経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

いずれそうなる

生活保護を受けている。

元々会社で働きたくないという協調性のなさには自覚があった。上司が嫌いで、転職した職場も必ずどこかに問題があり、飲み込んでもだんだん仕事の成果・満足を感じなくなり、仕事ができなくなり、うつ症状が出て、生活費がなく、借金をして、水際作戦で帰らされたら「そうしよう」と決めて、しかし許可が下り、いまにいたる。保護の許可が出た時点でお察しだが、親族・知人に頼れる者はない。友人もいない。好きだったものも、いまは楽しくない。

医師からはASDという診断になっている。私がこのまま社会で生きる時、得られる居場所は「障害者用の場所」である。人間として扱われたいなら、通常雇用の人間と同じに扱われたいなら、同じだけの仕事をしろよ。多様性と言いながら隠れた差別のある世界で、生きていく。私はそれを楽しみにできない。考えるより動け、みんなつらいなか頑張っている、できた人・耐え忍んだ人の言葉が私にしみる。

「優れたアイデアは、複数の問題を解決する」
ある人の言葉だったと思う。細かいところはちがうと思うけど。それって、自殺じゃないか。疲れた私にはそう映る。たとえば、障害者雇用の低賃金で保護から抜けたとします。しかし、貯金ができてもたかが知れている。老人まで生きたなら、私は結局生活保護にもどってくる。そんな人生が有力候補って、楽しいですか?実際に生きなきゃわからないよ、言うのは簡単です。あなたは生きられそうですか?自殺がいずれたどりつく場所だと信じられてしまう。否定することはできますか?

感想1

現在に至るまでを立ち返って、静かに訥々と、絶望的な気持ちを語っている文章が印象的でした。
働きたくないという本心を抑えながらも会社に勤めている間はストレスフルで、そのためにどんどん心が消耗していった様子が感じられました。ずっと頼れる人もいないまま、一人で頑張ってきたんだろうなと想像しました。だから、あなたがいま無事に生活保護を受けられていることに安堵しています。いま、あなたが動かない身体、重い心に鞭打って労働しなければいけない状況にはないことは良かったと心から思っています。

すべての人は人間らしく生きていく権利があって、生活保護はそのための制度であり、それを利用することに引け目を感じる必要は全く無いと私は思います。それに加えて、全ての人は人らしく扱われる権利があるし、個人が持っている能力を活かしながら生きていこうという声も聞きます。けれど、それらの理念とは裏腹に「普通に働けない/働かないのなら普通の生を享受する価値はない」というメッセージを社会で生きていく中で受け取ることが多いと感じるし、あなたの言う通りまだまだ個人の多様性は尊重されず、「普通」の枠から外れれば差別や排除、攻撃の対象になってしまうという悲しい現状であると思います。その社会のなかで今後も生きていくことを思うと不安と絶望でいっぱいになってしまうのは至極当然なことだし、私自身も常に先行き不安で過ごしています。

みんなそれぞれ能力のばらつきはあるし、今は何も不自由がない人だって、この先何が起きるかは分かりません。「普通」を強いる社会、「普通」とそれ以外の人の分断がある社会は、その社会に生きる人全員に不親切な構造になっていると私は感じます。「普通」の側に収まっている人は、現在の差別構造を内蔵する社会に不安を感じないのかなと私は不思議に思います。いつ自分や自分の近しい人がマイノリティ側になってもおかしくはないのに。私はすでに大分当事者側だけれど、「辛い思いをして普通に合わせるよう頑張ってくれ」とか「いなくなってくれ」という言葉をマイノリティ側に浴びせてもよいという雰囲気は絶対に容認してはならないと思うのです。それは誰の得にもならないからです。そもそも、「普通」の基準がだいぶ人に無理を強いているなあと思うところです。だから、「普通」の枠に収まっている人々もだいぶきついのではないか、と私は見ていて思います。

