経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

希死念慮が消えない

もう10年以上も希死念慮と闘っています。

子供の頃からそれなりに普通の人生を送ってきました。学業も仕事も頑張りました。きっとその先に素敵な事が待っているのだと漠然と感じていたからです。

ただ、10年前あたりから、大した未来は待っていないのではないか、この苦労が報われることはないのではないかと感じるようになりました。
こう感じるようになってから、もともと仕事をすることが大嫌いということもあり、頑張ることへの意欲は低下していきました。

このまま人生を継続していくことは困難に感じ、人生のステージが変われば、考えや見えている景色も変わるのではと言い聞かせ、結婚や昇進といった経験をしてきました。

しかし残念ながら、ステージは変わっても、希死念慮は消えませんでした。
それに気付いてからは、絶望感しか残っていません。
一体この世界で自分は何をしているのか、いつまでこの苦行は続くのか、今まで頑張ってきたことは何だったんだろう、こんなことなら子供の時に死んでいたほうがよほど幸せだったのでは、と色々な思いが駆け巡っています。

世の中のほとんどの人は、こんなことを考えずに幸せに生きているのに、なぜ自分はこうなのか?、きっと自分はクズだから半端者だからなのだろうと考えています。
自分も早く死にたいし、皆も自分のようなクズは早く死んでほしいと思っているでしょと思い、希死念慮の思いはますます強くなるばかりです。

個人的にはいつ死んでもいいと思っているのですが、仕事もあるし親もいるし周りに迷惑をかけることは望んでいないので、そこに踏み切れておりません。

毎日ニュースでは事故や災害で人が亡くなったと報じています。なぜ私ではないのか、自分の順番はまだかとニュースを見聞きする度に感じます。
不謹慎な言動だということは分かっていますが、私だったら良かったのに、世の中のためにも私だったら良かったのにと。

今考えると、私の場合、この世に生まれてきた瞬間に詰んでいたんだと思います。
最近、具体的な死に方を検索したり考え始めたりしています。

希死念慮というどうにもならない強大な壁に立ち向かうための時間稼ぎでここに書き込んでいるのでしょうか。
明日の朝、目が覚めない事が私の一番の望みです。

感想1

どこから出てきたのか分からない、しぶとい希死念慮に纏わりつかれている様子が浮かんでくる文章でした。体にぴったりくっついて離れない希死念慮を背負いながらも、自分の何かが変わればこれは消えるかもしれないという可能性を胸に、今まで人生を歩いて来たのだと思いました。私も同じく長い間希死念慮と付き合っている人間で、自分が何とか頑張れば状況が良くなると信じて突き進んでいた時期もあったので、あなたの落胆のぐあいが痛切に伝わってくるように感じました。

「頑張ればきっといいことがある」「自分が変われば状況が変わる」、慰めや激励としてそんな言葉をかけられることが多くて、私もあなたも多分それを信じてがむしゃらに頑張ってきたことだと思います。でも、何かを頑張っても、ライフステージが変わっても、そこには何かを頑張った後の自分、ライフステージが変わった自分、等身大の自分とそこに付き纏う希死念慮がいるだけで何も変わらなかった、そんな経験を私とあなたはしてしまったのでしょうね。希死念慮は自分とニコイチなのかと思うくらいに離れてくれないもので、腹立たしささえ感じてしまいます。仕事や結婚など世間一般に頑張っている、幸せと認められることをしていても、それが自分から湧き上がる死にたさを掻き消すことに繋がらない、そのもどかしさ。未来に希望が待っているからと言われたって、耐えられないほど辛いのは今なのだからなあ…とじたばたしてしまいます。

「希死念慮と立ち向かうための時間稼ぎで…」とあなたは書きましたが、私はそれで良いと思います。私はもう希死念慮と闘うことは諦めていて、立ち向かうこともやめています。何をしたってこれは消えてくれないので、永遠に時間稼ぎすることにしました。無くなってほしいのに無くなってくれないのだから、まともに取り合う必要もないのかな…そう思ったら私は少しだけ楽になりました。
「これがあれば死にたいと思わなくなるかも」という思考のもと行動するのではなく、日々の生活の中で体や心の状態がほんの少し楽になる瞬間、希死念慮がほんの少しでも薄まる瞬間を感じ取っていくこと、それを少しずつ重ねることで、希死念慮からできる限り長い間逃げられたらいいなと思います。

