経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
ガチ目に死のうとしたのに絵が死なせてくれない
遺書を書いた。
ちゃんと死のうとしたのだ。
今まで「死んではいけない!」「世の中には生きたい人だっている」なんて考え方が少しは私にもあったから、つらかった。
でも本気で死ぬと決めてからは気が楽になった。
「死んでいいんだ!?」
死ぬことそのものよりも、苦しみに耐えきれないから「消えたい」気持ちがデカかった。
私はずっと絵を描くことが好きだった。
だから最期だし、とノートに大きく絵を描いた。
「私の絵、下手な絵!」
なんか笑えた。
ヘタなのに妙に味がある絵で、これを動物だと理解できる人の方が少ないであろう。
それから、夢中になって20枚ぐらい絵を描いた。
楽しかった。
ヘタでも自分を表現して「私はここに生きていたよ」とノートの絵が叫んでいた気がして
イビツな形のシマウマが、少しだけカッコよく見えた。
いいな、私も自由に生きたいな。
ヘタな絵を見ていたら、上手くなってやろうって思えてきたんだ。
欲が出てきたとも言えるか
死にたくて、死にたくて仕方なかったはずなのに、やっぱり絵を描くのは好きだから、絵は止められない。
「せめて上手く描けてから死のうかな」
いまだに絵は私を生かし続けている。
感想1
死にたいの気持ちを分解して考えてみると、“死ぬ”というのは苦しみを感じない状態であり、人が「死にたい」と言うとき、本当は「苦しみをなくしたい」と叫んでいるのかもしれないと思いました。私もずっと希死念慮を抱えて生きてきて、「苦しみから逃れたい」「楽になりたい」と常に叫び続けているような気がします。ただ、自分の取りうる手段が死ぬ以外に思いつかないから仕方なく「死にたい」と呟いている、そんな感じです。もし「死にたい」=「もっと楽に生きたい」のなら、「苦しい」と叫んでいる人に「苦しむな」と言うことにはいっさい意味が無いではないかと思ったりしました。
人生において苦しみがデフォルトだとしたら、苦しみを少しでも紛れさせることでより長く生きられるかもしれない、というのは私がずっと考えていることです。あなたの場合、それが絵を描くという行為だったのかなと思いました。絵を描くことであなたの感じている苦しみが消えるというわけではもちろん無いだろうけれど、少なくともこれをやりたいから死ねないと思えるほど打ち込めるものなのでしょう。死の間際で絵を描くことが好きだったと思い出して、それを追求したい気持ちが出てきたのは、何だか運命的でも必然的でもあったような気がします。
私も落書き程度ですが絵を描きます。絵を描くとページに絵が残ります。当然のことだけれど、その時の私が紙に記されているような気がします。あなたの感じるとおり、生きたことの証拠のように思います。あなたの消費する紙(デジタルだったらメモリ)がこれからも増え続けてほしいと思いました。
感想1
死にたいの気持ちを分解して考えてみると、“死ぬ”というのは苦しみを感じない状態であり、人が「死にたい」と言うとき、本当は「苦しみをなくしたい」と叫んでいるのかもしれないと思いました。私もずっと希死念慮を抱えて生きてきて、「苦しみから逃れたい」「楽になりたい」と常に叫び続けているような気がします。ただ、自分の取りうる手段が死ぬ以外に思いつかないから仕方なく「死にたい」と呟いている、そんな感じです。もし「死にたい」=「もっと楽に生きたい」のなら、「苦しい」と叫んでいる人に「苦しむな」と言うことにはいっさい意味が無いではないかと思ったりしました。
人生において苦しみがデフォルトだとしたら、苦しみを少しでも紛れさせることでより長く生きられるかもしれない、というのは私がずっと考えていることです。あなたの場合、それが絵を描くという行為だったのかなと思いました。絵を描くことであなたの感じている苦しみが消えるというわけではもちろん無いだろうけれど、少なくともこれをやりたいから死ねないと思えるほど打ち込めるものなのでしょう。死の間際で絵を描くことが好きだったと思い出して、それを追求したい気持ちが出てきたのは、何だか運命的でも必然的でもあったような気がします。
私も落書き程度ですが絵を描きます。絵を描くとページに絵が残ります。当然のことだけれど、その時の私が紙に記されているような気がします。あなたの感じるとおり、生きたことの証拠のように思います。あなたの消費する紙(デジタルだったらメモリ)がこれからも増え続けてほしいと思いました。