辛い中で無理をして頑張っていたら、心も体も病んでしまいます。それは人間らしい生き方とは言えないので、望むべきことではないと思うのですが…。必要なことは、全ての人が無理を強いられずに生きていけるような社会にすることで、この目標に向っていけばそれはもう多くの問題が解決するであろうという考えが私の頭には浮かんでいます。今の社会に生きていれば、散々苦しめられた末に、自分で何もかも終わらせた方がいいという考えに至るのも尤もなことだと思いました。否定すべきなのは、今の社会のあり方――勝手に「普通」を設定して、それから外れた人を排除し、経済的・心理的・社会的に追い詰めることの無いような社会になってほしいと強く願っています。

感想2

「疲れた私にはそう映る」というあなたの言葉から、疲れ果て、なにかに働きかけたり考えたりするのがむずかしい中で死がちらつく瞬間を想像しました。私自身も発達障害の診断があり、希死念慮、休職と退職などの経験の中で、選択肢がどこにも見つからない感覚には覚えがあります。
働いても働かなくても、生活保護をはじめとする社会福祉制度を利用しても、どんな状況でも私たちには当然の人権があります。でも私も「人間として扱われていない」と感じたことは何度もあり、それは実際人権侵害だったのだと思います。「人間として」というのは言い換えれば「意思を持ち思考を持つ個別の1人として」ということだと私自身は感じています。ここ数百年の流行りである資本主義経済が私たちの生活に影響力を与え続ける中、「機械的なパーツ」として人が扱われすり減らされてきている中で、「通常雇用の人間」でさえ「人間として」扱われていないのではないかと思うことがすくなくありません。そんな社会構造は破綻するしかないと思うのですが、どうなのでしょうね。
私たちは学校などではいわゆる「人権教育」はすくなくて、そもそも自分たちに当たり前に権利があることも、その権利を使って自分や周りの状況を改善するための方法がすでにいろいろあることも、教わっていない場合が多いと思います。また同時に、本当なら「頑張る」ことだけをよしとするのではなく、上手な休息とか、自分自身にとってどんな過ごし方が楽なのかとか、そういうことを学ぶ時間も子ども時代に十分すぎるくらいにあっていいはずだと私は思います。でも、実際はそうじゃなかった中で、私も、たぶんあなたも、社会というか会社的な構造が自分になにを求めるかではなく、自分になにが必要かということから出発して、社会の中でどんなサポートを受けながら生きるか試行錯誤することがとてもむずかしい実情があるのではないかと思っています。
「多様性と言いながら隠れた差別のある世界」という言葉については、私は「多様性」という建前があることで、ギリギリ起きないで済んでいる凄惨な暴力もあるように思っています。だから建前でしかなくてもないよりはマシ、だけど、実際問題ある差別はすべてなくなってくれと思うし、そのためにできることってなにがあるのだろう……と思います。そんなことばかりですね。差別解消の順番待ちをしているような余裕はだれにもないのに、すぐには変わらないことには諦念も起きますし、昨今の情勢の中では排除的なメッセージも広がっているようで絶望感もふくらみます。
私自身は、自殺に失敗した結果生きている現時点では「あの時死んでいなくてよかった」が優勢です。あまり働けないし、身体もぼろぼろで、痛みで眠れなくて死にたくなる夜もありますが、それでも、基本的には。だけど少なくとも、いかなる人も、地球の長い歴史の中たった百年程度で死ぬ中で、自殺が罪だとかいけないことだとも私は思いません。ただ、あなたがあなたの苦しさを自分ひとりで解決しないといけないと感じるような状況には、腹が立ちます。いずれくる死がどのようなものであれ苦痛に満ちたものでないことを願うと同時に、それまでの、生きているあなたに、歯を食いしばらなくていい緊張をほどけるような時間や呼吸がしやすい時間、できれば心地よさを感じるような瞬間があってほしいと、私は願います。私自身も、せめて私はなるべくなら私を人間扱いをしてやろうと、試行錯誤をしているところです。

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