感想2

まさしく「闘い」のなかにいることを感じる文章だと感じながら読みました。私にも長らく希死念慮があるのですが、それが自分にとってどのような意味を持ってきたのかということを、改めて考えています。
この十数年、あなたの生活は希死念慮に脅かされる、襲いかかってくる中で、どうにかそれを潜り抜けるようなものだったのだろうと感じています。そして、文章を読んでいるうちに、もしかしたらそのように闘いの日々は、「普通の人生」を送ってきたと書かれている頃から、希死念慮を相手ではないとしても、続いていたのかもしれないとも私は思いました。
「苦労が報われる」というなにか素敵な未来ために、学校も、仕事も頑張ることが「普通」で「常識」って、この世の中では言われることがかなり多い気がします。今を未来に投資するようなイメージかなと思います。だけどそれにまじめに従えば従うほど、今の自分は苦しいし、それなのにいつまでも「未来」は訪れない。仕事自体も「大嫌い」だったとあって、なおのこと消耗は大きかったのではないかと想像しています。

個人的には、この投資的な生活モデル自体が、現代にうつを増やしているものの一因のようにも思います。ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品を知っていますか?モモが暮らしていた街の人たちはそれなりにそれぞれの生活を営んでいたのに、灰色の男たちによる「時間銀行」ができて、それを利用するようになってからみんな怒りっぽくなったり、なんだかおかしくなってしまいます。時間銀行では「時間を貯蓄に回したら、利子がつきますよ」といってみんなから時間を奪うのですが、それ自体が大きな嘘だったのです。『モモ』はその状況に一人の少女が立ち向かう話なのですが、現代社会に生きる人は、ほとんどだれもが生まれた時から「自分の人生の時間の投資」をすることが当たり前という価値観の中を生きてきていて、親も学校の先生もモモでいうなら「時間銀行を利用しないなんてバカのすること」というようなメッセージを発していることがとても多い気がします。その中で、日々の生活や日常的な回復を後回しにせざるを得ない状況ができあがってしまうように感じています。
結婚や昇進は、あなたにとって喜ばしいことではありつつ、それは「ステージをのぼる」ことではあっても、あなたの安寧や回復につながるものではなかったのだろうかと思いました。

私について考えてみても、希死念慮との最初の十数年は、まさに襲いかかってくる希死念慮vs私の決死の闘いという感じだったと思います。当時は自分が無理をしていることにも気づいていなかったし、頑張って回復に専念しているつもりでも肩肘張ってしまっている部分が多く、自縄自爆の感覚がありました。最近になって、希死念慮は自分の体からのメッセージでもあって、頭で押さえつけるほどに取り返しがつかなくなるのだと実感するようになってからは、体を思考に従わせるのではなく、思考を体に沿わせる練習をしている気がします。またその過程には、「死にたい」「死ぬべき」という言葉や感覚としてしか理解していなかった希死念慮が、すこしずつ「苦しい」「疲れた」「もう動きたくない」とか「怖い」「不安」とか、さまざまな思いの混ざり合ったものとして触れられるようになってきたということもありました。いまだに希死念慮はあるのですが今は「一緒に生きている」という感じだなと思っています。
自分語りをしまくってすみません。希死念慮という言葉では同じだとしても、その中にある思いや苦しさは、あなたも私もそれぞれ違うと思うし、同じ経過があるわけでもないと思うのですが、一例として書いてみました。

あなたは「自分はクズだから半端者だから」と書いていて、それは裏を返せば「クズ」や「半端者」になりたくない、そういう自分でいたくない、あるいはそれでは生きていけないというような強い焦燥感があるのではないかと思いました。私はどちらかといえば、もっとみんな半端になればいいと思います。というか、本当はほとんど全員が「半端」であるはずなのに、それを隠して「普通」を運営するような世の中を変えていかないことには、たぶん、世の中の苦しさは募っていくばかりなのだろうと思います。あなたはきっと戦いの論理以外での生き方をあまりしてきていないのだろうなと、文章から感じます。でも生き方はそれだけではないはずだし、あなたにとってしんどさから気を逸らしてぼんやりしていられる時間があったらいいなと思っています。

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