私はこの4月から無職になったことで家に生活費を入れないまま、高齢の母と2人で同居しています。(母が入れなくていいと言っている)
買い物は母自身が行きたがるので任せていますが、「頼みたくなったら(心身が辛いと自分で感じたら)私に頼んでいいよ」と繰り返し伝えています。
私が無職になった理由は、うつ病の再発です。
一方で休職期間を経て退職し現在に至るまでの間、資格勉強などを続けています。
この半年ほどの間に人生で初めてやってみたことも多く、学んだことも多かったです。
この先1ヶ月ほどは、近場の用事以外は予定を入れず、また人混みが辛いし金銭的負担も考えると行きたい場所もなく、ひたすら資格試験に向けて勉強にフォーカスする日々になります。
物価の値上げはまだ終わりません。
昨年11月から休職していたので、求職活動期間を考えると、働かなくてなってから1年の空白ができそうです。
相変わらずな企業の経営姿勢、資本主義経済、搾取される労働者という構造…そういったものを見ているうちに、もう「雇われて働く」こと自体がバカバカしく思えてきました。
人を大切にしてくれる誠実な企業もあるに違いない…私は何度も何度も裏切られながらも20年近くそれを信じ続けようとしてきました。
けれど某資格試験勉強を経て、黒字なのに早期退職募集を行う多くの大企業や、スポットワークや外国人という安易な労働力の確保に飛びつくくせに労働契約の基本すら守らない…。もう、「誠実な経営者がいること」を信じ続けることができなくなりました。
企業という言葉自体が本当に嫌いで、私の感情に波が立つのです。「企業が大嫌いとしか思えない」自分が嫌いです。
まずは障害者雇用を目指し、そこから開業(本当に誠実な企業なら、勤務しつつその知識を生かしてもいいけれど)になりたいとは思っています。
けれど、もう75歳を過ぎた母と無職の自分、相変わらず変わらない格差拡大と弱者搾取の政治や経済、ネットやSNSにより激しくなった対立や商業主義、モラルの低下、壊れていく社会。
私は、絶望を見続けるために生きてるんだろうかと思っては否定してきたけれど、結局社会人になってからは落ちていく社会しか見ていません。
母の介護を終えて看取ったら、私もすぐにこの世から消えたい。
将来を考えるとき、いつもこの考えが浮かびます。
母が亡くなったら私の人生も終わりにしたい。
辛いものを見るためだけに生きることに何の意味があるの?
生きるために働かないといけないから、働かない代わりに生きるのを終わりにしたい。
価値観の違いを受け入れられない人たちの声ばかりが聞こえる地獄のようなネット社会が、政治家や専門家にまで浸透してきた。過激な言動ばかり。
3ヶ月に一度くらいの頻度で突然強く「消えたい」と思うことを、ここ10年ほど繰り返しています。
私がいることで何かの役に立ったり生きていてほしいと願う人がいることはわかっているけれど、今までずっと私は職場や社会、他者の感情に配慮して合わせてきた。
消えたいという自分の気持ちくらいは、尊重したいのです。
今すぐ何かをしたいわけじゃないけれど、消えたくて涙が出てくることが、何年経っても終わらないのです。
上記の心の声をAIに投げてみた結果、私はAIの限界を感じてしまいました。
別にAIが悪いわけではなく、AIはAIの最善を尽くして(しかるべきシステムに則り)適切と思われる回答を出力してくれたのだとは思います。
感想1
着々と道筋を見据えながらも、ふと動き続けられなくなるような瞬間があって、そのくり返しの中に消耗してきているような想像をしました。なんというか、本当にね、本当にそうだよ、とうなずくような言葉が文章の中にたくさんあって、こんなにも疲れながら、なぜ私は生きていなければならないのかと、誰かに問いただしたいような自分自身のわだかまりに触れながら、経験談を読ませてもらいました。
私たちが生きているだけで巻き込まれてしまうものは多く、人間社会の構造から無関係でいることはできない生き物だと思います。ただその構造は案外普遍的ではなく、人間の歴史の中で今のありようはかなり特殊だとも感じています。すこし前「急に具合が悪くなる」という映画を観たのですが、その中で日本の戦後の高度経済成長とは、結局はその後の数十年の前借りをしていただけだったのではないかという会話があり、たしかに……と思っていました。資本主義というのは、基本的にどこからか搾取することでしか成り立たない仕組みのような気がしますし、とくに今の新自由主義的な流れは、一部の極端なお金持ちに富を集中させることを加速させているようにも思います。
「人を大切にしてくれる誠実な企業もあるに違いない」という言葉には祈りのようなものを感じました。それに私も同意しますし、完璧ではないとしても、そうあろうとしている会社もあることを、私自身はある程度は観測している気がします。ただ一方では、実際のところ資本主義という構造自体が、下位(あるいは外部)を搾取し上位(あるいは中心)が潤うという仕組みを内在化していて、それに抗いきることのむずかしさも感じています。また、私たちはずっとその構造自体を当然視するように(他に選択肢などないというように)育てられてきたようにも感じ、一層のむずかしさを感じます。
そんなことを考えて、あなたの言葉を読みながら、私はそもそも「生きるために」と「働かないといけない」を切断したいような気持ちになりました。「雇われて働く」ことをバカバカしく思うと書いてありましたが、それは「雇われて働く」の絶対性から離れたところから見る視点ではないかと思います。
他者や環境に配慮し無理にでも適応することは、自分を少しずつ削り取るようなことにもなってしまいやすいと思います。違和感を覚えるような状況ではなおのこと。その中で資格試験の勉強をし、障害者雇用を目指そうと決めることは、絶望の中でのあなたなりの可能性というのか、道筋を探るようなことなのかなと想像しました。ただ私自身も「働かなければ死んでしまう」という意識を内面化しつつも、本当は「働く」も別に絶対ではないし、ほかにも生き方は無数にあっていいはずだと思う私もいるのでした。
読んでいて気になったのは、この文章の中に書いてあるあなたのありようは、公的な要素がとても大きいように感じたことです。社会の中でサバイバルすることは本当にむずかしくて、それが主眼となることは当然だと思います。また経験談の文章に生活のすべてを書く必要がないのも事実です。ただ、そこにほんとうに個人的な時間や自分のための過ごし方があまりないとしたら、あなたの感性を守ってくれるものがあまりにもたりないのではないかと、気になったのでした。
きっとあなたは基本的に、倫理を重んじつつもかなり合理的に考えて行動する人なのではないかと、勝手に想像しています。それはたとえば「理性」みたいなものかもしれないのですが、つまりは人間という体で言えば、思考を頼りに体を動かしていくトップダウン的な要素なのかなと思います。
「3ヶ月に一度くらいの頻度で突然強く「消えたい」と思う」とあり、だいぶ共感しているのですが、もしかしたらそれ以外のタイミングのあなたは理性で心身をコントロールしてなんとか生きてきたのかなと想像しました。体におけるボトムアップもいろいろあるし100%どちらということはなくて入り混じっているのだと思いますが、自分の経験で言えば、社会に過剰適応していると思考からはみ出た心身のサインはなかったことにしがちだと思います。私自身も探り探りではあるのですが、足が重かったらマッサージするとか、自分にちょうどいいお風呂の温度を研究するとか、あるいは心地いいと感じる音楽を聴くとか、なにかに熱狂するとか……そういうなにかが、あなたの生活の中にもあったらいいなぁと思うのでした。