのルールには、生死に関するものもあります。私が大切にしている基準は二つです。一つは、自分自身が人生を楽しめていること。もう一つは、自分が楽しんでいることに、周囲も楽しさや意義、価値を見いだしていることです。
前者については、意外かもしれませんが、そう感じられる時間があります。多くは趣味の家庭菜園や創作活動をしているときで、ただただ楽しいのです。
ただ、これまで自分が育てたものや創作物は、周囲に受け入れられませんでした。自分が楽しめていることと、周囲がそこに価値を感じていること。私が大事にしている2つの基準が同時に満たされた経験はこれまでありません。
特に後者について、希死念慮が深まってから、「周囲から受けてきた恩恵よりも、自分が周囲に与える良い影響の方が大きくなければならない」と考えるようになりました。支えられることの多い時期もあるでしょう。それでも、そうした期間を含めた人生全体では、受けた恩恵よりも周囲に返したものが上回っていなければならない。それが、自分に課しているルールです。
この文章を書くまでに、私は二度、自殺未遂をしています。具体的な方法は書きません。自分が周囲に与える良い影響が、受ける恩恵を上回る可能性は限りなくゼロに近いと確信しています。その確信とルールが、行動につながりました。
そう考えるのは、恩恵を受けすぎているという感覚以上に、「自分が周囲に与えられる良い影響が何もない」という感覚が強いからです。
私は現在働けておらず、今後働こうという意欲も湧きません。集団で何かを成し遂げたり、自分の成果物が誰かに届いたりすることを考えると、その先にある共同体を意識します。すると、過去のいじめや、受け入れられなかった記憶(たとえば、家庭菜園で育てた野菜を親に持っていったら捨てられた経験)が重なり、強い拒絶反応が出てしまうのです。
周囲との価値観の違いもよく感じます。私は学術的な分析や知見をもとに物事を進めたいのですが、周囲は調和や感情、その場のノリを重視することが多いように感じます。そのため話が噛み合わず、「お前も楽しめよ」と言われたり、提案を軽く流されたと感じたりすることがよくありました。集団に馴染めず、社会の中で力を発揮して生きていく自分の姿を思い描けません。
一方で、受けてきた恩恵もいくつも思い浮かびます。実家に余裕があったため、金銭的な援助をかなり受けてきました。図書館や博物館などの公共機関も頻繁に利用していますし、公共交通機関が苦手で日常的に車を運転するので、道路などのインフラにも支えられています。今後社会に出るなら、合理的配慮も必要になるでしょう。ただ、そうした支えに見合う貢献を返せるとは思えないのです。
「価値とは、経済的なものだけなのか」と思われた方もいるかもしれません。実際、よくそう言われます。私も、価値を経済的なものに限定しているつもりはありません。身近な文化や学術、人とのつながりや社会の中の関係、そして親愛や友情、性愛など、愛と呼ばれるものも大事だと思っています。
では、さまざまな価値を認めているのに、なぜ自分にはそれを提供できないと考えるのか。私にとって、それらは例外なく、人と人とのつながりの中にあるものです。そして私は、人との関係を築くことがとても苦手です。三十年ほど生きてきた中で、自分が周囲に残せるものは少ないという確信を強めてきたのは、まさにこの点なのです。
家庭菜園や創作活動は今も続けていますが、希死念慮は強く、周囲に何を返せるのか、どれだけ負担をかけているのかという考えから離れられません。死について考えるときでさえ、周囲への影響や負担を考えています。
ただ、強調しておきたいことがあります。私は、この基準を他人に向けるつもりはありません。誰がどのように支えられ、何を周囲に与えてきたのか、他の人の人生をすべて知っているわけではない以上、自分の基準を振りかざして判断することはできないと思っています。
「それなら、自分に対しても同じことが言えるのではないか」と思われるかもしれません。私も、自分のことをすべて把握できているとは思っていません。だからこそ、医師や心理士などの専門家を頼っています。ここに投稿するのも、その延長線上にあります。
私の創造性は、他者との関わりによって成り立っている部分があります。自分だけでは出てこなかった考えに出会ったり、見ようともしなかったことが見えてきたりする。そうした刺激には、代えがたいものがあります。関係を築くのが苦手でも、私にとって他者はとても必要な存在です。医療、福祉、心理などの専門家と関わることで、視野が広がるのではないかと考えています。
希死念慮や発達障害について、「視野が狭い」「考え方が幼い、未熟だ」といった言葉を耳にすることがあります。そう言うのであれば、私が見落としているものを教えてほしい。私の考えを打ち砕いてほしい。私の論理に穴を開けてほしい。そんな思いで、今は他者を頼っています。
ただ、頼ること自体も、さらに恩恵を受けることだと考えてしまいます。それが周囲に良い影響を返すことにつながるとも思えず、いつまでも頼り続けてよいのだろうかと悩んでいます。
「自分は迷惑をかけているのではないか」「自分には価値がないのではないか」。そうした考えが自分を傷つける刃になる。そんな感覚に覚えのある方もいるのではないでしょうか。
