経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

頑張ったんだよと伝えたい

現在の私は、働いていない。働く予定もない。どうしたらいいか分からない。
現在の私は、実家に住んでいる。でも家族が苦手だ。二度と話したくないと思う時もある。その気持ちを抑え込んで、無理して話す時が多い。家を出られそうな方法を、実は知っている。だけど行動ができない。見えない引力で、この場に縛り付けられているみたいだ。

私はこどもの時から、見えない何かに苦しめられていた。「見えない」というのが厄介で、周りの人にはもちろん、自分でさえも何が事実なのかが分からなくなる。

たとえば私が今働いていないこと。
深く考えずに決めつけてしまえば、多分怠けているだけとか、親に甘えているという解釈になってしまう。自分の中に、そう決めつけて自分を責める声が存在している。働きたいのか、働きたくないのかで考えると、どちらかといえば「働きたい」寄りの気持ちだと思う。じゃあ働けば?と言われてしまうだろうか。少し待って欲しい。少しだけ、話を聞いて欲しい。

私は、私なりに頑張った気がしている。学生の時まで遡らせてほしい。
「学校に行きたくない」という気持ちがあった時。それでも行った。親や先生が私の将来について、とても不安そうにしていたからだ。
学校が終わってから、毎日のように習い事に行っていた。
自分の話をしたいのに、母の話を出すのは何となく嫌だけど、私の母は習い事がやりたかったのに家が貧乏でできなかったらしい。だから自分の娘には、習い事をやらせてあげるんだと言っていた。私は、やりたくないと何度も言った。もう疲れたと、休ませてくれと何度もサインを出した。だけど母を含めた周りの反応は「好きなことをやらせてもらえていていいね」「好きなことをやらせてあげているのになぜやめたいなんて言うの?」「お願いだから、続けてほしい」だった。
やめたいと言っているのに、私は好きなことをやらせてもらっているのだろうか。何だか違和感があった。でも周りが当たり前のようにそう言うから、私もそう思うしかなかった。
私は好きなことをやらせてもらっている。だからやめたいと言ってはダメだ。頑張らなければいけない。大丈夫、これをやり続ければきっと許してもらえるはずだ。楽に生きられるように、いつか、必ず、きっと。
だから頑張るしかない。
そう思いながら、小学校〜高校までは学校と習い事を両立し、高校卒業後は専門学校に行った。母は行かせたい大学があったみたいで、「この子は◯◯大に行くんです!」と私の進路の話になるたびに先生に言っていた。大学の講習や、オープンキャンパスにも行かされた。ただ、私にはもう大学に行けるような体力が残っていなかった。せめてもの罪滅ぼしのように、専門学校に行った。
専門学校も、数ヶ月で行きたくなくなった。しかし、また周りからの言葉に抗えなかった。「どうしてやめたいなんて言うの?」先生も親も、困った子を見る目で私を見てきた。
「これをやってみたらきっと続けたくなるよ」「周りの子の実力についていけないからやめたいんだね」あることないこと好き勝手に言われて、「やめたい」と言っていたのに私だけ他の子よりやることが増えていった。何で?
最終的に2年通いきって卒業したが、就職はしなかった。それは、私の小さな反抗だったのかもしれない。

この後も、私は頑張ったのだと思う。アルバイトをしていた時期もあったし、親に認められたくていろんな行動をした。
でも、本心ではずっと「もう動けないよ」と思っていたから、本当にずっと苦しかった。もう、許してくれと何度も思ったし、今だって思っている。

現在の自分に対して、「怠けている」「甘えている」と一番言ってしまっているのは、もしかしたら自分自身かもしれない。
でも、家族の反応を見ていると、理解してもらえているとは到底思えない。
こうなりたくて、こうなったわけじゃないんだ。
親のお金を使ってやろう、と思って親のお金で生きているわけではないし、実家に住んで困らせてやろうと思っているわけでもない。
だから、できればもう、自由に生きさせて欲しい。
これ以上振り回さないでほしい。
あれ?これって振り回される私がダメなのかな。
これだけ書いても、また分からなくなる。

