17歳の男子(Xジェンダー)、普通の男子。高校3年生。大学受験生。
少し自分のこれまでを振り返ろうと思う。
学校に不信感を抱いたのはいつだろう。小2の頃だろうか。クラスメートが間違えて持っていった給食着を、当時の担任が、自分が給食着を持って帰ったと勘違いして責め立てた。どんなに弁明しても弁解しても分かってくれなかった。結局、自分の濡れ衣は晴れたけど、当時の担任は謝ってくれなかった。その時初めて学校に行きたくないと思った。
小3の頃、初めていじめられた。きっかけは未だに分からない。ある日気付いたら、クラスメート全員から無視された。陰口を言われた。先生に言っても「そうなんだ。あの子達も悪気はないと思うよ」と言われた。教師ってこんなもんなんだと思った。この時初めて、死にたいと思った。死ねば、感じていた苦しみも辛さも無くなると思ったからだ。ただ、その時は死にたいと「思っただけ」だったけど。その後も、学級崩壊したクラスにいたりもした。なぜか授業中に担任の筆箱が空中を飛んだりしていた異様な空間だった。いじめも断続的に続いた。
小学校を卒業して、中学に入った。いわゆる「中1ギャップ」になった。学校に関する何もかもが辛かった。この時、心の奥底にあった希死念慮の種が芽を出し始めた。
中3になった。学校生活の悩みやセクシャリティー(ゲイであること)の悩み、自分自身が嫌いだという悩みに加えて、一年間に渡って高校受験をしなければいけなかった。特に高校受験は辛かった。行きたい高校がなかったからだ。ひとまず志望校を公立の難関校にしたはいいものの、行きたくもない高校に対してモチベーションなんかが上がるまでもなく、夏休みの塾の受験合宿に行っても、秋を過ぎて模試のために勉強しても一向に合格ラインに行かない。冬休み初日(あれは多分クリスマスイブの夜だったと思う)、私立高校の受験まで一ヶ月を切った頃、これまで5年以上溜め込んでいた自分の中にあった「負の感情」がポップコーンのように弾け飛んだ。
「もう死んで全てを終わらせよう。これで死ねば、したくもない受験も、いま悩んでいる事柄すべてに対して何も悩まなくていいんだ。死ねなくても救急車で運ばれて入院すれば、嫌な勉強だってしなくていいんだろうな」と思った。幸いにも(いやそんなことはないな)、いつか死のうと思って大量に薬を買っていた。今日しかないと思った。大量の薬がコップに入った水と共に自分の体の中に入っていく。そんなことを考えると、とても滑稽で悲しくて恐怖だった。当然のことながら「あぁ…生きたいなぁ…。本当はこんな選択はしたくないなぁ…。死にたくないなぁ…死にたくないなぁ…。」というのが本心だったはずだ。(正直、自分の中の「パンドラの箱」を開けているような感じなので不確定な言い方になってしまう。)結果としては、ほとんど何もなかった。気持ち悪さと吐き気以外は特に何も無かった。幸いにも救急車のお世話になることもなかったし。次の日は塾の冬期講習があったけれど、とてもじゃないが授業を受けることなんか出来るはずもなく何日も塾を休んだ。「あの日」は何をしていたんだろう。自室のベットで「無」になっていた気がする。
「あぁ…死ねなかった…。死ねなかったのならば、自分はこれから先どうやってこの辛さと向き合っていかなければいけないのだろう。」と思っていたはずだ。多分、この出来事のことに関しては「蓋をしたい」んだと思う。だから、だいぶ記憶が薄らいで上手く思い出すことが出来ないのだと思う。なぜか勝手に「生き残った者に課された使命」みたいなものを考えていた気がする。
高校入学から一斉休校で散々な日々だったが、現在、高校3年生。絶賛大学受験勉強中。幸いにも親にカミングアウトをして認めてもらった。
カウンセラーになりたい。そのために心理学を学びたい。中学の時とは違って少し受験へのモチベーションはあるけれど、辛い。私大志望なのに、(所謂MARCHレベル)何もできなくて辛い。太宰治や芥川龍之介の作品が好きなのに、論理的文章が嫌い。大河ドラマは好きなのに、全然日本史を理解できない。この二年間、渋谷にある某公共放送のディレクターさんと、とある福祉番組(十代の自殺に関わる番組)を通して知り合った。その方は「私学の雄」と呼ばれている大学出身だそう。凄く優しくて何でも話せる。親以上に。文章も綺麗で、やっと「友達」と呼ぶことのできる人ができて嬉しい。今まで友達らしい友達はいなかった。一回りくらい年の差があるけれど、話が合う。価値観が自然と合った。「これから先もお友達としていてくれたら嬉しいです。」そう言ってくれた時は涙がでるくらい嬉しかった。
でも、このまま大学生になっても何も変わらない、もしかしたら大学受験に失敗するかもしれない。そう考えたら、毎日行っている予備校への足取りが自然と重くなった。頭、脳と体が毎日切り離されていく。
勉強しなきゃ。予習もしなくちゃ。本当はこんなことを書いている暇はないのに。嫌だ。嫌だ。
小説家になりたい。カウンセラーにもなりたい。自分を表現したい。作詞もしたい。歌手にもできたらなりたい。けど、何もない。そりゃあ、生きれるんなら上手く生きたいさ。けど、そうできないから死にたい。もしかしたらこれからも一人?自分で自分が嫌になる。
消えられるならそうしたい。砂漠の砂みたいに。
全ての事柄から自由になれたら。解放されたら。どんなに楽しいだろう。
嫌だ。嫌だ。このまま何もこのクソみたいな世の中に何も残さずにいなくなるなんて絶対に嫌だ。
感想1
学校の中で大人に対する不信感、いじめ、セクシャリティの悩み、受験などさまざまな気持ちを他の人と一緒に抱えることが難しいと苦しくなりそうだと思いました。読んでいて、学校にいる大人に余裕がない状況で、子どもたちの様子をしっかりみていることすらむずかしいのかもしれないと想像しました。それは人個人の問題というよりも構造的な問題なのかもしれないなと思っています。
また、友達と呼べる人がいることが投稿者さんにとって支えになっているのだろうと思います。その説明の文章で、「文章も綺麗で」と書いているのが印象的でした。投稿者さんにとって自分や人がどんな文章をどんなふうに書くのかはとても大切なポイントなのだろうなと想像しています。(私も文章を読むのも書くのも好きなので共感しました)
投稿者さんには取り組みたい職業があり、そのために努力したいと感じているのだと思います。でもそのための受験が簡単なことではなく、フラストレーションを感じることも多いのかなと感じました。
最後の部分で、理想のイメージの中の自分と現状の自分にギャップを感じるけれど、そのギャップを埋める手立てがあまり思いつかずに「解放されたい」と思っているのかなと想像しました。
投稿者さんには「何かを残したい」という気持ちが強くあるようで、それが印象に残りました。また、それはどういう意味合いを持つものなのか気になりました。個人的には、たとえば自分の死後100年のあいだ私に関係する何かが残ったとしても、いずれ地球もなくなるだろうしな…などと考えてしまうので、あまり残したいというイメージがなくて、投稿者さんの中で「残す」ことはどういうことなのか気になっています。何度か読んでいて、この「残したい」という感覚とタイトルにもあるような「自分はなんなのか」という感覚は繋がっているのかもしれない、となんとなく感じました。