勝手なお願いかもしれませんが、似たような考えを抱えながらそこから離れられた方や、今も抱えつつ距離を取れている方がいたら、どうしているのかを教えていただきたいです。皆さんがこの文章を読んでどう感じたのか、ご意見を拝読できればと思っています。
感想2
あなたの思考の過程が丁寧に率直に書かれていて、興味深く読ませてもらいました。読んでたくさんのことが頭の中を駆け巡っていったので、どれからどんなふうに感想を書いていいか迷いつつ、考えてみたことを書いてみたいと思います。
まずタイトルにあった「天秤」という感覚が、あなたの考え方に深く根付いていることを感じました。天秤というものは、何千年以上昔から使われてきたものだそうですが、基本構造としては左右の重さのつり合いをはかるものです。天秤がなぜ用いられたかといえば、交易や商業のために「交換」を評価する必要が生じたからだったのかなと思います。そして計測技術は長きにわたり「交換」を発展させてきたのだと思います。そこを振り返ってみたかったのは、私は計測の技術が、本来は個別であるものを、擬似的に規格に合わせて判断する技術のように考えているからです。つまり「重さが同じであれば価値は同じ」というような共通理解がある程度成立することで、私たちは社会を発展させてきたのかもしれません。現在、その当時からしたらより多くのものが計測可能であるように見える社会だと私は感じています。それはコンピュータやインターネットが発達する中でより加速してきたことかもしれません。たとえばSNSのlike数はカウントできても、その一つ一つが押された/押されなかった中で生じた気持ちや感覚、態度は本当は個別のものであるはずです。でも比較可能であるという感覚の中では、それらはなかったことにされてしまいやすいとも感じています。だれにも観測しきれないし、可視化されきることはない、だけどたしかに存在している多くのもののことを、より見逃しやすい世の中に私たちは生きているようにも思っています。
「周囲から受けてきた恩恵よりも、自分が周囲に与える良い影響の方が大きくなければならない」という信念は、あなたにとって感覚的に揺るがしにくい確信なのかなと想像する一方、やはり第三者の私としては奇妙に感じました。あなたが「周囲から受けてきた恩恵」は、可視化しきれるものではなく、あなたの体感に基づくものであるのかなと思います。一方で「自分が周囲に与える良い影響」というものは、周囲が決めることであって、あなたには判断しようのないことであるように思いました。また、時制で考えれば、私たちは最大限可能であっても、現在までのことしか評価することができません。だれしも自分の未来や周囲の未来を結論づけることはできないのですが、もしかしたらその未知の可能性に開かれていること自体が、あなたにとって負担の部分もあるのかなとも想像しました。最近、ユヴァル・ノア・ハラリ著・柴田裕之訳の『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』という本を読んでいたのですが、改めて私たちの行動がどんな意味を持つのかは、自分が死ぬ時にですらわからないことは多くあるように思います。たとえば狩猟採集民族のほうが農耕民族よりも仕事時間は短く済んでいたという研究があるそうですが、農耕を確立して行った人たちはそれで自分たちが楽になり生活は安定するだろうと思っていただろうと思いますし、ifの世界線がない中では、なにがどのように寄与するかは遡ってもだれにも判断しきれません。……それは恐ろしいことだとも思います。私たちはどんなふうに最善を尽くそうと努力したとしても、その結果がどうなるかに責任を持ち切ることができないからです。善か悪かの判断がつかない中で結論を留保したまま生きていくことは、ときにはしんどいことでもあるけれど、それが人生の醍醐味であるように感じる瞬間も私にはあります。
あなたの「集団」に対する拒絶反応については、これまでの経験を考えれば無理もないことのように思いました。育てた野菜を捨てられてしまったのは背景はわからないけれど、それはショックだなぁと思いました。(私は昨日も畑で取れたブロッコリーを隣人からもらって、喜んでさっそく料理していたところだったのもあり……。)
一方では、あなたにとっての「共同体」は人類という種の範囲のことなのかなとも思いました。私たちは人間中心主義の価値観を強く身につけて生きていますが、実際には周りには数多くのその他の生命や生命ではないものとともに生きています。あなたにとっては、植物と関わることは脅威を感じさせるものではないのだろうなと思いました。
最近の研究では、宇宙も複数あるとも言われているらしいのに、私たちはやはり手近に見えてわかりやすいものに範囲を区切って生きているのだと思います。それ自体が悪いとは思わないのですが、ただ、その範囲が普遍的なものではなく、ただそのように見えているというだけだということは、思考を展開する上で置き去りにしてはいけないポイントであるようにも思っています。
「自分が楽しんでいることに、周囲も楽しさや意義、価値を見いだしている」ことを求めるのは、案外難儀なことだなとも思いました。それもまたその「周囲」の範囲にもよるかもしれませんが、私たちの楽しみは多種多様で、基本的には他者を害する形の楽しみでなければどんなことを思っても好んでもいいとされるのが民主主義社会だと私は思っています。