感想1

タイトルの「頑張ったんだよと伝えたい」に対して、「その通り!あなたは頑張ってきました」と大きな声で応答したくなりました。そして、「自由に生きさせて欲しい」という願いがとても切実に、あなたの本音として強く私の心に届きました。この経験談を書くことはあなたが自由を手に入れるための第一歩のように感じ、心からその願いが叶うことを願ってやみません。
あなたは小さな時からいろいろな意味で頑張ってきたように見えました。一つは自分が希望したわけではない習い事を頑張って続けたことです。実際に何かを続けることは簡単ではないと思います。ましてや自分でやりたいことではないのならそれを続けるためにどれだけの努力や痛みが伴ったのだろうと思います。そして、次に「学校に行きたくない」「習い事に行きたくない」「もう疲れた」「休ませてほしい」など自分の気持ちを頑張って伝えました。子どもが自分の気持ちを伝えることは簡単なことではありません。あなたの場合、母の期待や思いを知っていて、そのうえで自分の意思や気持ちを繰り返し伝えることは容易ではないと思います。勇気や覚悟が必要だっただろうと思います。そして、ずっと周囲の期待や意向を頑張って受け取り、そして応えるべく頑張りました。日々の緊張やストレスはどれだけあっただろうと思います。自由にのびのびと過ごしてもよいはずの貴重な子ども時代において、それだけの頑張りをこなしてきたのですから、へとへとに疲れてしまっても仕方ないですし、働くことが難しくっても無理もないです。
私が経験談を読み進めるうち、思わず心の中で拍手を送ったところがありました。「最終的に2年通いきって卒業したが、就職はしなかった。それは、私の小さな反抗だったのかもしれない。」というところです。事実を見れば、本来やるべきことをやらなかったとか、努力をしなかったように思われるような行動かもしれませんが、実はあなたが自分でいるための抵抗であり、意思表明であると思うと、心からそれを支持し、応援したい気持ちになりました。まだ、自分でも迷うところがあり、こうして文章にしてくれたのだろうと思います。私は迷って当然だろうと思うし、必要な迷いを今しているように思いました。そして、一人ひとりの歩んできた道や気持ちはそれぞれなのに、表面的な能力や状態でジャッジしてしまう社会の画一的な見方にも疑問を持つ必要があると感じました。あなたの静かで確かな本音を聞けて心強く感じました。あなたはあなたであり、だからこそ迷い、こうして自分の思いを綴っている…そう思うので、もうそれだけで十分じゃないかと私は感じています。

感想2

投稿ありがとうございます。読みながら、自分を責める(肯定しきれない)気持ちや罪悪感のようなもの、そう思いたくないけれどそう思ってしまう、みたいな感覚が心の底にこびりついているような想像をしました。それはきっととても息苦しく、言葉以上に切実なものだと思います。
同時に(そのうえで)、あなたが「自分の話をする(したい)」と思ったときに「私は頑張ったんだ」という言葉や思いが先頭に立っていること、これまでに積み重なった違和感や抵抗がはっきりと表明されていることに、あなた自身の意思や力をものすごく感じています。周囲との折り合いや価値観に対して、一概に判断や評価を下せるものではないとわかりつつ、それでも「あなたは間違っていないと思う」と言いたくなった私がいます。

「無理をしてでも周囲の期待に応える」という行動基準が早い段階で出来上がり、そしてそれによって生み出される結果を周囲や社会などの第三者も「当たり前」のこととして認識し、ときには期待という形で強要する。子どもがその強い力を跳ね除けて自分の感覚を通すことは難しい(ほぼ不可能とさえ思える)ですが、そういった違いを折り合っていくなかで人は「自分がどうしたいのか」を見つけられるようになっていくのかなと思います。その機会や考える余白を「当然こうするべき」という声掛けたちが奪っていったのだとすれば、「~をしたい(それを仕事にしたい、というのも含めて)」と考えたり実行したりする力が残っていなくても無理はないと思います。

私自身、「頑張る」というのは何かをすること、成し遂げる事、耐える事、役目を果たすこと、のようにずっと思ってきました。だからそれが出来ていない自分は甘えていて、怠けているんだと自分を責めてきました。私の家庭はどちらかというと「本人に任せる」スタンスが強かったですが、当時は(今振り返っても)「放っておかれている」と感じていて、自分が何かを辞めたい・あるいはしたいと言った時には怒られるか呆れながら許可されるかの2択だったと記憶しています。「こうあるべき」という方向に持っていかれるわけではなかったので全く同じではないのですが、暗に要請される(ように感じ取る)か声掛けとして逃げ道をふさぐか、形は違えど近しいプレッシャーのさなかにいたのかな…と想像しています(全然違う!と感じさせてしまったらすみません)。大人になった今思うのは、「どうしてそうしたいの?」ともっと聞いてほしかったし、「私はこう思っているんだけどどう思う?」と親からも伝えてほしかったな…ということです。そうしたやりとりがない中で結果や状態だけを見た反応をされると、社会の価値観の強さも相まって「何かを途中で投げ出す自分が悪い」というメッセージだけが刷り込まれてしまうのだと思います。本当は「これをやらない」という選択や意思表示も、何かを続けることと等しく自分の意思で、そこに優劣は無いはずなのに…。

自分の外側に評価軸を置くのは苦しいし、本当はやめたいけれど、そこが自分の行動のスタート地点になっていると引きはがすのは簡単ではないよなあと感じます。「自分がどうありたいか」を見つけたり動いていくことはいきなりは難しくとも、まずは「これは嫌だ」と思うこと自体を、私や、あなたが、自分自身に対して許せるようになったらいいなと感じています。

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