私の身近な人は何十年変わらず好きなものがあり、ずっとそればかりを一人で調べ続けています。その人も十年以上前には「インターネットでつながり、海外にもアクセスできるようになれば、どこかに自分と同じものが好きでくわしい人がいるはずだ」と考えてさまざまなアーカイブやインターネット情報を調べてきたそうです。ただ実際にはそういう人を見つけることにまだ成功していません。それは似たような価値観の人が地球上に一人もいないことは証明しないけれど、すくなくとも溢れかえるほどにはいないことを表してはいそうです。 データも不十分ななか、それでも一人で趣味を追求しています。私はその人の趣味の話の内容はよくわからないけれど、そういうふうに好きなものを好きで居続ける人に励まされるし、本当はそういう個別で他者と共有されきらない趣味や楽しみはたくさんあっていいなと思います。
「私の論理に穴を開けてほしい」という感覚は私にもすごくわかる気がすると思いました。私も希死念慮や自殺未遂などの中で生きてきましたが、生きる上で自分にとって言語化して思考することは一つの核となるものだと感じます。ただそれには私だけの視点ではあまりに狭すぎるので、私を見ている他者からのフィードバックと、会ったこともない誰かの文章や映画や芸術がとても大切だという実感があります。一つ一つの外部刺激はときには一瞬で大きな変化を与えることもありますが、多くは自分自身にもわかりにくい小さな変化の積み重ねとなっていく気がしています。
たしかに「頼ること自体も、さらに恩恵を受けること」である一方で、社会における「頼る」ことの実績を増やす行為でもあると私は思っています。私はADHDなのもあって世の中から見て得意不得意のバランスが悪いため、いろいろ迷惑をかけて生きています。ただ私としては「だれもが迷惑をかけても大丈夫」な世の中になってほしいので、私みたいな人が存在していること自体が社会への祝福だと思っているところがあります。それはすべての人、すべての生命についてそう思います。その考えは私が生まれつき思っていたことではなくて、自殺未遂を繰り返しつつも、本を読んだり、そして色々な状況で生きている人と関わる中で、私なりに納得してきた実存への信頼みたいなものなのかもしれません。(希死念慮がゼロになったわけでもないですが。)存在することが、だれにとって/どこから見て/いつから見て/どのような結果をもたらすか、きっとだれにも判断し切ることはできません。でも存在すること自体が、宇宙の可能性をほんのすこしだけ広げていると私は感じています。これもまた、なにかで証明できるものというより、ある種の信念であり信仰なのかなと思っています。
あなたにとって私の感想に意味があったかはわからないですが、私にとってはあなたの文章を読むことでうまれた思考の中の領域やつながりがあるように感じました。それらは私のこれからの生活や日々の糧になり、また新たな思考や行動につながっていくのだと思っています。経験談を投稿することを選んでくれて、ありがとうございました。
感想1
読んでいて、私は「人の価値や貢献を、周囲から受けたものと自分が与えたものだけで測らなくてもいいのではないか」と感じました。また、誰かに頼ることは必ずしも迷惑をかけることではなく、支えたり支えられたりすることも、人とのつながりの一つなのではないかと思いました。人は一人だけで生きているわけではないからこそ、支える側と支えられる側をはっきり分けなくてもいいのではないかと感じます。
「自分が楽しめていること」と「周囲がそこに価値を感じていること」の両方を大切にしている、という部分も印象に残り、私は「価値」という言葉についてとても考えさせられました。楽しめるという気持ちだけではなく、誰かにとって価値があることまで自分の基準にすると、自分の存在そのものまで厳しく評価してしまうのではないかと感じました。
また、「自分が周囲に与える良い影響が、受けている恩恵を上回らなければならない」という考えについて、私は必ずしも一つの天秤で比べなくてもいいのではないかなと思いました。公共の施設や医療、福祉など、私たちは気づかないところでも社会に支えられているのではないかと私は感じます。それをすべて「返さなければならないもの」と考えてしまうと、生きているだけで負担を感じてしまうのではないかと思いました。
そして、「視野が狭い」「考え方が幼い、未熟だ」という言葉については、私はこの経験談を読んで、そのようには感じませんでした。私はあなた自身を知っているわけではないのでアドバイスなどはできませんが、もし考え方を広げられる部分があるとすれば、今まで知らなかったことを知ったり、いろいろな人の考えに触れたりしながら、少しずつ学んでいくこともできるのではないかと感じました。
私自身も以前は「誰にも迷惑をかけてはいけない」「何でも完璧にしなければいけない」と考えていました。そんな私が変わるきっかけになったのは、自分とは性格が正反対の年上の方との出会いでした。「こんなに自分らしく生きていていいんだ」と感じたことが、とても大きな救いになりました。だから私は、人がいつ、何をきっかけに変わるのかは分からないと思っています。働くことや成果を出すことだけで人の価値を測るのではなく、支えること、支えられること、人と関わること、自分らしく何かを楽しむことにも、それぞれ違った価値があるのではないかと思いました。
最後に、頼ることも誰かとのつながりや支え合いの一つであり、必ずしも「恩恵を受けること」だけではないのではないかと私は思います。